第13話 アンナの恋人・2
「こんにちは。伊達男さん。今ピアノのご機嫌を取っているので失礼」
「いや、何もしないよ。だって今お前は一人。ユダヤの虱野郎と一緒じゃない」
ヅィンマン先生のことか。心の先が波だったが、黙っていた。
同じ『差別』はどこでも満ち溢れている。
朝鮮育ちのキムの事も、東京の音大でも教授や助手たちが「大蒜くさい」「言葉がおかしい」と嗤っていた。その上自分は彼を護ろうとしたこともない。
他人の事に首を突っ込まない方がいいぞと、日本の親も言っていたではないか。
「他人」「別の人」そう、これはその人の問題なのだ。
「お前、小さくて細い割にはよく戦ってたぞ。ヤーパンブシドーでも習っていたのか?」
男は目を輝かせシンノの手先を見ている。まるでおもちゃに向かう子供のようだ。
その視線の先には、ピアノの最後の調整にかかる日本人の若者の指先。
へえ、中身はそんな風になっているのか。それでどうやって、こんなきれいな音が出るんだろうな。
呟いて少しずつ近寄って来る青年に、不思議と恐怖は感じなかった。
「君、見事な技術に敬意を表して、ビールを奢らせてもらっていいかな」
改まった言い方に、シンノは目を見張った。
「先日は君らを殴ってしまって、悪かった。ユダ公だけを標的にすれば済むものを。アンナにも叱られたよ。あとで機嫌を取るのが大変だった」
金髪に青いつぶらな瞳、そばかすだらけの幼さの残った顔が、照れくさそうに見返す。
話に聞く通り、随分若いんだな。
興味津々で手もとをのぞき込む突撃隊員に、シンノは微笑んだ。
「申し訳ないが、さっき店主にもらった温かいリンゴ酒が、もうだいぶ回っているんだ。今度会った時にお願いするよ」
ひ弱な男だな。見た目も中身も同じか。そう突撃隊員は毒づいた。
「弱い奴は、生きる価値がない」
「オイゲン、そんな言い方はよして。彼は仲間を護るためにあなた達と戦ったじゃないの」
「『生きるに値しない命』を護るため、というのも笑わせてくれるがね」
楽屋から現われシンノを庇うアンナをじろりと見た男は、手で髪を撫でつけ、悠然と衣服を整えた。
楽屋の中で何をしていたか、シンノに見せつけるように。
「お前、名前は?」
「シンノゼンジロウ」
ヤーパン氏はみんな奇妙な名前をしているんだな。
他に日本人を見たこともなさそうなドイツ青年は、小馬鹿にしたように呟き、出口へ向かった。
ブーツに覆われ真っ直ぐ伸びた長い足が地面を蹴ると、かつかつと小気味の良い音がする。
体格の面ではどうあっても彼らには勝てないな。
シンノは楽譜を持つ手をそっと握りしめた。
と、金髪の突撃隊員はくるりと踵を返した。
速足で間近まで戻ると、ぐっと顔を寄せる。
殴りかかられるのかとシンノは身構え、アンナは駆け寄ろうとした。
「手と腕と指は大丈夫か? この前大分痛めつけたからな」
シンノとアンナは大きく目を見張った。
「詫びを入れようというのか? 突撃隊員がこの日本人の小男に」
「詫びてなんかいない。確かめたかっただけだ。楽器は弾けるのか? 」
青い目を寄せて、じっと彼の手もとや腕に目を走らせる。その顔つきが奇妙にあどけなく、ぶっきらぼうな言い方と共に子供臭さを感じさせた。
「お前たち音楽仲間がポンコツになると、俺の天使が悲しむからな」
オイゲンと呼ばれた青年は、ジョッキの底に残っていたぬるいビールを飲み干し、アンナの艶やかな髪に口づけして帰って行った。
「君のアパートで待っている」
白い歯を見せて笑った顔は、どう見てもギムナジウムを出たばかりの少年だ。
アンナはやれやれと言った笑顔で見送った。
「ああいう男と付き合うと、後々面倒だよ、アンナ」
それはそうと、と楽譜とノートを渡したシンノは、ページを開くと、細々とした変更点やヅィンマン先生によるオペラ・ボエームの注意書きを、丁寧に説明した。
ろくに稽古に出られないアンナにとって、情報の共有は何より大事だ。
「彼は突撃隊の、有望株だろう? 」
「ええ。なんでも一番偉い人の副官、ハイネスという人から気に入られているって言ってたわ」
エドムント・ハイネス。突撃隊員の中でも特に評判の悪い男だ。
同性愛者であることを隠さない突撃隊トップのエルンスト・レームの副官で、誰よりも残忍で冷酷な闘争を仕切っているという男。
彼にもまた同性愛者でレームの恋人という噂があった。
だがそのハイネスの『お気に入り』という青年オイゲンは、どこから見てもアンナにべたぼれしている。
「アンナ、自分の安全を考えなよ」
「ええ。自分の安全と得は充分に考えているわ。彼の情人なのも自分のため、オペラカンパニーの皆のためよ」
気怠い笑顔でシンノの心配は受け流された。彼は話題を変えた。
「オイゲン氏、笑うとすごく若く見えるんだね」
「まだ17歳なんですって。フランスにいる弟と同じ年よ」
「ああそういえば前に聞いた気がする。でも君そんな……子供と本気で付き合っているの?」
驚いて尋ねるシンノに、アンナは艶然と微笑みかける。
だがヒールを履いた素足のつま先だけが、いらいらと忙しなく動いているのを、ピアニストは見落とさなかった。
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