第97話 悲痛な叫び

 須佐男が見つめていたのは、暗闇の更に深い場所にある神殿によく似た建物だ。その建造物の外に、一人の男が立っている。

 以前は結われていたであろう黒髪は乱れ、下ろされたままだ。

 眼光鋭く、それだけで射殺しそうなほど強い。阿曽や温羅よりも鮮烈な赤色の瞳に、憎悪に似た感情が宿る。

 衣服は黒に統一され、王の風格と険しさがその身を飾る。

「……行こう。向こうも気付いてる」

 須佐男は男から視線を外すことなく、静かすぎる声色で言う。それに否を唱える者は、この場には一人もいなかった。

 岩場を下り、順に男の前へと進む。緊迫した空気がその場を支配し、誰もが息をすることすらも辛かった。

 須佐男は男の前に立ち、一つ尋ねた。

「お前は、伊邪那岐いざなぎか?」

「……我が名は、伊邪那岐だった。しかし今、名を持たぬ」

 赤みを失った肌は、青白い。そしてその地響きのような声から、天津神であったということを知らなければ思いつきもしないだろう。

「名を捨て、全てを捨て去った。あるのは、我が身のみ」

「――ならば、お前を倒すことに躊躇ためらいなどない」

 何故、と叫びたかった。その感情を捨て去った目に、戸惑いを浮かべてやりたかった。どうしてオレたちを残して去ったのか、と胸倉を掴んで問いかけたかった。

 しかし今、須佐男の中からそんな気持ちは消えた。

 阿曽が、温羅が、大蛇が、須佐男を見詰める。その瞳に映る感情に、須佐男は応じない。応じることなど、出来ようもない。

「人喰い鬼と呼ばれ、堕鬼人を生み出すことで人の命を迷わせた罪――あがなえ」

「笑止」

 須佐男の剣が呻るのと、人喰い鬼の闇色の剣が振られるのはほぼ同時。二つの刃は火花を生み、静かな世界に緊迫を誘い込んだ。

 人喰い鬼の剣は、何にも染まらない真っ暗な闇だ。自在に形を変え、須佐男の剣が中心を捉えることが出来ない。まるで、光を飲み込む闇そのもの。

「くそっ」

「須佐男、今助け……っ」

 大蛇が一歩前に出ようとした時、人喰い鬼の右腕が軽く振られた。すると、大蛇たちの前に堕鬼人が何人も現れる。

 何処から現れたのかと剣を抜く大蛇たちに向かって、人喰い鬼は一瞥いちべつをくれる。その冷え切った目に、阿曽はぞくりと怖気を感じた。

「そいつらを相手にしておけ。こいつを殺せば相手をしてやる」

 人喰い鬼の言葉と同時に、堕鬼人が阿曽たちに襲い掛かる。その堕鬼人たちが中つ国で饒速日にぎはやひ香香背男かかせおを苦しめていた者の残りだと知る者は、人喰い鬼だけだ。

 ―――バシュッ

「よしっ」

 温羅が地速月剣ちのはやつきのつるぎで堕鬼人の胴体を斬った。斬られた堕鬼人は目を見張り、やがて光の粒となって消えていく。

 それまで、堕鬼人は死ぬと塵となって消えた。しかし今、明らかに異なる現象が起こっている。

「……これが、天恵の酒の力か」

 光は根の堅洲国を飛び出し、何処かへと去る。恐らく、次の生を得るために旅立ったのだろう。

 ぐっと剣を握り締め、温羅は微笑む。

「これなら、無意味に殺すことはなくなる」

「やらなきゃ、彼らは生まれ直せないってことか!」

 大蛇が堕鬼人の中に飛び込むと同時に、天羽羽斬剣あめのははきりのつるぎを振り回す。鮮血が舞い、大蛇の衣を染めた。

 しかしそれも一瞬のことで、堕鬼人が消えると時を同じくして血の跡もかき消える。全ての痕跡を、何処かに持って行くのだ。

「―――阿曽っ」

「うわっ」

 光の粒に見惚れていた阿曽は、温羅の声によって現実へと引き戻される。目の前には刃物を持った堕鬼人が迫り、阿曽は日月剣ひつきのつるぎを構えようとした。しかし、相手の方が早い。

