第7話 私がベルリンを歩くと

 ブランデンブルク門からウンターデンリンデン通りを真っ直ぐ歩き、地下鉄アレクサンダー広場駅に至る。これがベルリンの目抜き通りだ。

 日本人のシンノに言わせればオオサカという町のドウトンボリという繁華街に似ているのだという。

 日本の音大に通っていた釜山生まれのキムは


「そこまで庶民的じゃない。東京で言うなら日本橋や新橋のような、中産階級の居住地だ」


 と反論する。

 ヨーロッパ諸国から集まった他の学生たちには、遠い極東日本の街事情は見当もつかないが、それぞれ出身国の『随一の商業地』を思い浮かべれば、そんな気がしてくるのが繁華街というものだ。

 だがベルリンは他のどこの都市とも違った。


 アレクサンダー広場から更に歩いてベルリンの街の北東部、インヴァリーデン通りとローテン通り、そしてシュプレー川の向こうのオセニエンブルク通りとアウグスト通りに囲まれた一角は、貧しい工場労働者街とユダヤ人居住区が隣り合っている地区だ。

 19世紀に建てられたシナゴーグもあるし、ガラス窓が割られ落書きをされたユダヤ人商店、真昼間から荒んだ目をしてうろつく若者たち、失業して通りやアパートの階段に座りこむ酔っぱらった中年男、たたずむ街娼の姿も至るところ目につく。

 元気に走り回るのは破れた服を着た子供たちだけ。

 そういえば、家賃を払えず子供も老親も皆で自殺したという事件も、このあたりの古いアパートだった気がする。

 大学からそう離れていないのに、通りを一本隔てただけで街の顔はがらりと変わる。

 エミールたちは居心地悪さを感じて皆で何となく固まって歩いた。

 もちろん中心は、小柄なか細いヒロイン・マリーだ。


「マリー、君の友達はこのあたりのクラブに居るの ?」

「もう少し先よ。この細道を数本行った奥なの」


 大都市ベルリンは魔都と呼ばれ、世界で最もギラつくエロス&グロテスク文化が発展した街だが、ここ北東部の労働者街にその面影はない。

 ボヘミアンたちは互いに身を寄せ、何となく固まって進んだ。安酒で酔っぱらい座り込むおかみさんや、破れたドタ靴の親父をまたいでやり過ごし、初老と言っていいほどの年齢の娼婦、女装の男娼をちらちら眺めながら通り越す。


「まだかい、マリー」


 いつもは無口なキムが、アジア人にしては大柄な体を縮ませる。


「見つけた。この建物の地下よ」


 マリーが指さす方向を見ると、酒と吐瀉物と立小便の匂いが満ちた道路から、地下に降りる階段があった。ムゼッタがいる店は、この階段を下りた地下一階だという。 そういえば飾り文字の惹き文句や、店の名前らしき板の立札があちこちに置いてある。

