第6話 私の名は

「私にオペラなんて……無理よ、そんなの」


 彼女とシーツにくるまって、産まれたままの姿でお喋りするのは素晴らしい。少し手を伸ばし体を寄せただけで、相手の肌の滑らかさや温もりを感じられるなら、なおさらだ。


「だって、歌を一曲歌うだけじゃないんでしょう?  パリに出稼ぎに行ったおばさんに聞いた事があるわ。オペラって、何曲も歌いながらお芝居をして、それも全部覚えてなきゃいけないんだって」

「大丈夫だよ。僕らの練習だって始まったばかりだし」


 エミールはマリーの肩に腕を回し、ささやいた。


「いちから覚えればいいんだし、それに全曲じゃなくて抜粋版。音大の先生に編集してもらった名場面集みたいなものだから」

「でも私は楽譜が読めるかどうか……ドイツ語でしょう? 」

「うん。でも何とかなるよ。僕たちだって全然分からなかったし、まだ通し稽古もしていないんだ。なぜなら……」


 エミールは仲間たちと散々言い合った件を思い出した。


「なぜならもう一人のヒロイン、酒場の娘のムゼッタ役がいないから」

「それは大事な役なの?」


 背中に腕を回され、胸元を弄られ喘ぎながら、かすれ声でマリーが尋ねる。


「大事だよ。君が歌うおとなしいミミと対になる女性で、気が強いけど頭の回転が速くて男を手玉に取ってしまう、セクシーで、でも実は純情な女性の役さ。おかげでなかなか見つからない」


 金髪が絡んだマリーの細い首筋をエミールは強く吸った。首に赤い花びらが落ちる。


「あのねエミール、多分その役にうってつけの子がいるわ。私の友人に」

「なんだって !」


 エミールはマリーの肩をぎゅっと抱きしめて、骨っぽい小さな胸に顔をうずめた。

 甘酸っぱい汗のにおいをかぎながら、塞がれかけていた上演の道が一気に開けたような気がする。


「くすぐったいわ……その子は私と一緒にアルザスからベルリンに仕事を探してやってきたの。とっても綺麗で、もてて、歌が上手なの」

「いいぞ、僕らはなんて幸運なんだ」


 エミールは舌先でマリーの胸を転がした。

 固いベッド、突撃隊や共産党の自警団の突然向けられる暴力。

 暗く荒々しい世界の中で、自分の動きに連れてビクンビクンと反応する、マリーの体だけが柔かく温かい。


「マリー、ぜひぜひその子を紹介してくれ。君と二人でオペラに立つ夢が一歩前進する気がする」


 今夜お互いに知ったばかりなのに、若いというのは現金なものだ。


「エミール、遅かったじゃないか。みんなを待たせるんじゃないよ、この阿呆め」


 一週間後、アレグサンダー広場のビヤホール『鉛の兵隊』。

 エミールが薄地の粗末なコート姿で駆け込んだときは、他の仲間は勢ぞろいしていた。


「すまんすまん。支度に時間がかかっちゃって」

「野郎の独り暮らしなのに、何が支度だよ」

「それが独りじゃないんだな」


 エミールのコートの後ろから、毛の帽子にきちんと結い上げた金髪、怯えたように微笑む娘がひょいと顔を出した。


「……なるほど、我らの詩人殿はとうとう『詩』を手に入れたわけだ」


 ショナール役のゲアハルトが、衣装の帽子を取りながら、おどけて言った。


「この子がミミ役の候補かい? 」


 ヅィンマン先生がエミールの後ろに隠れようともじもじするマリーに近付いた。


「そうです。名前は……マリー、自分でみんなに名前を言って」

「マリー・ブーランジェです。アルザスから来ました。服飾工房で働いているお針子です」


 おおおー、とマルチェッロ役のイヴァン、ショナールのゲアハルトたちが湧いた。本物のお針子じゃないか。

 コッリーネ役のキム・スギョンは黙ってにこにこしている。

 それをメンバーの大半を占めヨーロッパ人たちは「東洋の神秘的に微笑み」と評したが、要は「キムとシンノのアジア人たちは何考えているかわからない」という言いたいのだ。

 だがそんな「白い人たち」の「黄色い人たち」への通底を流れる見方はさておき、マリーの小さな声を聞いたラ・ボエーム・プロジェクトのメンバーは大いに沸いた。

 どうだい、素晴らしい声じゃないか。

 水晶の鈴が鳴るように透き通っているわ。

 確かに素晴らしくきれいな声だけど、この子歌えるの? 声も小さいし、客席まで聞こえないんじゃないの?


