第5話 小さな冷たい手

 いってえ…


 一瞬の沈黙が流れると、エミールはひどい気恥ずかしさを覚えた。

 なぜ自分は、屋根瓦の上を走って窓に一回転して飛び込み、床に転がった挙句、ほぼ下着姿の彼女の前に立っているんだろう。

 だがここは紳士的に、だ。彼はわざとらしく両手で服をはたいて埃を落とし、住民に笑顔を向けた。


「はじめまして」


 無駄に爽やかな自分の声音が恨めしい。間抜けめ。


「あ、はい。はじめまして……あの、むこう向いていてくれますか?」


 部屋の主の少女は怯えた目つきでエミールを見詰めていた。


「はい。すみません。本当に失礼なことをして。別にあなたを襲おうとか、そういう気はありません」

「それはわかっています。でもちょっと……」


 何を言っているんだ俺は。エミールは両手を降参の構えに差し上げて、背を向けた。背後で引き出しを開け閉めする音がやみ、はい良いですよの声と共に振り返ると、ウールのごわごわしたセーターとズボンを身に着けたマリーが立っていた。

 作業着のような、街で見かける突撃隊の制服のような茶色といい、体の線を完全に隠した厚手の風合いの生地といい、恐ろしく似合っていない。

 先ほどまでの下着の一歩手前のような無防備な部屋着姿の方が、よほど彼女のスタイルを引き立てる。


「僕はエミール・シュナイダー。仕立て屋の息子で、オペラ歌手の卵です。でもとても貧しい。どうやって暮らしているかって、愛や詩や生というものを歌って、生きているんです」


 暗記するほどに歌いこんだ、自分の演じるボヘミアンの若者、ロドルフォのアリアになぞらえて自己紹介を試みた。

 だがそれはさっき既にやってしまった後だ。思い返すと情けない。残念自分の記憶力。


「私はマリー。服飾工房に通って働いているお針子なの……」


 途端にお腹がぐーきゅるきゅると鳴った。エミールは夕飯をすっかり食べ損ねていたことを思い出した。

 帰宅したら体に空腹を感じる暇を与えず、すぐに寝てしまおうと思っていたのだが、今彼は寝るどころではなく隣りの美少女の部屋に立ち、最悪のタイミングで物欲しそうな腹の音を響かせている。

 こら、胃袋。少しは自重しろ。


「愛や詩はいくら摂取しても食べられない……のが難点です」

「要するにシュナイダーさんはお腹が空いているんですね」

「はい。できればその……」


 少女は笑いながらちょっと待ってねと言うと、部屋の隅の殺風景な台所に引っ込み、しなびたリンゴと乾いたオレンジ色のチーズを持ってきた。

 そのチーズのあまりの臭さに目を白黒させていると、マリーは一口齧ってみせた。


「マンステールというの。私の生まれ故郷のチーズ。牧場で農家のおかみさんが塩水で何度も洗って熟成させるんですって」


 深夜に寝室に飛び込んできた男にさっと夜食を持ってくる。彼女には警戒心というか、慎みというものは乏しいのだろうか。

 エミールは頭の片隅で考えたが、空腹には勝てず、礼を言って恐る恐る一口齧ってみた。毒々しいほど鮮やかなだいだい色の皮、強烈な臭気からは想像できないほど中は柔らかく、とろりと口に中に媚びるような旨みが溢れた。