 察すると、クラブというより何でもありな『飲食可能なきわもの小屋』のようだった。


「本当に、こういうところに出ている娘で良いのか?」


 敬虔なカトリックのゲアハルトが呟く。


「カバレットやヴァリエテだって、専門教育を受けた歌い手や役者が出ているんだぜ。こういう世の中さ、なんでもありだ」


 さて、みんなビール一杯くらいでいいよな。

 財布のひもを固く締め、若者たちは小汚いビルの地階に降りて行った。



「高い木戸銭を払って、こんなにまずいワインを飲まなくちゃならないのかい?」

「しかもこの酵母臭い酸っぱいビールはどうだ」

「間違いなく、安酒屋で売られている中でも一番安いしろものに違いない」


 入り口で入場料を払い、地下の喧騒の隅に陣取った若者たちは、それぞれメニューの中で一番安価そうな物を注文した。

 ビール、ワイン、密造酒、スリポヴィッツに、食べ物は肉の欠片の気配もしないレンズ豆のごった煮と、塩味のジャガイモのパンケーキ。


「アップルソースも添えられていないのか」

「酒のつまみだからな。マリーは飲み物はいいの?」

「リンゴ酒にするわ」

「ああ、美容にもよさそうだ」


 彼女を真ん中に座らせ、保護するように周囲を強面のボヘミアンたちが取り囲んでテーブルに着く。

 ホールの隅ながらステージがよく見えた。


「いい席が取れた。幸運だ」

「これで我らがムゼッタ候補をじっくり拝見できるというものだ」


 客は見るからに貧しい労働者たち(なのに高い木戸銭を払えるというのは不可解だ)、自分達と同じ匂いがする学生か芸術家崩れ、小金を持ちささやかな性欲を満たそうという商人。

 そして


「おい『茶色い服』の奴らがいるぞ」


 周囲に目を走らせていたイヴァンが低く囁いた。


「突撃隊だ……」

「やつらこんな労働者街にも来るようになったのか ?」


 一番舞台に近い最前列、その中央のテーブル2・3卓が長身のがっしりとした男達に占領されている。

 襟に細く縞の縁取りが縫い付けられた褐色のシャツ、濃い茶褐色の膨らんだズボン。長い乗馬ブーツ。てっぺんが平らなケピ帽は被っておらずネクタイも緩めているが、見紛うことなきナチの私兵、突撃隊(SA)である。

 ボヘミアンたちは不穏な空気を感じ取り、身構えた。


 ナチは、地位が上の幹部級の党員が来る政治集会や大会には、長身で理知的、いかにもアーリア人たる美青年隊員を表に立たせるが、その実、街で拾って来たチンピラや喰い詰めたごろつき、腕っぷしが強いだけで威張り散らす無法者の集団でもある。

 中でも突撃隊(SA)は、もう一つの党内組織・黒い服のSSとかいう奴らよりずっと荒っぽく、手っ取り早く暴力を振るう。相手の命を奪うこともしばしばだ。

 場末の酒場を頻繁に訪れては暴れて店内を荒らす。店の外でも横暴に振る舞う。

 だが、その権力をかさにきて酒場(同性愛酒場やレビューも)を潰したりはしない。

 首領の「レーム親父」とその取り巻きどもが同性愛者で酒場好きだから、という話も囁かれるが、単なる風の噂だろうか。


「始まるぞ。あれが俺らの彼女か ?」

「多分そうだ。いや間違いない」


 客席の前の隅に陣取った4人という少人数のバンドが前奏を奏ではじめた。やるせない弦楽器の音色が響く。

 照明が暗転し、朱いスポットの奥から、黒いドレスの女が現われた。


「あれか……」

「ああ。間違いない」


 パリの街で、自分の魅力一つを武器に男を手玉に取りながら逞しく生きる女、オペラ「ラ・ボエーム」の第2のヒロイン・ムゼッタ嬢そのものだ。

 朱いハイヒールを履き優雅に歩くその女は、バストから足まで黒の透けるシフォンを申し訳程度にまとってはいるが、ドレスのざっくりした割れ目からのぞいた真っ白い体の横から、はみ出しそうな乳房や丸い尻、むき出しの脚までほぼ裸だ。

 尻の横、局部の辛うじてギリギリ脇で縫い止められた衣装が、肉体を隠すというより『めくって観てもいいのよ』と言いたげに、客たちを挑発する。

 赤い唇に白い肌、細くくっきりとひかれた眉。

 黒のシルクハットの下からのぞく短い赤みがかった金髪、いちごブロンドが柔かく波打ち頬を包む。

 うつむき加減の顔の表情はちらちらとしか見えないが、全身から誘うような、同時に拒否するような奇妙な色気が吹きだしていた。


「あれは、ムゼッタそのものだ……」


 オペラでカップルを演じるマルチェッロ役のイヴァンがうなった。


「間違いない。彼女だ」

「彼女がアンナよ。綺麗な子でしょ。性格もとてもしっかりした、いい子なの」

「エロスの女神みたいだな。そんな女神がいればだが」

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