第103話 天岩戸との縁

 深い水底にいるような感覚がある。何処までも落ちて行き、いつしか消えてしまいそうな感覚。

 阿曽がふと目を覚ますと、そこはあの戦場ではなかった。何処かの水の中の様で、泡が幾つも連なって浮いていく。ただし、阿曽はその場に浮き留まっていた。

「ここは……俺は一体」

 無意識に左腕を押さえるが、生温かなものがない。見下ろせば、血が流れておらず傷もなかった。しかし衣は無様なほどに破れており、阿曽は混乱した。

「どうなってるんだ。俺は……」

「阿曽。あなたは人喰い鬼の刃に腕を貫かれ、今死と生の境にいるの」

「あなたは、阿曽媛……?」

 阿曽が顔を上げると、目の前に少し険しい顔をした阿曽媛が立っていた。彼女の圧力に、阿曽は怖気づいてしまう。

「何か、怒ってます?」

「いいえ」

 かぶりを振り、媛はそっと阿曽の頬に両手を触れさせた。ひんやりと冷たい感触が、阿曽の心を落ち着ける。

 しかし媛の額が触れた時は、顔に熱が集まった。

「ちょっ、阿曽媛!」

「……待っていて下さい」

 温羅の顔が頭をよぎり、阿曽は媛から離れようとした。しかし阿曽媛は手放さず、諦めて言うことを聞く。

「……ぁ」

 するとじんわりとした温かなものが額から全身に広がり、阿曽は目を見張った。驚く阿曽から一歩離れ、媛は苦笑いを浮かべる。

「あまりお手伝い出来ませんが、これがわたしの精一杯です」

「何を、してくれたんですか?」

「あなたに、少しだけわたしの力を渡しました。……正しくは、日子ひるこ様があなたに残された力ですけど」

「父上が……」

 胸の前まで両手を挙げ、ぐっと力を入れて拳を握る。体の奥で力が湧き、阿曽を勇気付けてくれる気がした。

「ありがとうございます、媛。でも俺、戻らなきゃ。やらなきゃいけないことがまだ……」

「ええ、だからこそここに呼んだのです」

 焦る阿曽を押し留め、媛は言った。あなたに戦う理由をもう一つ与えます、と。

「堕鬼人の魂を救う。それ以外に、あなたにとって重要な理由を」

「理由?」

 眉を顰め、阿曽は媛の言葉を待った。その真摯な瞳に、媛の顔が映り込む。

「……日子様は、人喰い鬼によって囚われています」

「―――え」

 寝耳に水とはまさにこのことだろう。阿曽がぽかんと口を半開きにしていると、媛は彼の額を指で突いた。

「しっかり聞いて下さい。日子様は、人喰い鬼――伊邪那岐様によって天岩戸あまのいわとに封じられました。……しかし、その理由まではわかりません」

「わからない、か」

 記憶を取り戻してから、日子との思い出も少しだけ取り戻した。その中で見る父は、誰かを進んで傷付けるような人には見えなかった。

 いつも微笑み、時折強い眼差しを見せた父。その記憶があるが故に、人喰い鬼の行為の理由がわからない。媛も知らないとなれば、本人に訊くしかないだろう。

「阿曽媛、戻ります」

 拳を握り締め、阿曽は媛と目を合わせた。

 ここはおそらく、阿曽が気を失ったことで来ることが出来た夢世界。だからこそ、媛とこうやって話すことが出来る。

「でも、戻らないと」

「ええ、そうですね」

 名残惜しい気持ちもあるが、今は仲間の元へ戻らなければ。須佐男、温羅、大蛇、晨と宵、彼らがきっと心配している。

 阿曽の強い目の光を確かめ、媛は微笑んだ。

「あなたが、あなたたちが堕鬼人を救うこと。そして、日子様と会えることを願っています」

「ありがとう、媛」

 阿曽の視界がぼやけていく。靄に包まれるように、世界と世界の境界が離れていく。阿曽媛が小さく手を振る姿を最後に、現実へと引き戻された。




「……そ、あそ。阿曽!」

「う、らさん」

「よかった。みんな、阿曽が目覚めた!」

 ぼんやりと目を覚ました阿曽は、鋭い痛みを感じて悲鳴を上げた。左腕を見ると、赤く染まっている。しかし阿曽媛のお蔭か、流れる血は止まっていた。それでも痛みは和らいだ程度だが、贅沢は言えない。

「温羅さん、今……」

「ああ。みんなが人喰い鬼を追い詰めてくれている」

 温羅の支えで立ち上がった阿曽の目の前では、人喰い鬼と仲間たちとの死闘が繰り広げられていた。須佐男たちの剣が人喰い鬼の刃を斬り、少しずつ人喰い鬼を追い詰める。

 阿曽が立ち上がったことに気付いた須佐男が、血だらけの左手を振った。同時に、飛んで来た黒い切っ先を右手の剣で叩き斬る。

「よう、阿曽」

「寝坊助か、阿曽!」

 阿曽を寝坊助呼ばわりしたのは、よいを守りながら剣を捌くあしただ。宵は、背中の傷が開いたために休憩をしている。彼も阿曽に気付き、軽く手を振った。

「温羅、阿曽っ」

 温羅と阿曽の前に、人喰い鬼の刃が迫る。それを、何処かから飛び降りてきて両断したのは大蛇だ。翠に光る剣を振り、影の残滓をはらう。

 大蛇に斬られた切っ先は、ぼろりと力を失って消えてしまった。

「大蛇さん、その傷―――」

「ああ、これくらいかすり傷だよ」

 掠り傷だと笑う大蛇だが、頭から血を流していた。自己治癒によって傷は塞がっているはずだが、流れる血は視界を塞ぎ痛みを発しただろう。

 顔に残る血の跡はほとんど拭われているが、自分が気を失っている間に激闘が繰り広げられていたことは安易に想像がつく。阿曽は申し訳なくなり、ぐっと体に力を入れた。

「すみません。俺も、戦います」

「謝ることじゃない。わたしたちは仲間なんだから」

 日月剣ひつきのつるぎを持ち直す阿曽の背を、温羅がトンッと軽くはたいた。その行為は、言葉と同じように阿曽を励ます。

 阿曽は大きく頷くと、黒煙のような翼をうごめかせる人喰い鬼と対峙した。疲れ知らずだった人喰い鬼は、明らかに疲弊していた。

「必ず、助ける。そして……父上を救い出すんだ」

 決意を新たにした阿曽の手の中で、日月剣のつばに埋め込まれた石が静かにまたたいた。



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