第117話 敬語の話
夢も見ることなく、阿曽は眠りの中から浮上した。自然に目が覚め、おもむろに手を上に挙げると痛みはない。まだ傷は新しいが、出血は抑えられたようだ。
「今、いつだろう……」
阿曽は一つ欠伸をして、寝台を下りた。
廊下に出て、外が見える場所まで行く。すると、そこには先客がいた。
「温羅さん」
「やあ、阿曽。目が覚めたのかな」
朝焼けの空を背に、温羅が阿曽に手を振った。
「はい、自然と。須佐男さんと大蛇さんは?」
「まだ寝ていたから、そのままにしてきたよ。目覚めたら合流するだろうから」
行くんだろう? 温羅に問われ、阿曽は頷いた。
眠る前、温羅に言われた。
「行きます。……一緒に行ってくれますか?」
「勿論。わたしはきみの仲間だから」
「ありがとうございます」
実は、少し心細かったのだ。
本当の父と目を合わせて話せる、ということはわかっている。わかってはいるのだが、取り戻した記憶の中でしか知らない相手と一対一で話すのは気が引ける。
だから、温羅が了承してくれたことで阿曽の心は軽くなる。
「……温羅さんがいてくれたら、心強いです」
「そう―――うわっ」
「オレたちのこと、忘れてんじゃねえぞ」
温羅の頭を押し込んで、須佐男が顔を出す。驚いて声も出ない阿曽の目の前に、呆れ笑いを浮かべた大蛇がやって来た。
「おはよう、阿曽。邪魔してごめんね?」
「いえ……」
「須佐男、そろそろ手を退けてくれ。痛い」
「ああ、すまんな!」
ケラケラと笑う須佐男の手から逃れ、温羅は一息つく。どうやら須佐男と大蛇は、彼の後をつけていたようだ。
「声をかけてくれればよかっただろう」
「面白くないだろ、それじゃ」
「須佐男、そういう問題……なのか?」
大蛇が首を傾げるが、須佐男は何処吹く風だ。今までの会話を忘れたかのように、阿曽の体を上から下まで見回す。
「―――うん、後は傷痕がなくなれば大丈夫だな」
「なかなか無茶をしたからね。阿曽、ちゃんと休んでくれたみたいだね」
「大蛇さんたちは……訊くまでもないですね」
苦笑して、撤回する。阿曽とは違い、大蛇たちは人ではない。既に傷跡もなく綺麗さっぱりと完治していた。
「……阿曽も神と鬼の子だから。他の人よりは治癒までの時間は短いんだけどね」
「何か言いましたか、温羅さん?」
須佐男たちと話していた阿曽は、温羅の言葉が聞こえずに問い返した。しかし、温羅は「何でもない」と言って再び言葉にしようとはしなかった。
「っと、そろそろ行くかい?」
日が昇り、朝焼けはとうに過ぎた。青空が広がる空を指差し、大蛇が言う。
阿曽は「はい」と頷き、日子が眠っているという天照の隣の部屋を目指して歩き出す。その緊張した面持ちを見て、須佐男たちは苦笑を交わした。
部屋が近付くにつれ、胸の奥の音が五月蠅くなる。それが緊張だとわかってはいたが、自分一人ではどうしようもない。
「……」
天照の部屋の前を過ぎ、後数歩で辿り着く。阿曽は胸に拳をあて、喉を鳴らした。
「なあ、阿曽」
「っ! 何ですか、須佐男さん」
頭に重さが加わる。顔を上げなくても、須佐男が阿曽の頭に腕を乗せているのだとわかった。背が伸びなかったらどうしてくれるのか。
そう思って憤慨そうとした阿曽に、須佐男は「そろそろやめないか?」と提案した。
「やめる? 何をですか」
「その敬語」
頭が軽くなり、阿曽は振り向く。すると、穏やかに微笑む三人の仲間の姿があった。
ぽかんと口を半開きにする阿曽を見て、大蛇が笑い出す。
「あははっ。須佐男、阿曽が『は?』みたいな顔してるぞ」
「ふふっ。考えもしなかったんだろうね」
「おまっ、オレらのこと何だと思ってたんだよ」
「え……? 年の離れた須佐男さんたちへの言葉遣いを変えるのはとうぜ……」
「でも、
頬を膨らませることはないが、不服そうな顔で阿曽を睨む須佐男。呆然としていた阿曽は「え?」と首を傾げた。
「須佐男さん、嫉妬し――」
「してない。してないけど、そろそろ良いだろ。もう――旅は終わったんだからな」
「あ……」
突然、事実が胸を突く。そうだ、旅は終わりを告げたのだ。
堕鬼人を創り出していた人喰い鬼を斃し、日子を取り戻した。旅の目的は、全て完了している。
もう、共に旅する理由はないのだ。阿曽と三人が共にいる理由もない。
「……旅が終わったから、もう仲間じゃないってことですか?」
「阿曽?」
氷のように冷めた声色を聞き、温羅は阿曽の異変に気が付いた。何を言っているんだと言い返そうとした直後、両目に涙を一杯に溜めた阿曽の眼力に気圧される。
「あ―――」
「俺は―――俺は、まだみんなと一緒にいたいのにッ!」
「待ってくれ、阿曽!」
温羅が手を伸ばすが、後少しの所で届かない。手をすり抜け、阿曽は何処かへと走って行ってしまった。
「須佐男」
「すまん。
大蛇に睨まれ、須佐男は素直に謝った。後ろ頭を手で掻き、眉間にしわを寄せる。
「ただ、敬語をやめてもう少し近い感じで話したいって言いたかっただけなんだがな」
「だとしても、旅の終わりを強調する必要はなかったんだ。……僕だって、まだ四人で旅をしていたいんだから」
拳を握り締め、大蛇が呟く。彼の横で、須佐男も「オレも同じだ」と同意した。
「だからこそ、と思ったけど。……伝えるってのは難しいな」
「―――探すぞ。須佐男、大蛇」
真剣な声が、温羅の口から漏れる。須佐男と大蛇は顔を見合わせ、同時に頷く。
「当たり前だ」
「勿論。見つけ出して、きちんと伝えよう」
「行こう」
阿曽に伝えたいのは、彼と自分たちは同じ想いだということ。そして、これからも友として仲間として、別れるわけではないのだということだ。
何度も死線を掻い潜った結びつきは、簡単に切れない。笑い合った記憶は、心に刻まれて消えることなどない。
三人はその場を駆け出した。阿曽の名を呼びながら、彼を見付けて伝えるために。
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