第86話 風の変化

 鴉羽色の長髪をそのまま下ろした青年は、阿曽たちが現れるのを見るとわずかに笑みを浮かべた。

「久しいな。……色々と変わったらしい」

「まさか、あなたから来られるとは思いませんでしたよ」

 温羅が少彦那を迎えると、彼は眉をひそめた。

「事情が変わった、と言えば良いのか。少し急がなければならない事情が出来た」

「事情?」

 阿曽が反復するが、少彦那は黙って首を振るのみである。これ以上の話はここでは出来ないとでも言うかのように。

「お前たち全員に、話そう。そして、天恵の酒を渡せる実力を備えたか否かを確かめさせてもらうことにする」

 そう言い切ると、少彦那は颯爽と神殿の中へと姿を消した。彼の動きは神殿を知っているかのようなものだ。阿曽は不思議に思い、須佐男を見上げた。

「彼は、ここに来たことがあるんですか?」

「ある……のかもしれないな」

「知らないのかよ」

 大蛇が思わず言うと、須佐男は頭をかいた。

「知らない。……姉貴や兄貴なら何か知ってるかもしれないがな」

「とりあえず、彼を追おう」

「あ、そうですね」

 温羅の提案に全員で頷くと、四人は少彦那の背を追った。

 ずんずんと進む少彦那の後を追えば、彼はいつの間にか天照と月読と挨拶を交わしていた。ばたばたと追う阿曽たちに気付いて振り返り、何でもない顔をして促す。

「天照がここを貸してくれる。お前たちも黙って入れ」

「は? 何でお前が姉貴を……」

 須佐男が食って掛かろうとするが、少彦那はその目力だけで彼を黙らせる。そしてくいっと顎をしゃくった。ついて来いと言うのだろう。

 須佐男たちは大人しく、促されるままに席に着いた。そこへ、天照と月読も姿を見せる。

「……皆、揃ったようだな」

 おごそかにすら聞こえる声で、少彦那が確かめる。その圧力が全員の注意を彼に引き寄せた。

 しん、と静まり返った中、須佐男の苛立ちを交えた声が問う。

「まず、あんたがここに来た理由を教えてもらおうか」

「逸るな、須佐男」

「だがっ」

 大蛇に止められ、須佐男は立ち上がった。しかし、その先にあった天照の瞳が「否」と命じる。

「……」

 大人しく座った須佐男に、少彦那は肩をすくめて応えた。

「須佐男がそう言いたいのもわかる。話すべきことを話すためにも、それは必要不可欠な要素だからな」

 そう呟くと、少彦那はゆっくりと話を始めた。

「まず、ここに来た理由だが……風が変わった」

「風?」

 阿曽が首を傾げると、少彦那は「そうだ」と頷く。

「高天原と中つ国、そして黄泉国を吹き抜ける戦いの風。その風向きに変化が生じた。今まで見えていた未来とは違う方向に歩き出している」

「戦いの風の、向き……」

「そうだ。そしてそのきっかけは、お前たちが桃太郎を枷から解き放ったことに由来する。彼女が根の堅洲国から身を引いたことで、人喰い鬼が表に出て来ざるを得なくなった」

 桃太郎は、人喰い鬼の最有力の駒だと少彦那が断言する。例え犬飼いぬかい楽々森ささもり留玉とめたまの三名が絶命したとしても、桃太郎という機械つくりものさえ手元にあれば計画に狂いなど生じなかっただろう。しかし、それも今や高天原の手にあるのだから。

