第71話 取り戻した記憶

 阿曽は悟った。このひとと自分の位置は反対だったのだと。本当ならば、彼女が横たわり、自分が彼女を見下ろしていなければならない。この涙は、彼女のものではなく自分のものなのだ。

 何故なら、あの冬の日に雪のとこで仰向けになっていたのは、彼女だったのだから。

 全てを今、思い出した。

「かあ、さん……」

 ぼろぼろと大粒の涙が阿曽の目から流れ出る。止めようとしても、幾ら拭っても止まらない。

 雪で足が濡れる。衣が濡れる。しかしそんなことは、最早どうでもいい。

 阿曽はかくんと膝を折り、座り込んだ。その時、左の腕が痛んだ。いつの間にか、衣はあの森にいた頃のものに戻っている。その袖が斬られ、肌が露わとなっていた。

「!」

 阿曽の左の二の腕に何かに斬られた傷があり、そこからは赤い血が溢れ出ている。真新しい傷だ。

(そうか、この傷は……)

 思い出しかけた時、背後に殺気を感じて振り返る。そこには、返り血を浴びて衣を真っ赤に染めた男の姿があった。

 地獄の業火のように真っ赤に染まった瞳と、全てを憎む眼差し。更に手には武骨な剣を持ち、その刃は血を滴らせている。昔は綺麗に結われていたであろう髪は乱れたままであり、それが男の狂気を示すかのようだ。

「お前が、お前が母さんを殺したのか!」

「……」

 夢だとわかっていても、返答などないとわかっていても問わずにはいられない。何故、何故、何故。何故自分の母が殺されなければならないのか、理解など出来るはずもなかった。

 阿曽は事切れた母の上半身を起こし、守るように抱き締めた。その体は雪よりも冷たく、もう生きてはいないのだと明言する。まるで現実のように、その冷たさは阿曽に染み入った。

 涙を溢れさせたまま睨みつける阿曽に、男は人差し指を向けた。正しくは、阿曽の胸に抱かれた女へ向けて。

「……その女は、禁を破った」

「きん……?」

「禁を破り、忌み子を産んだ。これは、その報い」

「禁、忌み子、報い……?」

 一つずつの言葉が、ゆっくりと阿曽の中に溶ける。そして、震える拳を握り締め、阿曽は男を見上げた。

「お前は、誰だ。母さんを殺し、俺の記憶を奪い、何処かへ消えた。おまえは誰だ」

わたしの名は―――」

 男の声は、何故か聞こえない。聞こえているはずなのに、不快な雑音にかき消される。

 男は何か言い終えると、踵を返した。

「ま、待て。お前は、誰だーーー!」

 阿曽の叫びも空しく、雪の向こうへと消え去った男には届かない。手を伸ばせど、その手は何も掴むことは出来なかった。

 同時に周りの景色が白み始め、阿曽は己が消えるのを自覚した。




 ―――そ、阿曽。

 誰かが呼んでいる。大切な誰かの声だ。阿曽は意識をゆっくりと浮上させていたが、夢で見た男を意識した途端に跳ね起きた。

「待てっ……て?」

「お、起きたか。阿曽」

「温羅さん……?」

 手を前方に伸ばして上半身を起こした阿曽は、驚き目を見張る温羅の顔を見て呆然とした声を漏らした。すぐ近くには須佐男と大蛇もおり、阿曽が目覚めたのに気付いて寄って来る。

「お前、汗かいてるけど大丈夫か? 涙の跡まであるじゃないか」

「おはよう、阿曽」

「須佐男さん、大蛇さん……」

「伊邪那美さんの前で突然倒れるから、何があったのかと心配していたんだよ」

 大蛇が阿曽の涙の残りを指で拭い取り、そう教えてくれた。

 伊邪那美の前で気を失った阿曽を温羅が運び、用意してもらった寝具に寝かせたのだという。伊邪那美も心配していたと聞き、阿曽は申し訳なくなった。

「ご迷惑おかけしてすみま……」

「これは全然迷惑なんかじゃない。謝らないでくれ」

 阿曽の唇すれすれに人差し指を置き、温羅が笑う。その通りだと、須佐男と大蛇も頷いた。阿曽はなんだか恥ずかしくなり、伏し目がちになりながら呟く。

「……はい。ありがとうございます」

「それでよし」

 ぽんぽんと阿曽の頭を撫でた温羅は、ふと真剣な顔をした。

「阿曽、うなされていたけど何か悪い夢でも見たのかい?」

「背中も汗でぐっしょりだ。衣を変えた方が良い」

 須佐男に体を拭くための布を手渡され、阿曽は上半身の衣を脱ぐ。確かに濡れた衣が背に貼りついて気持ち悪い。

 ふと、阿曽の目が自分の左腕に吸い寄せられる。そこには、既に痕となった傷がある。阿曽の頭に、夢の内容が再び鮮やかによみがえった。

「……阿曽?」

 青ざめた阿曽を温羅が気遣う。大蛇も阿曽の背を叩いて、眉をひそめ微笑んだ。

「無理に今話そうとしなくてもいいぞ?」

「いえ。話さないと、いけないんです」

 ふるふると首を横に振り、阿曽は息を整えた。

 思い出されるのは、赤く染まった雪と目の前で死んだひとの姿。そして、冷酷な眼差しをした赤い目の男。

「俺は……」

 ―――とんとん

 その時、部屋の入口の壁を叩く者がいた。

 四人全員がその方向を見ると、女人が立っている。整った顔立ちにきりりとした目元、そして結われた黒髪と赤い鬼灯ほおずきのような瞳の女人だ。

「お話し中のところ、申し訳ございません」

 丁寧に腰を折った彼女は、自らを『醜女しこめ』と名乗った。その名にそぐわず、美しい鬼の女人である。

「主、伊邪那美がお呼びです。もしもご体調の優れないようでしたら、改めると申しておりましたが……」

「行きます」

 須佐男たちに先んじて、阿曽は言った。足を床に下ろし、立ち上がる。少しよろけて、温羅に支えられた。

「まだ休んでいなくて良いのか?」

「はい。―――俺は、話さなくてはいけないんです」

 足を踏み締め、阿曽は真っ直ぐに出口へと向かう。そして、仲間たちを振り返った。

「忘れていたこと、思い出したんです。おそらく、全て」

 だから、伊邪那美にも会わなくてはならない。阿曽はそう言い切って、驚く三人と共に部屋を出た。


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