第8話 空を飛ぶ鳥は

 アンナは脚線美を見せつけるように舞台に立ち、歌いはじめた。

 と思うと、ざっくりと割れた衿元から丸い胸を半分のぞかせ、舞台から降りて突撃隊の男達の席に入ってゆく。

 舐めるような男達の視線をまとわりつかせながら、金髪でニキビ面のダビデ像のような隊員の膝に座り、首に腕を絡ませた。


「いい子……なのかい? あの彼女が」


 ゲアハルトが一同に囁いた。ボヘミアンたちは無言のままだ。

 音楽の調子が変わり、シンプルなピアノの音にアンナの切ないため息と呟きが絡み合う。

 まるで自分に手を伸ばし視線を絡ませる男達との「行為」そのもののような歌。

 確かチェコの作曲家エルヴィン・シュルホフの作品。発表当時セクシー過ぎると叩かれた『ソナタ・エロティカ』だ。

 作曲家はユダヤ人なのに、アンナも楽団も良い度胸をしている。

 もっとも夢中で彼女の体にすり寄るSAの男どもは、作曲者の出自など知らないだろうが。


「ちょっと慎みがなさすぎるんじゃないか ?」

「仕事だよ。あれも」


 キムのとがめるような発言に、イヴァンがアンナを擁護した。

 そう。劇中のムゼッタもおのれの魅力一本で金持ちのぼんくら男どもを利用し、生き抜いていく娘の役だ。


「マリーはあんな、男の餌になるような挑発はしちゃだめだよ」


 エミールが傍らの少女に囁いた。


「私にあんなことできっこないわ。彼女みたいな魅力もないし。なぜそんなことを言うの?」

「不安だからだよ」



「あれ、シンノじゃないか?」


 突然、キムが素っ頓狂な声を出した。情緒をぶち壊された周囲の客たちがじろりと睨む。

 カバレットの安っぽい床に立ち、スパンコールのついた下品な上着を着て幸せそうにバイオリンを奏でる東洋人。それはまぎれもなく先ほどまで稽古で一緒だった、我らがコレペテトゥーア(稽古ピアニスト)信野善次郎だ。


「あいつ、日本のお坊ちゃまのくせにこんなところに出入りしているのか」

「金には不自由していないはずだけど」

「上流階級の社会勉強じゃないのか ? なあキム」

「俺にはわからん」


 話を振られたキムは、がっしりとした首を振った。


「突撃隊のごろつきから目を付けられたら大変なのに」

「やつは大丈夫だろう。上流階級の子弟だ」


 応えながら、油でギトギトのポテトパンケーキを、まずそうに口に運ぶ。

 ジャガイモが材料だというこのドイツ料理は、どうもいけない。油が古くて変な匂いがする。

 我が郷里のジャガイモの焼きもの、カムジャンジョンの方がずっと香ばしくてうまい。


「音楽が好きなんだよ。きっと自由に弾きたいんだ。日本に帰れば仕事、金もうけ、貴族出身の許嫁との結婚と諸々決まっているというしな」

「まるで王侯貴族だな。東洋の貴公子だ」


 ボヘミアンたちの思惑をよそに、アンナの歌はますます艶を増し、濃厚な『女』の匂いを店中に振りまいている。

 ビールをあおり、ソーセージ(なぜか彼らのだけは上ものだ) をかっ喰らいながら前座の軽業師の芸にヤジを飛ばしていた突撃隊員たちも、みんな麻酔にかかったように女の妖しさに参っている。


 突然ため息と歌が止んだ。

 女の短い悲鳴が聞こえる。

 なんだなんだ、と客がざわめきだすと、突撃隊たちは下卑た笑顔で立ち上がり、肉体のバリケードを作った。

 その中心では、アンナが膝に座った隊員が彼女を抱きしめ、力づくでキスをしている。

 別の隊員はドレスのスリットから手を差し入れて女の胸を揉みしだき、もう一人は足をこじ開け、もう一人はドレスの裾を破って太ももを舐め回さんばかりにふるいつく。

 まるで輪姦だ。いや、まるで、ではなくこれから起ころうとしているのだ。

 エミールは、続けてボヘミアンたちは全員立ち上がった。

 俺たちのムゼッタを衆目の中で凌辱されてたまるか。シンノ、手伝ってくれ。彼女を奪ってここを脱出するぞ。


「もうみんな、悪い子ね。そんなに焦らないで。坊やばっかりなんだから」


 酔っ払いの狼藉にはもう慣れっこなのか、するりと体をひねらせて男達の手から逃れたアンナは手早くドレスを直し、硬直して突っ立っている花売り少年の篭から、赤いバラを2本抜いた。

 1本を乱れた髪に刺し、もう1本を手にしてくるくる回す。

 シンノがエキゾチックな低音を弾きだした。ビゼーのオペラ、カルメンの「ハバネラ」だ。

 ジプシーの野性的な美女、カルメンが武骨な兵士の男を骨の髄まで誘惑するシーンで歌う、有名曲。

 腰を官能的にくねらせ、ドレスの裾を翻しながらう歌うアンナは、突撃隊兵士の顎をつまんで軽くキスをした。

 若い隊員は骨の髄までとろけたように、うっとりと女の蜜を吸っている。

 シンノがエミールたちに視線を走らせ、顎をくいっと動かした。


「裏へ回れと言うんだ」


 ボヘミアンたちはうっとりしている他の客の間を間を縫い、ホールの通路に出て楽屋口への扉を開けた。

 音楽が不穏な和音を奏でる。

 アンナは手を伸ばしてくる突撃隊員の瞳をひたととらえたまま、その手からじりじりと後ずさりする。

 男の腕が伸びて女の体をとらえようとした瞬間、クライマックスの和音でアンナは手にしたバラを投げつけた。


 バラは見事に突撃隊員の顔面にヒットし、大きく見開いた男の目をかすめた。

 男は短く叫んで目を押さえ、体をくの字に折った。トゲが直に刺したのか。

 シンノが立ち上がっておどけた仕草で一礼するのと、アンナがあでやかな笑い声を立てて走り去るのと、司会のベテラン芸人が会場を沸かせるのとほぼ同時だった。


「さあいくぞ ! 」


 イヴァンがアンナを軽々と担ぎ上げ、コッリーネ役のキムがコートをおし被せ、楽屋口からの階段を駆け上がった。

 イヴァン、キム、ゲアハルト、そして泣きそうなマリーを連れたエミールが建物の間を走り、大柄なイヴァンのコートの下に隠されたアンナと共にその場を離れる。


「皆乗って ! 」


 シンノが老運転手の回した車のドアを開け、一同を放り込んで全速で走り去るのと、怒った突撃隊員たちが路上まで追いかけてくるのと、ほぼ同時だった。

 大量の排気を残し、一足違いでシンノ達の車はウンターデンリンデンに向けて疾走していた。

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