第18話 攻撃(Der Angriff)

 皆で呑んでいる分には、オイゲンという名の青年は好漢だった。

 恋人の歌姫アンナをうっとりとした目で見上げ、その美しさと妖艶さを讃え、弟のように甘える。

 他の男性演奏家たちと自分にはわからない音楽の話で盛り上がると、途端に拗ねて振り向かせようとする。

 母親に甘える子供のように分かりやすい恋する姿は、一同が目にしてきた、褐色の制服に身を包んだ無秩序な暴力青年とは全く別だった。

 そもそも演奏会場のビヤホールでの打ち上げにも


「もしもの時には俺がいた方が安全だから」


 と誘われてもいないのに参加したくらいだ。


「いつもの制服じゃないのね。あの恰好も素敵だけど、今日は一段と男前だわ、坊や」


 ささやくアンナの甘い声と表情に、青年はわずかに顔をゆがめた。


「ここに来る前にちょっと警察に立ち寄って来たからな」

「……ごめんなさい。茶化しちゃって気を悪くした?」

「いいや」


 オイゲンは意味ありげに、そして驚くほど下手くそなウインクをすると、皆に追加のビールを注文した。

 初めて会った時のアンナへの卑猥な暴力や、ハイエナのような学生たちへの襲撃からは想像もつかない穏やかさだ。

 もしかしてこいつは、そんなに悪いやつではないのではないか。

 悪名高い暴力集団SAも、ひとりひとりは最低限の常識を持った普通の男なんじゃないのか。


 大声や放歌が飛び交う騒々しいパーティーの合間に、オイゲンは指揮者のイサーク・ヅィンマンにそっと近づいた。


「おい、ユダ公」


 背後から肩を叩かれどきりと振り返る先生に、若者は涼しい顔でささやいた。


「俺たちはそろそろお開きにしないか ?」

「俺たちって……」

「俺とあんただ。今から一緒に帰るんだよ」

「まだ宴もたけなわなんだが……」


 ユダヤ人の教育家とナチス突撃隊(SA)。ありえない二人が近しく話している様子

 を、学生たちが心配げに観ている。

 ヅィンマン先生は生徒たちにウインクをし、安心させた。

 こちらのウインクはさりげなく上手だ。


「あんたは俺と帰った方がいい。自分のため、こいつらのためにも」

「わかった……」


 急用が出来たんでお先に帰るよ、と酔っぱらった学生たちに声をかけ、先生は荷物を取りにホールの隅に向かった。

 古ぼけた鞄の中から財布を取りだそうとするのを、そばかす顔の若者は留めた。


「それは下着の中にでもしまっておけ。金ならさっき、俺が全員分払った」


 ナチスは気前がいいな。その若さで20人分の飲み代を払えるとは。

 ヅィンマンは自分の生徒たちよりずっと若い彼を、子供と見ていいのか、敵と見るべきなのか迷った。


 夜更けのベルリンの町を二人の男は並んで歩いた。

 前回街角で痛めつけられた経緯があるので、ヅィンマンは彼から離れたかったが、オイゲン青年は


「もっと近くに寄れ。でないと痛い目に遭うぞ」


 と脅した。

 羽振りのよい連中の多い市の中心部を歩くうちに、ヅィンマンは気付いた。

 この男は自分の周りに絶えず注意を払い、にらみを利かせている。

 さらに言えば、ユダヤ人である自分を守ろうとしている。


「君の目的はなんだ ? 集まりから僕だけを引き離して一緒に来いとは。このまま君たちの詰所に直行かね」


 まさか、と言いたげに若者は鼻で笑った。子供らしさがまだ残った『ゲルマン的』生命力あふれる顔だ。


「そんなことをしたらアンナから半殺しにされて、キンタマを食いちぎられる」

「そうか、君たちは恋人同士なんだな。恋人というより弟とお姉さんに見えるが」

「先生は、彼女の本当の可愛らしさを知らないんだよ。大人のくせに」


 随分生意気な事を言うな、とヅィンマンの緊張もやや解れた。


「そのまま話し続けろ。帽子は深く被れ」

「え?」


 建物の影に時折り入りながら、彼らをつけてくる男達がいた。

 わざとこちらを無視するように適度に距離を取っている。

 オイゲンは酔って道端に吐くふりをして、立ち止まった。

 男達が彼らを追い越していく間際、ヅィンマンは言われた通り帽子の鍔をさっと下ろし、顔を観られないようにした。


「そうだ。うまいぞ」

「どうも。でも引き渡されて、彼らにリンチを受けるかと肝を冷やしたよ」


 そう言われるのも無理はない。

 オイゲンは先生の腕をしっかり抱え、まるで連行しているようだった。


「あんたは荷物をまとめてすぐこの国を出ろ」

「え?」


 突然の言葉に、ヅィンマンは眼鏡の奥の目をしばたかせた。


「あんたは自分たちの立場が今の状況より良くなると思ってるか? 思わないだろう。図星だ」

