第10話 嵐の前・1

 バリトンのキム・スギョンは、1923年朝鮮半島の釜山で生まれ育った。

 金田雄一という日本名(通名)を持っている。

 商人の息子として生まれた彼は、学齢に達すると父の仕事で京城へ引っ越した。

 転居先は外国の商人や公使、学者や宗教人などが住む郊外の住宅地で、海外との商いに成功した両親は、当時としては珍しく息子を西洋式のスクールに入れた。

 当時の朝鮮児童教育は、昔ながらの物知りの古老が教える寺子屋方式の私塾か、西洋からもたらされた教会の経営するスクールだった。

 いわゆる「日曜学校」の朝鮮版である。それにとって代わっていくのが宗主国として統治する日本式の教育制度だ。


 羽振りのよかったキムの家では、迷うことなく子供を西洋式のスクールに入れた。

 そもそも住んでいる街の真ん中に大きなカトリックの教会があり、毎日曜日のミサのコーヒーサンデーという名の信徒や司祭、シスターたちによる茶話会が催された。

 街にはオルガンの音色や司祭たちの奏でる西洋楽器の音楽が流れ、修道女や信徒たちが歌う「ラテン語」の聖歌が流れた。

 日曜日のたびにきちんと晴れ着に身を包み教会で過ごす。

 そうした家族は、キムの周りでは珍しくなかったが、それがとんでもなく恵まれた稀有な例だと知ったのは成長した後だった。


 小さなころから西洋人と交わってきたキムは、美しく伸びやかなボーイソプラノの持ち主という資質を発揮し、聖歌隊のソロを任されるようになった。

 ご聖体の祝日にはモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、死者の日にはレクイエムのボーイソプラノソロ、復活祭前にはバッハの受難曲やヘンデルの「メサイア」のソロといった具合に、ラテン語、ドイツ語、英語と次々に教え込まれた。

 同時に海の向こう遙かな豊穣たる文化の地、西洋への憧れをかきたてられた。

 だが、いくらきちんとした身なりをして、西洋人や日本から来た富裕層と交わっても、彼はあくまでも「朝鮮人」だ。

 日本と朝鮮は兄妹で、共に一つの国で尊敬しあう仲である。

 そんな日本「朝鮮総督府」の流布するお題目を信じるものは、この半島には誰もいない。  

 彼がより高度な西洋音楽を学ぼうと東京の音楽学校予科に入学し、東京の地で暮らし始めると、なおさら強く実感した。

 『チャンコロ』

 そう言葉を吐かれた時、それが自分達を指すのだと骨身に染みた。


 一度音大の本科に進みながら、キムは中途で退学し朝鮮半島に帰った。

 父が急死し事業を10歳年上の兄が引き継いだ、その盛大な葬儀や相続の手続き、不確かな将来の展望のためである。

 音大本科に在学中、大きなコンクールで何度も優れた成績を収めたキムは、故郷でも褒めそやされ、地元の教会のミサにおいて、パイプオルガンを演奏する役を得た。

 だが


「コンクールでの優勝はなかったのかい ? こんなに素晴らしい演奏なのに」


 と外国人の司祭や修道士、地元の金持ち信徒に尋ねられるたびに、彼は口ごもった。

 優勝は日本生まれの日本人が、必ずさらっていったからだ。

 技量も感性も、自分より優れていると思えない演奏者たちに。


 数年後、日本の音大に戻り研鑽を積み始めた矢先、彼にドイツ留学の話が持ち上がった。

 留学先はベルリン。ヴァイオリン専攻の名家出身の天才、信野善次郎と一緒だ。


 

 ヅィンマン先生がユダヤ人だと知ったのは、音大の中で自分たちアジア人を徹底的に無視する『アーリア人』の生徒たちのお喋りからだ。

 ドイツに限らず『ユダヤ人』と言われる人たちは巷に大勢いる。

 黒髪に髭に帽子と、いかにもそれらしい風貌の人達もいれば、金髪や銀髪、青や緑や灰色の目の、北方白人にしか見えない一団も存在し、建前上日本人のキムには、ベルリンにいるドイツ人やフランス人、イギリス人、チェコ人などと区別がつかなかった。

