第11話 嵐の前・2
音楽学校の北門近くの古い小売店街に建つ文房具屋は、学生がよく行く定食屋や肉屋、薬屋の並びにある。白髪頭の70代くらいの老夫婦が切り盛りし、雑誌やタバコ、マッチ、キャンディ等のちょっとした駄菓子や日用品も扱う、何代にもわたり重宝されている老舗だ。
「こんにちは。おじいさん。印刷用の紙を買いに来ましたよ」
ヅィンマン先生を先頭に、学生たちは連れ立って店の中に入った。
「いつもの厚手の紙を50枚。色はそうだな……薄いベージュ色があったらそれを」
「帰れ」
店主の冷たい返答に、一同は固まった。
「帰れと言っているんだ。今すぐに」
「そんな。欲しいものを買ったらすぐ帰るよ」
イワンが横から口を出した。
「ユダヤ人の一味に売るものはないと言っているんだ。すぐ出て行け。でないと突撃隊を呼ぶぞ」
顔も上げず店主は言い放った。
つい三日前は、愛想よく糊とインクを売ってくれたのに。この豹変ぶりは何だ。
「聞こえんのか。ユダヤ人お断りの店なんだ、ここは」
足早に店の表に回ったキムが、あわてて戻ってきた。
「先生、表に貼ってあります。ユダヤ人お断りっていう紙が……」
「そんなの昨日は貼られていなかったじゃないの。なぜ急に」
ミリヤナが呟いた。
今まで愛想よく応対し、時にとっておきの紙やインクを奥から出してきたくれた文房具店は、一夜で豹変し、ヅィンマン先生を敵と言い出したのだ。
「仕方ない。そうなってしまったのなら抗っても無駄だ。お邪魔したね、店主殿」
ヅィンマン先生は静かに言い残すと店を出た。
通りに出て振り返ってみると、ドアの表に『ユダヤ人出入り禁止の店』と書かれた厚紙が貼られていた。まるでヅィンマン先生の来店を知り急いだような、殴り書きだ。
ドアが細く開き、店主が顔を出し、叫ぶ。
「二度と来るな、ユダヤ野郎」
通りを歩いている学生や通行人、街角でお喋りをしている人たちが、一斉にこちらを見た。白髪の店主夫人が、たしなめるように夫の上着を引いていた。
「仕方がない。ミリヤナ、イワン、二人で買ってきてくれるかい ? 学校に運ぶのは皆手伝うから」
「そんなに重くはないでしょうから大丈夫ですよ。でも先生……あれは……」
「これが『力』というものだ」
釈然としない顔のミリヤナとイワンが文房具店に引き返すのを見ながら、ヅィンマン先生はキムとシンノと路地で待った。
「それは出来ない。あんたたちはあのユダヤ人教師の弟子だろう。異教徒の教え子たちに物を売る事は出来ないよ」
「先生は帰ったよ。あんたに売ってもらえないから別の入手ルートを考えるってさ。だからあたしたちは別の用事で来た」
「俺たちは音楽学部じゃない。美術専攻の絵描きだ。今度はクロッキーの先生に頼まれて来ただけだ」
2人はわざとせかせかと答えた。
「本当かい ? 信じられないね。さっきの今じゃ」
店主はとっくに見破っているはずだ。
「本当に人づかい、生徒づかいが荒くて困るんだよ、うちの先生方は」
「本当に美術の先生から頼まれてるのか、確認したいんだけどね」
ギョロッとした目をで二人を胡散臭そうに見る店主の顔を見ると、もうこの店には来られないなと二人は悟った。
「俺たちは構わないけど、いいんだな? 音楽学部だけでなく、絵描き連中まで敵に回すことになっても」
「ここが不愉快なら他所で買うだけの話ですよ。ちょっと足を延ばしてもね」
「ナチ党の党首は画家だったというのに。この店は絵描きに冷たいって、突撃隊に伝えておくよ」
絵描き2人のしつこさに、店主は渋々紙を渡した。
文具店を出た途端、彼らの目に、通りに引きずり出される3人の男達の姿が飛び込んだ。
黒いコートに黒い帽子の小柄な男、もう一人も仕立てのよいカシミヤのコートの小柄な東洋人。その2人を追って来た東洋人は長身で胸板が厚く、野暮ったい制服を着たドイツ人の男達よりも体格よく見える。
「JudeとJapanerが、このベルリンで何をしようっていうんだ ?」
三人を取り囲み小突き回しているのは、警官を模した制服を着た、数人の男達だ。
国内にいくつも存在する義勇軍のひとつの制服だが、おそらくはごろつき、ならず者だろう。
足取りが不確かで、シンノたちを罵る口調もろれつが回っていない。
明らかに酔っぱらっている。ある意味突撃隊より危ない奴らだ。
体の大きいキムが他の2人を庇い、酔っ払いたちの間に割って入ると、彼等は一斉に殴りかかった。
反射的に飛び出そうとするイワンを、ミリヤナが止めた。
「待ちなさい」
