第109話 村を襲う影
翌日、食べ物を買うために村を訪れた五十鈴は、市場で村長を見かけた。ただし言葉を交わしたわけではなく、遠目に確かめただけだ。
「―――?」
それでも、体がぞくりとした。悪寒を感じて腕をさすっていると、店の主人が不思議そうな顔をする。
「五十鈴、風邪でもひいたのかい? おじさんは別に寒くないから……温かくして寝るんだよ」
「はい、ありがとうございます」
自分の顔色が悪いことを自覚しつつ、五十鈴はかろうじて笑みで返した。
その日は何かあるわけでもなく、森で薪を拾ったり水を汲んだりして過ごした。夜になれば藁を編み、眠くなれば眠った。
そんな日常が続き、五十鈴はいつしかあの夜のことを記憶の端に追いやっていた。
しかし、十日程前の真夜中のこと。
―――きゃあああっ
―――わあああっ
「何!?」
静かであるはずの村の方から、金切り声がこだまする。驚いて飛び起きた五十鈴は、そっと家を出た。
「……嘘」
村の方を見て、唖然とする。
見えたのは新たに建てられた家々ではなく、燃え盛るように見える黒い何か。ゆらゆらと炎のように蠢くそれは、まるで巨大な蛇のようだ。
その蛇が幾つも蠢く下に、村がある。時折信じられない程の悲鳴がこだまし、静まりかえる。その繰り返しだ。
「晨、宵……」
胸の上で両手を握り締め、五十鈴は幼馴染の名を呼んだ。しかし、彼らがここに来ることはないとわかっている。
「阿曽、須佐男さん、温羅さん、大蛇さん……」
双子が帰ってくるより少し前に、五十鈴の前に現れた不思議な人々。彼らの姿も頭をよぎる。堕鬼人を倒し、この村を助けてくれた四人を思い出し、五十鈴は深く息を吸い、吐いた。
「よし」
遠く離れていても、独りではない。五十鈴は勇気を奮い起こし、村へと駆けた。
悪寒。
五十鈴は村の入口が見える所まで走り、思わず足を止めた。そして、悪寒が正しいものであったと確信する。
「なっ……」
言葉を失った。あまりにも衝撃的な光景に、体が動くことを拒否する。
村の中で、家の前で見た影のような黒い何かが、村の中を這い回っている。そして、逃げ回る村人に襲い掛かり、先端に開いた口のようなもので一飲みにしていたのだ。
あの悲鳴は、この化け物から逃げる人々の声だったのだ。
「た、助けっ」
――ごくん。
今、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった男性が飲み込まれた。その恐怖を知った瞳が、一瞬だが遠くにいた五十鈴とかち合った。
「……何が、起こってるの?」
村を襲う何かから身を隠すため、五十鈴は木陰に身を隠す。そして、先程見た男の瞳を思い出して身を震わせた。
(わたしはまだ、死なない。死ねない。――彼らに『おかえり』って言うまでは!)
何が起こっているのか、確かめなくてはならない。五十鈴は意を決し、村の外から裏へ回るようにして侵入する。
「い、五十鈴ちゃん!?」
「あなたは」
森の中を進んでいた五十鈴に、声をかけた女性がいた。彼女は村で野菜を売る商いをしており、買い物の際に何度か話をしたことがある。彼女の傍には、家族らしき同年代の男性と二人の幼子がいた。
「どうしてこんなところに……それに、あれは」
「わからない。ただ、夜になって突然暴れ始めたの」
女性によれば、日が落ちてしばらく後に立ち現れたのだという。運よく狙いを外れた女性と家族は、急いで村を出るところだった。
「私たちの他にも、何人か助かってる。あなたも早く、逃げなさい」
「……あの、化け物は何処から?」
逃げろと何度言われても、五十鈴は後ろを振り返るわけにはいかない。
すると、女性は一瞬言葉に詰まり、呟くように答えを
「……邸」
「えっ」
「村長の館、よ」
「わかりました。ありがとう、早く逃げて下さい!」
「えっ? ちょっと、五十鈴ちゃん!」
女性の止める声を振り切り、五十鈴は足場の悪い森の中を駆けた。石ころやぬかるみ、蔦に足や体を取られそうになりながら、走る。
五十鈴にとってだけでなくこの村に住む者ならば、誰もが村長の家を知っている。知っているし、何度も入ったことがある。五十鈴は森を抜け、崩れ建物の影に隠れるようにして、村長の邸を目指した。
「ここ……だよね?」
他の家々とは一線を画す立派な村長の邸は、今や見る影もない。
うねる文様が建物全体を這い回り、その一部が蛇のように空中に顔を出している。あの黒い影の正体はこれか、と五十鈴は察した。
絶え間なく現れる文様の不気味さに怖気付きながらも、五十鈴は一歩踏み出した。草むらを出て、ゆっくりと邸へと近付いて行く。
あと一歩で門に手が届く、そう思った途端、戸が開いた。
「おや、五十鈴じゃないか。こんな夜中に何用かな?」
「むら、おささま……」
にやり、と不気味なほど穏やかに微笑む村長に、五十鈴は言葉を返すことが出来ない。何故ならば邸地からは阿鼻叫喚が轟き、断末魔の悲鳴が響き渡る。そんな中で穏やかに微笑むなど、正気とは思えなかった。
じゃり。五十鈴は無意識に足を引き、後退する。すると何を思ったか、村長が一歩外に出る。二人の距離は全く変わらない。
「村長様、あの影は、あの文様は……何なのですか」
「ああ、気付いてしまったんだね。そのまま深追いせずに逃げていれば、無事で済んだものを」
冷汗にまみれながら五十鈴が問うと、村長は悲しそうに顔を伏せた。その態度に不自然なものを感じ、五十鈴は踏み止まった。
「あなたは、晨と宵を追い出して、今度は化け物を呼び込んだ。……一体、何をしようと言うのですか?」
「何を、か」
ククク。村長はよくぞ聞いてくれたとばかりに嬉しそうに笑うと、大きく手を広げた。
「見たか、あの文様を? あれこそ、人喰い鬼様が下さった、この世ならざる力。……あの御方がもしも消えたとしても、力が残ってこの世界を支配する!」
「……何を、言っているんですか」
狂っている。村長に対して侮蔑の眼差しを向ける五十鈴に、村長は良いことを思いついたという風に視線を向けた。
ゆっくりと歩を進めて五十鈴の目の前に立つと、村長は五十鈴の顔に片方の手のひらを向けた。
「何を」
「―――眠れ」
(嫌、眠りたくなんてない!)
幾ら抗えども、瞼は勝手に落ちていく。
「あし、た……。よ、い……」
五十鈴はその場に崩れ落ち、深い眠りに縛られた。その姿を見下ろし、村長は呟く。
「愚かな」
その後五十鈴は文様に拘束され、双子たちに発見されることとなる。
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