 ユダヤ教を信じている人々、という基準は、何代も前にキリスト教に改宗している一族もいるから、全て当てはまるわけではない。

 自分とシンノが、一律『アジア人』として見られているのと同じなのだろう。

 キャンバスの中で好むと好まざるにかかわらず、何となくペアになる自分達が、ヨーロッパでは『平等』に見られているのだと思うと、キムは寒い笑みを浮かべるのだ。


 だが、今日耳にした情報は皮肉めいた笑みの影に隠してはおけない。

『ユダヤ人の教師や生徒は学内から追放されるらしい』というのだ。

 すれ違いざまこの話をしていたドイツ人の学生たちは、忌々し気に声を荒げていた。


「これで、我がドイツ音楽界にふしだらなオペレッタや時事オペラを持ち込んでくるユダヤ人たちも、少しはおとなしくなるっていうもんだ」

「だけど、作曲科やピアノ科の先生達の中には、ユダヤ人がたくさんいるよ」

「そのうちに学校を追われるさ。よほど国際的にも高い地位にいる『惜しい』人材でなければね」


 彼らの顔は見たことがある。ピアノ科の生徒たちだ。

 聞き耳を立てているアジア人2人を目にすると、ふふんという勝ち誇った顔をして、去っていった。

 彼らは知っているのだ。2人がユダヤ人ヅィンマン先生のオペラプロジェクトの一員だという事を。

 キムとシンノは学内へ走って行った。

 ただでさえ少数派のアジア系の男2人が走っている姿は目立つ。

 だがそんなことは言っていられない。学内に残ってプロジェクトの準備をしているヅィンマン先生、助手のミリヤナとイワンにも相談しなければ。


「そうだよ。その話は薄々聞いているよ。事実歌劇場やオーケストラでは、わざと居ずらくして辞めるように仕向けるところもあるしね」


 準備室で演出助手と打ち合わせ中のヅィンマン先生は、予想外に平静でしっかりとした態度だった。


「でもそんな、僕たちの日本みたいに新興国ならいざ知らず、そんなことがあり得るのでしょうか。宗教が違うと言ってもこの地に根を張り、数百年も共に暮らしてきた市民も多いのに」


 僕たちの日本、シンノは確かにそう言った。その言葉をキムは口の中で反芻した。


「あるよ。あるに決まっているさ。宗教はじめ生活習慣や細かい規範が違えば、もうそれは『別のいきもの』なんだよ。自分達と違うものは、安全じゃないんだ。安全でないものは警戒と排斥の対象。それは君たちのアジアでもそうだろう ? 」


 シンノは慌ててキムの顔を見た。キムはつと顔をそらした。

 理解を示すような言説に釣られて、余計な事を言ってはならない。口は禍の元だ。

 まして、いかにも理解がありそうな顔をして『僕たちの日本』などとさらりと言う人間に対しては、最大級の警戒を要する。


「そうでしょうか。少なくとも僕は、そこまで激越な感情はもてま」

「わかります」


 キムがシンノの言葉を遮った。


「僕は分かります。人は豹変します。こいつは痛めつけてもいい存在だと『こんせんさす』を得た、そう感じた瞬間に」


 これからどうなるかなんて誰にも分らない。

 昨年来、ドイツ政府と議会は何度も何度も選挙を繰り返している。

 そのたびに公然たる暴力と非難の応酬だ。

 ナチスだけではない。他の政党も私兵のようなグループを結成し、路上や街中での集団リンチや殺人を繰り返しているのだ。


「僕達にできる事は、粛々と『やらなければ後悔すること』を成し遂げる事だけだよ」


 ヅィンマン先生は静かに呟いた。

 立ちすくみ留まっている時間はない。ラ・ボエーム演奏会本番は刻一刻と迫っているのだ。

 彼らは楽譜と、台本につける注意書きを学内で印刷するために、街へ出た。


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