「なに、そこは慣れだよ慣れ。まずは正確に、次に自分の気持ちを声に載せて。自信がつけば、声も舞台での振る舞いも伸びやかになるのさ。みんなもそうだったよ」


 ヅィンマン先生は元気づけるように大声を出すとマリーの手を取り、芝居がかった仕草で舞台に見立てた店の隅に誘った。


「ではここに我らがミミも揃った事だし、改めて練習を始めよう。ミミ、よろしく。大丈夫。みんな気のいい連中だし、実は君が気にするほど稽古は進んじゃいない」

「ちっとも大丈夫じゃありませんよ、ヅィンマン先生」


 値踏みするように、素早くマリーの全身を眺めまわしていた演出助手のミリヤナが、笑っていない眼で叫んだ。


「お嬢さん、やせっぽちだけど衣装は通常サイズでいけそうね。多少丈詰めすることはあってもね。助かったわ」


 シンノがピアノを弾きだした。


「どこからはじめます? 」


 友人たちがクリスマスでにぎわうカフェに行ってしまい、取り残された原稿の進まないロドルフォの部屋にミミが訪れる、登場のシーンだろうか。


「できたらマルチェッロや他のメンバーとのアンサンブルを重点的に」


 エミールが、もじもじしているマリーをキムやイヴァンたちの方に押しやりながら切り出した。


「そうなの?  初めから絡みは難しいからアリアからかな、と思ったのだけど」

「実は僕たち二人のやり取りやデュエット、ミミのアリアは家で練習できるんです。毎日のようにしているんで……」

「なるほど。愛の二重唱も君たち二人にとっては日常の一コマってわけだな。いいだろう」


 マリーが頬を染めた。

 ヅィンマン先生がピアノのシンノに指示を出し、ミリヤナがみんなの立ち位置を細かく指示した。


「じゃイブのカフェ・モミュスでみんなにミミを紹介するシーン、少しずついくよ」


 やっと練習が先に進みだした。

 先生も若い歌手たちもご機嫌だった。

 今までできなかったヒロインのミミが参加するカフェでのやり取り、乾杯、食事や街での買い物といったクリスマスシーンを重点的に練習できたのだ。

 そのうえマリーの恥じらいと『女らしい』態度はミミ役としてうってつけで、 若者たちは否が応でも気分が高揚する。

 カフェのテーブルでの振る舞いや導線、自然な動きのためにエミールは終始エスコートし、他の男性キャストも皆で、人前で歌うのも初めてのマリーをリードし、緊張しないよう努めた。


「やはり素直な可愛い娘は得ですよ。皆が労わってくれる」

「従順な子と言うのは男の保護意欲を掻き立てるものなのさ。中性の騎士の時代からね」

「じゃ私は対象外ですね」


 台本と楽譜に細かなメモを書きこみながら、ミリヤナはヅィンマン先生と軽口を交わす。


「君は芯から強いから、保護対象というより同士、共に戦う戦士さ」

「ボルシェビキみたいな口きかないでください」


 ミリヤナはインクの出が悪いペンを二・三度振った。


「シンノ、あなたはどう思う?」


 壁際のピアノで途切れることなく鍵盤を叩き続けるシンノは、音楽と戯れている時間だけは本当に幸せそうだ。


「僕は音楽にだけ従順ですよ。それだけでいいんです。人間はみんな分かりあえない生き物だ」


 ヅィンマンとミリヤナは顔を見合わせ肩をすくめた。



「先生、今日は早めに終わらせて別の店に行きませんか」

「マリーがムゼッタ役にうってつけの、美人でセクシーな歌い手を知っているって」

「僕たちに紹介してくれるというんです。皆で行きましょうよ」


 ボヘミヤン達はもう腰が浮きかけている。

 練習で声を出し、汗をかいた後のビールは最高だし、今日はいい日だ。ムゼッタに向いているとマリーが言う娘も、きっと美人で気立てのいい子だろう。大丈夫。僕らは必ずうまくやれる。

 失業と物乞いと、突撃隊や警察や雑多な政党の暴力渦巻くこのベルリンの街でも、オペラは成功するだろう。


「あたしは行っても仕方ないから、あなた達だけで行っておいで。男の勘と審美眼ってやつでお願い」


 ミリヤナは不愛想に言うと、楽譜と台本を畳んで借りているビヤホールの掃除を始めた。


「僕も行って審査をしたいのはやまやまだけど、店内で絡まれて、くだらない暴力沙汰に巻き込まれてもつまらないから辞めておくよ。君たちボヘミヤンのお眼鏡にかなう子なら、それを信じる」


 ヅィンマン先生も小柄な背を伸ばし、腰の後ろをポンポン叩きながら笑ったが、その背中には先週突撃隊にからまれ棒切れで殴られた痛々しいあざが残っているし、顔の腫れもようやく引いたところだ。


「キム、君は歌い手だから行くだろう。シンノは?」


 二人のアジア人をいつもコンビで数えるのがヨーロッパグルーブの悪い癖だ、と朝鮮民族のキムは思っていた。こちらも元は国王に仕えた両班の家系なんだぞ。


「僕も行こうかな。カバレットなんて久し振りだし」


 日本人は、いつも付き従っている運転手兼爺やと共に、山のようなビヤホールの洗い物を猛然と片づけながら、しわひとつないハンカチーフで手を拭いた。

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