第92話 常倉の女神

 神殿を出て、二日後。

 少彦那すくなひこなの瞳が導いた先は、高天原の中でも郊外と言える場所だった。何故そこが常倉とこくらだとわかったかと言えば、川を渡った瞬間に光りがプツンと消えたからだ。

 幾つもの森や川、島を超えた先にある。小さな聖域だった。

「川は、境界線だ。こちらとあちらは別の場所なんだと宣言する意味があるんだ」

 温羅の言葉通り、常倉の前には何本もの川が流れている。自然に生まれた川は異なるが、手が入った川は入れた者の意図が反映される。

「だから、常倉は今まで知られていなかったんだろ」

 須佐男が伸びをしながら言う。造られた川が、何十もの結界を作り出しているのだ。だからその存在は公にならず、天照さえも知らなかった。

「兎に角、女神に会わないとね」

「ああ。こっちの意図は伝えてるって話だったけど、きちんと説明する必要もあるだろうし」

 温羅と大蛇が言い合い、阿曽も頷く。

 常倉の女神である九重ここのえ菊花きくはなは、少彦那に仕える立場だという。ここにたどり着くまでに、瞳を通じて少彦那が教えてくれた。

 九重は酒精を司り、菊花は酒のもととなる穀類や果実を司る。二人の力が合わさり、初めて神酒が生まれるのだ。

「えっ」

 突然、何処からともなく現れた光の玉がくるくるとその場で回り出した。何事かと思えば、目の前に二本の柱が立っている。その間は何もなく、そこから先への入口となっているようだ。

 柱を見上げる阿曽の傍に、温羅が近付く。柱の先を見れば、明るい森の道が続いているように見える。

「この先、かな」

「そうみたいです。ほら」

 阿曽が指差したのは、光の玉がふわふわと浮きながら柱の間を通っていく様子だった。須佐男がその軌跡を追い、苦笑いをする。

「来いってことか」

「だね。――行こう」                                                 

 大蛇が先導する形で、四人は聖域へと足を踏み入れた。


 木々が囁く。そのざわめきを倉の中で聞き、一人の若い女性が顔を上げた。その手に握られた棒で、今しがた樽の中の液体をかき混ぜていたのだ。

「どうしたのです、九重?」

「いえ……」

 九重と呼ばれた黒髪の女性は、軽く頭を振った。彼女の踵に届きそうな程長い髪が揺れ、髪を彩る装飾が動きを共にして涼やかに鳴った。大きめの目を瞬かせ、何かを探すように視線を彷徨わせた。

「何か、聞こえた気がしたのです。木々が、わたくしたちに伝えようとしていたような、そんな気が」

「あなたが言うのなら、そうなのでしょうね」

 九重と反対に全体的な色素の薄い同年代の女性が、ふっと微笑む。彼女の髪は茶色が混じり、更に長さはあるものの腰の位置で切り揃えられている。

「あなたには、きっと森の声が聞こえているから」

「ありがとうございます、菊花」

 菊花と呼ばれた女性は、勝気な笑顔で九重に応じた。

 二人は容姿も性格も正反対だが、女神として続けてきた仕事の息は誰よりも合う。二人がこの常倉の地で酒造りをしていることを知るのは、少彦那など極々一部の神のみである。

「少彦那様が来られたの?」

 木々がざわついたという九重の言葉から、菊花が神の訪問を想像した。しかし九重は「違うのです」と否定する。

「わたくしたちが知らない誰か。けれど敵意はない、そう言っているようで」

「知らないけれど敵意はない? じゃあ、何者だっているの……?」

 神酒造りの手を止め、菊花は聖域をと外界を繋ぐただ一つの道へと目をやった。すると、何かがふよふよと浮き沈みしながらやって来る。その色に見覚えがあり、菊花は声を上げた。