「なんだよ。黙って見てろっていうのか?」
「違うわ」
ミリヤナは黙って両手を差し出した。
「紙よ。貴重な買い物だから私が受け取っておく」
頭の回る女だ。舌打ちをして、大量の紙束をミリヤナに渡したイワンは、コートを脱ぎ彼女の肩にかけた。
「なけなしの外套だ。預かっていてくれ」
酔っ払いたちはユダ公、豚、ネズミどもなど、聞くに堪えない讒言を繰り出し、三人を蹂躙している。
日本人だから朝鮮人だからと言って、手加減はされなかった。
大島浩陸軍駐在武官が、ナチス党首脳陣と親密な関係を築きつつあるとはいえ、ヒトラーの『我が闘争』の中で野蛮國扱いされている日本は、ナチス党信奉者にとっては敵なのだ。
もっとも今、ヅィンマン先生やシンノ、キムに絡んでいるならず者たちが『我が闘争』を通読しているとは思えないが。
酔っ払いたちがヅィンマン先生の顔を拳で殴り、眼鏡が吹っ飛んだ。
道路に転がった眼鏡を仲間の男達が即座に踏みつぶす。
ブーツの靴底の下でレンズが砕ける音がした。
庇おうとしたシンノの腹にも拳が叩き込まれ、前かがみになった所をさらに蹴り飛ばされる。
コートと白いシャツに、ごろつきたちのブーツの黒い汚れが付いた。
遅れてその相手を叩き伏せたキムは、背後から殴られ前のめりに倒れた。
帽子が飛んだ。
東洋人の仕立ての良い生地のコートを、ドイツのごろつきたちが歓声を上げて踏みつける。
倒れても引き起こされ、何度も殴り飛ばされるヅィンマン先生の顔は、鼻血で真赤に濡れている。
イワンが猛然と飛び込んでいくが、たちまち羽交い絞めにされ、何発も蹴りを入れられ倒れそうだ。
「イワン!ヅィンマン先生 !」
突然女の叫び声が響いた。
通りに隠れ、大学に加勢を頼もうと走り出したミリヤナが、はっと顔を上げた。
真赤なイブニングドレスにエレガントなコート。ハイヒール。つややかにカールした豊かなブロンド。
絹地の小さなバッグを投げ出して走り寄る女は、ムゼッタ役のアンナだった。
「アンナ、こいつらは知り合いか?」
突撃隊の褐色の制服を着崩した、長身の若者が彼女を追いかける。
「そうよ。私が歌っているオペラの仲間の大学生たちよ」
邪魔な女が来やがったと、アンナを突きとばそうとしたならず者たちは、大股で現れた突撃隊の男と、その手下の姿に慌てふためいた。
「お前ら、そこまでにしろ。後は俺があずかる。いいな」
突撃隊の若者が短く強い口調で命令した。
いくら酒臭くとも、着崩した制服の首元に盛大なキスマークがついていようとも、突撃隊の隊員であることは明らかだ。
獲物を鼻先で盗まれた野良犬のように、地面に転がるヅィンマンたちを憎々し気に睨みつけ、チンピラたちは去った。
キムとシンノがいち早く体を起こし、自分達のそばにふんぞり返る男を見た。
過日酒場で歌うアンナにしつこく絡み、皆で巻いて逃げた、その若い突撃隊員ではないか。
「お前達、立て」
キムとシンノは立ち上がった。目は男のそばでうつむくアンナにくぎ付けのままだ。
最も激しく暴行を受けたヅィンマン先生は、起き上がる事が出来ず、地面に倒れたままうめいている。
アンナが泣きそうな顔で駆け寄った。屈んで介抱しようとした手をシンノが止めた。
「手が汚れますよ、お嬢さん。せっかくの綺麗な手だ」
そのシンノはヴァイオリンとピアノ奏者の命である手を庇い、腹や胸、背中に数多くの打撃を受けた。
「これが君の先生かい? このユダヤ人が」
取り巻く街の人々やシンノたちの視線を受けて、アンナは小さくうなづいた。
白い頬を涙が伝う。
「泣かないでくれよ、愛しいアンナ。お前達、この指揮者をベーベル広場の医者の元へ連れて行け。俺の名前を出せば何とかなるから」
突撃隊員はポケットから手帳を出し、医者の住所と名前と簡単な伝言を書きつけると、ページを千切りミリヤナに渡した。
「惚れた女の涙は見たくない。さあ行こう。あとは大丈夫だから」
アンナの細い肩を抱きかかえ、突撃隊員は去っていった。
「アンナ、あのナチ野郎をひどく嫌がっていたのになぜ……」
「男と女なんて、どう転がるかわからないさ」
キムの呟きをシンノが遮り、イワンの手を借りヅィンマン先生を抱き起こした。
「さあ、早く先生をお医者へ」
オイゲン・ザックハイム突撃隊大尉
メモ書きには『茶色の男』の名前が書かれていた。
1月28日 シュライヒャー内閣総辞職のニュースが街を流れた。
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