「おいしい ! 僕の故郷オーストリアもチーズが美味しいけれど、これは食べたことがなかったなあ」

「故郷のアルザスの味なのよ。私は友だちと二人で仕事を探して、ベルリンに出てきたの」


 でもね、と言いたそうにマリーはうつむいた。お針子の仕事をしていると言うが、あまりいい職場ではないのかもしれない。

 しなびたリンゴとチーズを交互に齧ったが、果肉に瑞々しさがなく、かえって口の中がぱさぱさになってしまった。


「良い声だから歌手だと思ったよ」

「まさか」


 少女はサクッとリンゴをかじった。しわの寄った赤い皮に、ピンク色の唇が吸い付くさまは、なんて官能的なんだろう。


「さっき素敵な歌を歌っていたじゃないか。あれは僕が歌の先生から一年の時に習ったものだけど、言葉が違うね」

「フランス語なの。故郷がアルザスだから」

「その言葉、教えてくれない?」


 エミールはマリーの瞳を見つめ、手からチーズの皿を取り、ゆっくりとベッド脇の小テーブルに置いた。


「泥棒だ !」

「どこに逃げた !?」

「共産党員か社会主義者だぞ、きっと !!」


 アパートの外から大勢の物騒な声が聞こえてきた。

 どこからか聞こえていた、ピアノとサックスの退廃的なメロディーがぷつりと消えた。

 あれはウィーンのダダイズム作曲家、シュルホフのジャズ風の音楽だ。レコードか、それとも音楽家が自分で吹いているのか。


「この屋根を走って窓から逃げ込んだんだ」

「きっとアナキストの私兵だぞ。逃がすな」


 路上での男達の荒々しいやり取りが、エミールにはどこか遠くのように聴こえた。


「動くな !」

「ばあさんこいつか !?」


 少女の部屋のドアを蹴破って、10人ほどの自警団の男達が入ってきた。


「あんたたち……」


 大家の老婆が目を剝いた。

 月明りと動物園から漏れ聞こえてくる獣の吠え声の中、男と女がばね仕掛けの人形のようにベッドからとび起きた。あわてて夜具で隠そうとする2人は裸だ。


「なんです急に……」


 男がひっくり返った声で叫ぶ。踏み込んだ自警団の男達の目つきがみるみる助平になっていった。


「シュナイダーさん、あんたかい。それにマリーまで……」


 マリーが華奢な身体をますます細くして、エミールの背中に隠れる。


「あのう、お察しの通り……窓越しに上品に話をするだけでは我慢できず、気が付いたら窓から屋根に出て……」

「で、フロイライン(お嬢ちゃん)のベッドにダイビングしたってわけかい」

「ええ。屋根が急で、今考えれば走る間に瓦ごと落ちなかったと思うのですが、その時はそんなこと考える間もなく」

「お嬢ちゃんとよろしくやる事だけで突っ走ってしまったと」

「はい、そういう事です。見られてたなんて思いませんでした」


 ばあさん、こいつは本当にここの住人なのかい?  自警団のリーダー格が 大家に尋ねた。


「はい。芸術大学に通う学生です」


 学生か……けしからん思想に染まってないとも限らんな。

 股間だけを辛うじて枕で隠したエミールと、すっぽりと頭から夜具を被りその背中にかじりついているマリーをじろじろと見つめる自警団たちは、もう興味の対象は摘発すべき不満分子ではなく、若い二人の下半身事情と自分達の妄想だけだ。


「しかし夜に屋根を伝って走るなんて怪しいことこの上ない。しょっ引かれても文句は言えないと思わなかったのか ?」

「はい。あのう……すみません。この娘の誘惑的な魅力に我慢ならなかったものですから」


 そんなにいい女か ? とでも言いたげに、自警団の武骨な男達の目線が、夜具を通したマリーの体に集中する。


「今度騒ぎを起こしたら、二人とも出てってもらうからね。全く冗談じゃないよ。ふしだらにもほどがある」


 大家の婆さんの金切り声に、自警団たちはようやく引っ込む相談を始めた。

 若い二人をもっと観察していたい風情ありありだったが、他の者たちに報告する義務もある。


「お前と大学のことはきっちり調べさせてもらうぞ。シュ……」

「シュナイダーです。エミール・シュナイダー」

「思想的な背景がないとも限らんからな。そのマリア……」

「マリー・ブーランジェ」


 大家の祖母さんが気ぜわしく答えた。なぜ自警団に彼女の名を教える? 調べられる上にひどい形で利用されるかもしれないのに。

 エミールが顔をしかめた所で、しぶしぶという形で一同は帰って行った。


「今度からあいびきはドアからドア経由でやっとくれ」


 婆さんというのは一言残さないと死ぬ生き物らしい。

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