「あれは、少彦那様の!」

「少彦那様の、瞳の色?」

 浅葱色の光は、菊花の手のひらで点滅を繰り返す。その様子を覗き込んだ二人の女神の頭の中に、少彦那の声が響いた。

 ――今から、わしの推薦した者たちが訪ねて行く。その願いを、叶えてやって欲しい。

 それだけ伝えると、光はポンッと弾けて消えてしまった。おそらく、少彦那本体の所に戻ったのだろう。

「推薦した者?」

「誰なのでしょうね?」

 二人は首を傾げ、尋ね人が欲しがるであろう樽の中身を思った。すると何処からか、少彦那の声が響く。二人はこれからやって来る者たちの目的を聞き知ったのだった。


 何処までも美しく爽やかな木々が風に揺れている。心地良い空気の中、阿曽は緊張の面持ちで道を進んでいた。

「阿曽、顔がこわばってるけど大丈夫かい?」

「え? あ、ああ大丈夫ですよ。ちょっと緊張しているだけなので……」

「ちょっとにしては、体の動きが硬過ぎるだろ」

 温羅に続いて須佐男に呆れられ、阿曽はぐっと拳を握り締める。

「そんなことないです」

「気負い過ぎるなよ。これは、ぼくたち四人ですべきことなんだから」

「ありがとうございます、大蛇さん」

 くすくす微笑み、大蛇は阿曽を気遣った。その気持ちに感謝し、阿曽は大きく息を吸い込んで、吐き出す。

 木々の道は何処までも続くような気がするほど底がなく、何処までも同じ景色が続くために迷いそうな錯覚に陥る。しかし先程少彦那の光がこの向こうへと真っ直ぐ跳んで行ったことを考えると、行く先に問題はないのだというのは明らかだ。

「……あそこ、か?」

 不意に、視界が開ける。森の先にあったのは、小さな小屋と大きな倉だ。辺りには芳醇な何かの香りが立ち込め、阿曽はぐらりと頭が回るように感じた。

「お、大丈夫かい?」

「あ、りがとうございます。何か、ふらってしちゃって」

 受け止めてくれた温羅に礼を言い、阿曽は自分の足で踏ん張ろうとする。しかし思うような力を出せずに、再びよろけた。

 くんっと鼻をうごめかせた須佐男が、少し嬉しそうな顔をした。この匂いに覚えがあるのだろうか。

「須佐男さん、この香りが何かわかりますか?」

「何かも何も、酒だろ。これは」

「ああ、そうだね。阿曽、きみは酒の匂いで酔ってしまったんだよ」

 温羅に指摘されるが、それがどういった状況なのかわからない阿曽は、力なく首を傾げた。その様子に、大蛇が本気で心配し始める。

「阿曽、辛いようなら少し離れて……」

「どうかなさいましたか?」

 何処からともなく聞こえてきた涼やかで高い声に、四人の視線が集まる。倉の中から出て来たのは、二人の女性だった。

 穏やかそうな黒髪の女性と、勝気な性格が顔に現れている茶髪の女性だ。彼女らが現れた倉の中からは、より強い匂いが流れて来る。阿曽は思わず鼻をつまんだ。

 正体のわからない二人を相手に、温羅が前に出る。

「申し訳ございません。ここに、天恵の酒を造る女神がおられると聞いてきたのですが……」

「それは、わたくしたちのことですわ」

 髪の長い方が九重と名乗り、もう一人が菊花を名乗る。二人は目を見張る四人の前に立ち、改めて挨拶をした。

「ようこそ、常倉へ」

「あなた方は、少彦那様の推薦を受けた人たち?」

「……ええ。わたしたちは、少彦那さんに行くよう言われてここに来ました」

「天恵の酒、ぼくらに譲ってはもらえませんか?」

 温羅に続いて大蛇が交渉を開始する。九重と菊花は顔を見合わせ、頷き合った。

「どうぞ、こちらへ」

 九重と菊花の案内を受け、四人はまず小屋の中へといざなわれた。


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