「だが内閣の首長になったし、君達のヒトラーもそうそう無茶はしないだろう。少なくとも今までよりは……」

「あんたは脳みその中で、お花が咲く渓谷でも耕しているのか?」


 オイゲンは口をへの字にゆがめた。


「あんたたちユダヤ人はこれから国を追い出される。いや、もっと悲惨な目にあうかもしれない」


 その予兆はヅィンマンも感じていた。

 先ほどはもう無茶はしないだろうと言ったが、ヒトラーのような野心家は、何かを掴んでも全てを手に入れないと不安で仕方がないものだ。

 身よりもなく天涯孤独で、音楽だけが相棒のヅィンマンだが、おいそれと国を出られない事情はあった。


「簡単に言うけど、そうはいかないんだよ。僕の生徒たちは、僕の指揮と指導で演奏したがっている」

「無理だ。じきにユダヤ人の作品は上演できなくなる。お仲間の演奏家や指導者がどういう目にあっているか、お前も知っているだろう」


 ヅィンマンは黙り込んだ。


「忠告する。あんたは国際コンクールに参加するなりして、スイスにでも逃げろ」


 ヅィンマンは、顔中にそばかすの散った青年の白い顔を見た。

 凶暴だとばかり思っていた無鉄砲な青い目は、美しく澄んでいる。

 思い出した。

 ナチ党に賛同し集いに喜々として参加する老若男女たちの目は、みな一点の曇りもなく澄んでいるのだ。

 教師は若者の手を握った。


「君もそこまでわかっているのなら、突撃隊なんか抜けてしまえばいいのに。アンナと一緒に、彼女の故郷のフランスへでも」

「俺は逃げられない。あるものを見てしまったから、もう無理なんだ」


 オイゲン青年は不思議な言葉を吐いて、それっきり黙り込んでしまった。



 語り合っているわけでもないのに、彼等の歩みは遅かった。

 ヅィンマンが疲れていると思ったのか、若者の長い脚は小柄な先生の歩みに合わせてあった。

 しばらく沈黙のまま歩いた2人は、クロイツベルク地区グロースベーレン通りの、ヅィンマン先生のアパートの近くに着いた。

 このあたりはシュプレー川からやや離れた、昔からの移民の多い街だ。当然ユダヤ人も多い。


「送ってくれてありがとう。もう大丈夫だよ」

「俺が言うのもなんだが、さっき話したことは全て本当だ。よく考えて速やかに行動しろ」

「僕は、君を誤解していたようだ。もっと破滅的な男かと思っていたよ」


 そういうヅィンマンが、誰よりも突撃隊員オイゲン・ザックハイムの言葉を信じていないのだ。


「ああ間違いない。お前の見立ては正しいよ」


 若者は白い歯を見せて笑い、先生から離れて後戻りした。

 恋人のアンナが急ぎ足で彼らを追って来ていたからだ。


「あんた、先生と何を話していたの?」

「別に何も。公演が良かったよっていう話だけさ」

「うそ。みんな心配してたのよ。あんたが先生を……」

「シュプレー川に叩きこむかもしれないってかい?」


 そんなことをこの幸せな夜にするわけはないじゃないか。素敵だったよ、アンナ。

 オイゲンが囁きながらきつく抱きしめた時、罵声と物の割れる音、男の叫び声が聞こえた。

 あれは先ほどヅィンマンと別れたアパートの前だ。

 アンナの悲鳴に、オイゲンは狼のごとく引き返した。

 目線の先には、酔っぱらった自警団の男達に袋叩きにされるイサーク・ヅィンマンの姿があった。


 彼らは自警団とは名ばかりの、制服の権威だけで一般人を弄んで来た、浮浪者一歩手前の男たちだ。突撃隊員の恫喝と制裁に敵うわけはなかった。

 足を払い、顔面と腹に数発の拳を食いこませ、ブーツの踵であばらを踏み折っただけで命からがら逃げて行った。

 鼻血に塗れて路上に倒れ、顔が別人のように腫れあがったヅィンマン先生は、瞼も塞がって目が見えないようだった。わき腹を押さえて呻いている。

 オイゲンはアンナに手伝わせ、彼を背負った。

 ミッテ区ローゼンターラー通りの、彼等の住処に連れて行くのだ。


 見物人を怒鳴りつけて追い払いながらアパートの近くまで来ると、彼はアンナに医者を呼びに行かせた。

 一番近いのは腕のいいユダヤ人の医師だが、自分達突撃隊員の嫌がらせに耐えかねて、家族共々イギリスに行ってしまった。

 二番目に近いのはウイーン大学から来たという医師だが、専門は小児精神科だと断られた。

 結局、街場で酔っ払い同士の喧嘩や追いはぎ被害者専門の、もぐりのような医師にヅィンマンは処置された。

 顔の打撲とあばら骨のひび、そして捻挫と脱臼が、先生の負った傷だ。

 アンナとオイゲンはずっと彼に付き添っていた。

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