第72話 阿曽の正体

 伊邪那美いざなみに阿曽が会いに行くと、彼女は阿曽を抱き締めた。柔らかな女人の温かさが阿曽を包み込む。

「伊邪那美さん……」

「ごめんなさい、阿曽。あなたの心の傷をえぐってしまったのでしょう? 本当に、ごめんなさい」

「あ、謝らないでください。そのお蔭で、俺は記憶を取り戻したんですから」

 阿曽の言葉に、伊邪那美はハッと目を見張る。そろそろと阿曽から離れ、彼の頬に手のひらで触れた。

「記憶を取り戻した? それは、本当に?」

「はい。……だから、俺は自分が誰なのか、わかったんです」

 阿曽は赤色の瞳を真っ直ぐに伊邪那美に向け、一息に言い切った。

「俺は、日子ひるこ多々良たたらの子です」

 はっきりと告げられた事柄に、温羅を始めとした全員が驚きを隠せない。須佐男は「まじか」と言葉を失った後、ある事実に思い当たって声を上げた。

「え、それなら阿曽はオレの甥ってことか!?」

「あ~、そうなるみたいです」

 後頭部をかき、阿曽は苦笑する。

 伊邪那美は阿曽が血筋にあたることに衝撃を受けていたが、ふと冷静に立ち戻って阿曽と目線を合わせるために腰を折った。

「阿曽、私にもわかるよう、あなたが思い出したという記憶についておしえてくれますか?」

「はい」

 阿曽は首肯すると、夢を思い出しながら一つずつ話し始めた。

「俺は、記憶を失ってから何度も同じ夢を見ていました。誰かが俺に向かって謝っているという夢です。その声の主が、俺の母――多々良であるとわかりました」

 夢の中で、多々良は誰かに殺された。雪積もる中、血の海の中で事切れる瞬間、彼女は阿曽に「残してごめんね」と涙したのだ。

「きっと、それが俺の中に強烈な印象を残したんでしょう」

 そして、自分は母を目の前で失った衝撃によって記憶を失ったのだろう、と自己分析してみせる。

「その年齢で親を目の前で殺されたんだ。傷になって当然だろう」

 大蛇が阿曽の頭を撫でる。子ども扱いされて少々むくれたが、彼が阿曽を見くびっているわけではないと知っているために文句は言わない。

 阿曽は左の二の腕を出し、傷痕を指差した。

「これも、その時のものです。……堕鬼人と思われる男が、母を殺したんです」

「その堕鬼人らしき男のこと、覚えている限りでいいから教えてくれますか? ここは彼らの領域と近いですから、手掛かりくらいは掴めるかもしれません」

「わかりました」

 伊邪那美に従い、阿曽は敵の男に関して思い出せる限りのことを口にした。

「地獄の業火のように真っ赤に染まった瞳と、全てを憎む眼差し。更に手には武骨な剣を持っていて、昔は綺麗に結われていたと思われる黒髪は乱れ切っていました。……そして、最後にあいつは名乗ったんです」

「名乗った? なら、話は早い。その名を持つ奴を探し出せばいいじゃねえか」

 それで解決だ。そう言って歯を見せた須佐男に、阿曽は首を横に振った。

「名前がわかれば、ですよね」

「わからないのか?」

「はい。……そこだけぽっかりと空いているんです。そこだけが、思い出せないんです」

 申し訳ないです。そう言って小さくなる阿曽の肩を、温羅が軽く叩く。

「謝ることじゃない。それに、阿曽はようやく自分が何者かわかったんだ。今はそれを喜んで、確かな記憶を刻み込めばいいんじゃないかな」

「そうだな。それに、寝ている間に他の記憶も掘り起こされたんだろう? 今の話だけじゃ、お前が日子という神の息子かどうか全くわからないじゃないか」

 温羅の言葉に同意した上で、大蛇は更に踏み込む。阿曽は「その通りですね」と肩をすくめた。

 伊邪那美は四人の会話を傍で聞きつつ、何かをずっと考えている。

「大蛇さんの言う通り、俺の中に眠っていたらしい記憶が、一気に溢れ出しました。……その中に、父との記憶があったんです」

 それはひどく淡く、断片的な記憶だ。

 父と母と三人で食べる、朝の食卓の風景。質素な朝餉あさげを食べる幼い阿曽の頭を、父が優しく撫でる。

「阿曽、多々良を……母さんを頼んだぞ」

「うん、まかせて!」

 これから先のことも知らない子どもは、無邪気にそう返答した。二人の様子を傍で見ていた女人は、寂しげに『父』の大きな手を握った。

、どうかご無事で」

「……、きみもな」

 多々良の紅色の瞳が揺れる。それを見つめる日子の瞳は、深い緑色だった。

 愛しげに多々良の長く美しい黒髪に指を通し、日子は家を出た。

「きっと、これは俺が家族で過ごした最後の朝だと思います」

 確かに、父の名は日子と言い、母の名は多々良と言った。何故二人があの森に居を構えたのかは定かでないが、少なくとも血筋は間違いがない。

 その後、記憶はあの最期の冬の朝へと続くのである。

「……確かに、日子の瞳は深い森を思わせる緑でした。あの方と同じ」

「あの方?」

 ふと漏らした伊邪那美の言葉に、須佐男が反応する。伊邪那美は頷き、悲しげに呟いた。

「……伊邪那岐いざなぎさま。私の夫であり、須佐男たちの父。そして、行方知れずとなった愛しい方」

「母さんは、ずっと父さんを探し続けているんだ。いなくなったのはもう随分と前のことだが、未だに四方八方に調べがたを行かせては探している」

 阿曽たちにわかりやすいよう、須佐男が補足説明を加えてくれた。それを承認するように頷き、伊邪那美はふっと柔らかい表情を浮かべた。

「伊邪那岐さまがここにおられたら、きっと阿曽が日子の子であることを喜んでくれたでしょうね。……ただ、禁忌を破り生まれてしまったから、そこは許せないかもしれませんが」

 禁忌という言葉を聞き、阿曽は夢で男に言われた言葉を思い出した。

「『禁を破り、忌み子を産んだ。これは、その報い』。男はそう言っていました」

「報い」

「何だよ? それじゃあ、阿曽の母さんはその『禁忌』を犯したから報いを受けて死んだっていうのか」

 あんまりじゃないか。そう言って、須佐男が多々良たちを擁護しようとする。伊邪那美は困ったような顔をして、ゆっくりと口を開いた。

「古来より、人と鬼、神は交わってはいけないと言われてきました。特に神と鬼が結ばれることは禁じられてきたのです」

 伊邪那美は阿曽を見つめて「でも」とため息をつくように絞り出した。その声に、言葉が乗る。

「禁忌により結ばれた二人の子は忌み子と呼ばれ、長くは生きられないことが多くあったといいます」

 だからこそ、呪い子や忌み子と呼ばれてしまう。でも、と伊邪那美は微笑んだ。その両手を阿曽を抱き締めるために使った。

「伊邪那美さっ……」

「私は、日子の子に会えて、とても嬉しいわ」

 ぎゅっと抱き締められた伊邪那美の胸の中で、阿曽は懐かしい香りを感じていた。

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