遅れた覚醒

第98話 新たな輝き

 輝きは天叢雲剣あめのむらくものつるぎをも包み込み、きらめきを増す。

「何っ!?」

 人喰い鬼が瞠目した時には遅かった。須佐男が間近に迫り、彼の左腕を斬り飛ばしていた。

「クッ」

 よろめいた人喰い鬼は、腕が失われた部分を右手で庇う。そこからは赤い血ではなく、黒々とした瘴気のようなものが立ち昇っていた。

 たったそれだけのことだが、鮮血が散らないこと自体が人喰い鬼が既に伊邪那岐ではないことの証明のように思える。

 そして、人喰い鬼自身も腕が無くなったことに対する痛みはないらしい。瘴気が落ち着くと、顔色を変えることなく右手を離した。

「やるな、小童こわっぱ。……再生しないところを見ると、お前の剣にもあの力が宿っているな?」

「お前が言うのは、天恵の酒のことか?」

おう。我が身は不滅。腕一本くらい、すぐに新たなものがつくられる。しかし、今は違う。ならば、我が天敵を携えてきたことに相違あるまい」

 天敵を相手にしているにもかかわらず、伊邪那岐の言葉は酷く落ち着いている。それが反対に不気味に思え、須佐男は早くこの戦いに終止符を打たなければと改めて決意した。

「神が神を殺すことは、禁忌だ。知っているだろう?」

 須佐男に切っ先を突き付けられ、伊邪那岐は嗤う。余裕と言うには余裕があり過ぎる、そんな笑みだ。

「我は既に天津神ではない。言うなれば、鬼の神。それでも我を殺せないというか?」

「……煽ってんなら、失敗してんぞ」

「それは残念」

 音もなく嗤い、人喰い鬼は残った右手に掴む剣を須佐男の剣に交らわせた。そして刃が形状を変え、蔦のように天叢雲剣に絡みつく。

「ぐっ……」

 引けど押せど、びくともしない。完全に動ける余剰を失った須佐男の腕に、するすると人喰い鬼の刃が伸びていく。

「まずいっ。須佐男、剣を捨てろ!」

 気付いたあしたが叫ぶが、須佐男は頑として譲らない。

「ふざけんな。これを捨てるなんて、あり得ない」

「……余程、それが大切なようだな」

 ほくそ笑み、人喰い鬼は剣を引いた。その途端、須佐男の腕に痛みが走る。

 縦横無尽な刃が、須佐男の腕を八つ裂きにしようと牙を立てたのだ。衣が引き破られ、宙に散る。その下に隠されていた肌は、まだらに裂かれた。

 カッシャン。須佐男の手から剣が落ちた。

「須佐男―――!」

 幾つもの声が重なり、悲鳴がこだまする。次いで聞こえるのは、怒号の嵐だ。

「どけ!」

「行かせろ!」

「お前らの世話など―――」

「している暇はない!」

「須佐男さんッ」

 ドンッという爆発音と共に堕鬼人が一斉に倒され、阿曽たちを中心に雪の結晶のような光の粒が溢れ返る。その場に残っていた堕鬼人を一掃したのだ。

 阿曽の体が菜の花色に、温羅が紅色に、大蛇が翡翠色に、そして晨と宵が紫色に輝く。それぞれが覚醒し、己の色で輝いているのだ。

 幾つもの瞳が倒れていく須佐男に向けられ、手が伸ばされる。

 しかし、届かない。人喰い鬼の剣が再び形を変え、阿曽たちを牽制するからだ。幾つもの枝を伸ばし、それぞれが鋭い刃物となって舞い踊る。

「終わりだな」

 冷たい声で残酷な宣告をすると、人喰い鬼は剣の刃を一つに収束させる。そして、かつては息子と愛したはずの青年に向かって、切っ先を向けた。

「……」

 その様子を、他人事のようにぼんやりと見つめる双眸がある。須佐男だ。

 痛みが遠退き、意識を手放しそうになる。腕だけを痛めつけられたのかと思ったが、人喰い鬼の刃は全身を斬り刻んでいたらしい。流石の須佐男も、滅多切りにされれば命はない。

 これで終わるのか、と漠然と思う。息根を止めるために、人喰い鬼が剣を振り下ろすのが見えた。

 目を閉じれば、楽になる。そうやって何もかも手放そうとした時、瞼の裏に閃いたものがある。

 ―――……では、ご武運を。

 そう呟いた時の、櫛名田くしなだの寂しげな笑みだ。寂しげではあったが、覚悟を決め、そして須佐男たちを信じた表情。

 誰よりも幸せにしようと心に決めていた、たった一人のひとだ。

(走馬灯ってやつか)

 須佐男の中で、幾つもの場面が弾ける。大蛇と出逢った時、温羅と知り合った時、阿曽を温羅が連れて来た時。更に彼らとの旅で出会った、晨と宵を始めとした人々との記憶。

 それら全てが須佐男の今を創り出し、これからも形作っていくことだろう。

(そうだ。ここで諦めたら、全ての約束を守れない)

 須佐男は、大蛇と友でいると約束した。温羅とは大蛇と共に独りにしないと誓った。阿曽に越えられないよう更に強くなると、笑った。

 そして、櫛名田には必ず戻ると言った。天照も月読も、帰るのを待っている。

(駄目だ。まだ……死なない)

「何だ……?」

 剣を須佐男の胸に突き立てようとした人喰い鬼が息を呑む。阿曽たちも目を見張って動きを止めた。

「須佐男、さん?」

 淡く、地面に崩れ落ちた須佐男の体が光っている。それは晴天の空のような色から、徐々に深い海の色へと変化していく。光は強まり、眩いほどの輝きとなっていく。

「―――……」

 ふと、須佐男が目を覚ました。ゆっくりと体を起こし、傍に落ちていた愛剣を拾い上げる。酷く緩慢な動きの中で隙だらけにも見えたが、人喰い鬼は動かなかった。

 否、動けなかった。隙など、全く無かったのだから。

「お、お前は、お前は何者だ」

 無意識に震えたのは、人喰い鬼の声だ。圧倒的な闘気を爆発させ、須佐男が立っている。その体の何処にも、戦いで負った傷は見当たらない。

 須佐男はふっと息を吐くと、天叢雲剣で一閃を繰り出した。静かな、感情のない声が響く。

「―――天時裂剣てんじれっけん

「……ぐはっ」

 人喰い鬼の背に、刃が突き刺さっていた。須佐男が動いた気配はなかったのに、である。その場にいた全員が、我が目を疑った。

 更に阿曽たちを驚かせたのは、人喰い鬼が血を吐いたのと同時に須佐男の腕に裂傷が走った事だった。


「……まずい」

 月を見上げていた月読の焦りの声に、天照は首を傾げる。

「どうしたの、月読? ―――月読!?」

「申し訳ありません、姉上。……行かなくては」

「待ちなさい、月読。『行かなくては』って、まさか」

 顔面蒼白のまま、月読は天照に頷いてみせる。その手は既に、神殿の入口に繋がる戸を掴んでいた。

「ええ。……櫛名田は」

「ここに」

「持って来てくれたのですね、ありがとう」

 月読は、櫛名田の手から大振りの剣を受け取った。装飾は最低限で、ただ剣であることがわかる程度の、美しさを持たない武器だ。

 しかしそれは、月読にとっては命よりも失ってはならない剣である。長い間櫛名田に預けていたが、まさか再び持ち出すことになろうとは。

 鞘を掴み、踵を返す。もう、誰も彼を止める者はいなかった。

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