 ―――パァンッ

「気を付けろよ、阿曽」

「あ、ありがとう……よい

 目の前に迫り阿曽の首を狙った堕鬼人は、その場に崩れ落ちた。背中には宵が放った天波波矢あめのははやが突き刺さっている。

 矢を中心に堕鬼人の体は崩れ、飛び去った。

 阿曽が体勢を立て直して礼を言うと、宵は少し驚いた顔をして、不器用に微笑んで見せた。そして阿曽が言葉をかける前に、次の敵に狙いを定める。

「おれもっ」

 阿曽の傍を駆け抜けたあしたが、神度剣かんどのつるぎを躊躇いなく振るう。一閃で堕鬼人を倒し、逃げる隙を与えない。

 両面宿禰りょうめんすくなの双子である晨と宵は、実の父に自分たちを認めさせるため、無謀とも言える激しい戦いの中を生きてきた。その時の覚悟が、今遺憾いかんなく発揮されている。

 既に、初めにいた堕鬼人の半数が消滅した。

 阿曽は、日月剣を握る手に汗をかいていることに気が付いた。緊張が、自分の動きを制限する。それを知っているから、阿曽は仲間たちを見回した。

 目が合ったのは温羅だ。その器用さを生かして、敵の隙を捉えて斬り捨てる。

 大蛇は体の軽さを生かし、素早い動きで急所を撃つ。敵が気付くより速く、その命を終わらせていく。

 晨は付き合いの短い神度剣を使いこなし、意表を突いて堕鬼人を次の世へと送り出すのだ。

 宵の弓矢の腕は、何故今まで剣を使っていたのかと尋ねたくなるほどに正確だ。一度狙ったが最期、敵は運命を変えられない。

「―――負けない。そして、全員で帰るんだ」

 阿曽は淡く光る剣を構え、力強く駆け出した。

 最初に襲って来た堕鬼人は宵が放った矢に倒れ、背後から来た堕鬼人の足を払う。しかし飛び起きた敵の手にかかりかけ、咄嗟に剣を突き出した。

「……はっ、はっ」

 激しく動く胸の奥が、阿曽自身が生きていることを知らせる。自分の胸の上に落ちて来る液体を見て、阿曽は堕鬼人の胸に剣が突き刺さっていることに気が付いた。

 徐々に壊れていく堕鬼人の体。顔が消える直前、わずかに堕鬼人が微笑んだ気がした。

「まだだ」

 斑に飛び散っていた血は、既にない。傷だらけで衣も所々破れている。それでも、立ち止まることは出来ない。

 阿曽はたった一人で人喰い鬼と対峙する須佐男を一瞥し、すぐに戦いへと舞い戻った。

「なかなかやるな。あれは……天恵か」

 人喰い鬼はさほど関心もないのか、須佐男の剣を打ち返して呟く。更に剣を変化させ、網のように広がった刃が須佐男を襲う。

「くっ」

 躱しても躱しても、追って来る刃を弾く。須佐男は体中から血を流し、人喰い鬼――かつて自分の父であった男を睨みつけた。

「―――ッ。オレは、お前の息子だったんだ!」

 悲痛な叫びが、こだまする。それは血を吐くような声であり、願い。

 しかし、それに対する言葉に感情などはない。人喰い鬼は極寒の瞳で須佐男を視界に入れ、目を細めた。

「そんなもの、とうの昔に消し去った」

「―――っぁああああああ!」

 須佐男が獣のような雄叫びを上げる。それと同時に、彼の体が光を発した。光は空よりも深い色を示し、海よりも鮮やかな青色となった。

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