「人喰い鬼の企ては狂った。しかし、彼自身が動けばその狂いも無くなるのと同じ。……何せ、中つ国を生み出した神の片割れなのだから」

「だから、伊邪那岐尊いざなぎのみこと……父上が自らオレたちの前に現れるとお前は言うのか」

「そうだ。そして……お前たちには更に短い時間以下与えられていない。今現在の、中つ国を知っているか?」

「今の? いや、わたしたちは先程まで黄泉国にいました。ですから知りません」

 緩く首を横に振る温羅に、少彦那は嘆息すると指を鳴らした。すると彼の背後に水面のような波紋が浮かび、何かが映し出された。

「これは――」

香香背男かかせおさん!?」

 息を呑む大蛇と、名を叫ぶ阿曽。彼らが目にしたのは、傷だらけの香香背男の姿だった。香香背男は今、北の地で客人まろうどたる鬼の集落にいるはずだ。しかし何故、彼がぼろぼろになっているのか。

「次だ」

 四人の疑問を無視し、再び少彦那は指を鳴らす。すると場面が切り替わり、香香背男の代わりに別の大男が映し出される。どう見ても饒速日にぎはやひの姿だ。

 饒速日はあの十種宝物とつかのたからが収められた倉を背にして、何かと対峙している。

「何が起こっている……?」

 温羅の疑問は、全員の頭の中にある。再び声を荒げかけた須佐男より先に、月読が少彦那の方を向いて口を開いた。

「堕鬼人が増えている、ということでしょうか」

「その通り。しかも、人喰い鬼の意を受けて確実にこちらを殺しに来ている」

「厄介な……」

 月読が渋面を作るのは珍しい。いつも表情がほとんど変わらない兄の変化に、須佐男は不安を覚えた。バンッと机を殴るように叩いて少彦那をねめつけた。

「おい、少彦那。兄貴が言ったのはどういうことだ?」

「そのままだ。人喰い鬼が、お前たちを殺すべき敵と認識したということだ。……あの堕鬼人たちに、最早生前の記憶などない。ただお前たちとお前たちにつながる者たちを殲滅するためだけに放たれた、刺客だ」

「―――ッ」

 ぐぐっと拳を握り締めた須佐男は、未だに映し出される饒速日の苦境を思い歯噛みした。彼は決して弱くはないが、高天原を去って長く時間が経ち過ぎている。

 それは香香背男も同じことだ。強さに関しては折り紙付きの彼らだが、たった一人では出来ることも限られよう。

「……堕鬼人は、他人の欲の成れの果て。一度その道に足を踏み入れれば、決して戻ってくることは出来ない。――たった一つ、天恵の酒以外の方法では」

「!」

 全員の視線が天照に注がれる。それらを全て受け止めた天照は、にっこりと少彦那を目で射抜いた。

「あなたがここへ来たのは、その話のためでしょう。違いますか?」

「……全く、流石は巫女神――否、高天原を統べる女神だ」

 降参だという風に軽く両手を上げる仕草をした後、少彦那は阿曽たち四人を順番に見つめた。

「お前たちに以前言ったこと、覚えているか?」

「ぼくと温羅、それに須佐男が本来の力を取り戻し、阿曽が日月剣を使いこなせるようになったらもう一度少彦那あなたを尋ねろ。その時初めて、天恵の酒を渡してくれる、と」

 大蛇がすらすらと言うと、少彦那は深く頷いた。

「その通り。だが、風は変わった。もう、時間は残されていない」

 少彦那は立ち上がると、温羅と大蛇を指差した。

「温羅、八岐大蛇。お前たちは以前の条件に既に達した。しかし」

 目を向けたのは、須佐男と阿曽だ。彼ら二人は、それぞれに次に言われる言葉を知っている。

「『お前たち二人は、まだ達していない』。そう言いたいんだろう、少彦那」

「言うまでもない、か」

 少彦那は息をつき、顔を上げた。その目に須佐男と阿曽の顔が映る。

「須佐男、お前は今後の戦いで覚醒しなければならない。その時が来る。しかし、阿曽。お前は今、ここでわしに力を見せよ」

「は?」

 目を瞬かせた阿曽に、少彦那は「二度言わせるな」と眉を寄せる。そして、音もなく立ち上がると身を翻した。

「来い、阿曽。――お前の力をわしに示せ」

「―――ッ」

 日月剣を握り締め、阿曽は少彦那の背を追った。




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