第12話 アンナの恋人・1
真冬のベルリンの大通りを、大勢の威勢のよい歌声が聞こえてくる。
茶色い突撃隊の制服を着た若者たち。
同じく黒く太いネクタイ、上着と同じ茶褐色の半ズボン、茶色い帽子の少年たち。
赤、白、黒に染め抜かれた党旗を捧げ持つ、これまた茶色の上着に白いブラウス、茶色いひざ丈スカートの少女たち。
それらの集団が群れを成して行軍しているのだ。
子供たちは道幅いっぱいに広がり、万歳を叫び、ヒトラーユーゲントの歌を歌っている。
歩道に集った街の人たちは声援を送り、笑顔を向けていた。
一方、子供たちの力強い行軍を、暗い顔で見つめている大人たちもいる。地味な服に荒んだ顔つきをした労働者だ。
帽子に長い髭の大人たちや、黒い目黒髪の女たちもそっと通りから外れ、目立たないよう細道に逃れる。
ヒトラーを首相にせよ、ナチ党を政権党に。
シュプレキコールが凍るような北風を圧し、従え、唸りを上げて通り中に響いていた。
不景気が満ち満ちたベルリンの町は、昨年より一層不穏な空気が流れている。
ニュルンベルクで、デュッセルドルフで、ハンブルクで、ミュンヘンで、街角の至る所で社会党や共産党のシンパがデモを繰り広げていた。
大きな工場の工員、小さな町工場の職人、くびになった店員、事務員。
みな仕事と自由と求め通りに出て仲間と合流し、気勢を上げていた。
その列にフライコール(義勇兵)や突撃隊、その仲間たちが武器を持って襲い掛かり、デモ隊をクモの子のように蹴散らすのも、路地に逃げた参加者を追手が叩きのめし、息も絶え絶えのうちに捨てられた労働者が息を引き取る光景も、もはや市民にとっては見慣れたものになった。
似た年ごろの家族がいる見物人は、それでもぼろ雑巾のように転がる労働デモ参加者に手を差し伸べようとするが、すぐに興奮した民兵たちに蹴散らかされ、脅されるのだ。
人はイデオロギーでは動かない。
身に迫る暴力と、無力感が人を動かす。
ナチスには逆らわない方がいい。
ナチスを止めるはずの組合や野党にしてからが相争い、ナチ党員に迫害されてもなお殺生沙汰まで起こしている。
この期に及んでも。
ドイツの人々は次第に『どちらも同じじゃないか』と諦めていった。
「寒い寒い。誰も来ていない……ですよね、マイスター」
カバレットの裏口から、シンノが飛び込んできた。
相変わらず仕立てのよい生地のコートに、手を保護する分厚い手袋をしている。
午後6時。
真冬の日本ではもうすっかり夜という時間だが、緯度の高いベルリンでは、まだ空は明るく、薄墨を流したような空の青灰色が少しずつ濃くなっていくだけだ。営業開始まではまだまだ時間がある。
「おうシンノ。ちょうどいい。昨日突発で入ったピアニストにかなり無茶な演奏をやられてな。鍵盤と弦の調律が具合悪くなっているかもしれん。ピアノを診てやってくれないか」
「困りますねえ。ゴリゴリの表現主義じゃあるまいし、そんなに特殊奏法が必要な曲はお店のレパートリーにないでしょう」
無調音楽や「新しい音楽」を追及する一部の演奏家の中には瓶や棒、肘や拳骨で鍵盤をたたいたり、鍵盤を外して直接ピアノ線をはじいたりと、過激な演奏技術を使う者がいる。
シンノも知ってはいるが、繁華街の大衆を相手にする酒場のバンドで駆使されるとは思わなかった。
「なんだか刺々しい、誇り高そうな学生だったねえ。成績優秀でお偉いのはいいが、そう勝手なことをやられちゃ困るんだよねえ。お客さんも半ばあきれていたし。同じ音大生でも君みたいな柔かい演奏をしてくれる方が、聞いていてリラックスできるよ」
「ありがとうございます。あ、何か温かいもの飲みたいな」
シンノは手袋を外し、顔と耳を寄せて入念にピアノを視た。
外観、傷の有無、鍵盤の沈み具合、ばねの戻り。少しでも不具合はないか、歪みや共鳴を損なう破損はないか、全てのパーツを調べる。
さすがにこの場で、弦のゆるみや張りのバランスまで点検するのは無理だ。
調律用の専用の器具は置いてきたので、常に持ち歩いている音叉の響きが頼りだった。
ポン、とイスの端にUの字の腕部分を打ち付け、尻部分の柄を耳に差し込んで、空気を震わす微かな響きを聞きながら、ゆっくりと音を重ねていくのだ。
音叉の響かせる音は、鳴り始めこそ微かな雑音が混じっているが、すぐに純粋な音になる。その440ヘルツの「A」音との差を確かめながら、鍵盤を微調整していく。
「指がかじかんだら仕事にならんだろう。これでも飲みな」
カバレットのマスターが、湯気の立つ分厚いカップをテーブルに置いた。
甘くフルーティーな香りと、いくつものスパイスの香りが重なり合い、鼻をくすぐる。
「ありがとうございます。珍しいですね。こんな美味しそうなものをすぐに出してくれるなんて」
「他に誰もいないからな。特別だ。バンドの皆がいる前で出してみろ。踊り子も歌い手も、果ては世話係の小娘たちまで欲しがってかなわん」
小柄で赤い鼻をした、ビヤホールのスタッフという職以外考えられない、見事に丸い体形の中年男は、自分もカップを傾けグイッと呑んだ。
「アプフェルプンシュ(apfelpunsch)だよ。スパイスとリンゴを薄い紅茶で甘く煮込んで、つぶしてお酒を入れたものだ。本当はラム酒やブランデーだろうけど、俺の故郷のリンゴのワインを使ったよ」
「へえ、美味しいですねえ。リンゴの飲み物なんて初めていただきました」
「アジアにもリンゴはあるのかね」
鼻をすすりあげながらどろどろの甘いリンゴ酒をすするマスターに、シンノは微笑んだ。熱いものを飲むと鼻水が出てくるのは東西共通のようだ。
「日本にもリンゴはありますよ。アメリカから農業指導の先生が持ち込んだと聞きます。でも高価で、病気になった時くらいしか口にできません」
「アジアもドイツも、貧しき者は苦労するよなあ」
さて、もう少しだから終わらせてしまうか。バイオリンの絃の調節もある事だし、新曲の準備もしておかないと。
「おいしかったです。ありがとう」
シンノがリンゴ酒の最後の一滴を飲み干した途端、楽屋から威勢のいい若い男の声が聞こえた。それに、絡まり合う低く甘い女の声。
アンナと、男は誰だ。まさか。
「ああ、若い軍人さんが来てるんだよ。アンナの支援者だと言い張ってね」
「爺さん、残念だが俺はただの軍人じゃないぞ。栄えある突撃隊の、一員だ」
軽やかな声と靴音が聞こえた。この踵の音には聞き覚えがある。自分とヅィンマン先生たちを散々蹴り飛ばした長靴の音だ。
「ようヤーパン。さっきから調子っぱずれの音が聞こえてくると思ったら、お前だったのか」
褐色のシャツを着崩し、逞しい胸元を露わにした金髪の青年……突撃隊員が、出演者控室の中から現われた。
シンノはゆっくり顔を上げ、目を合わせた。そしてまたピアノに向かった。
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