第70話 交わした文

 じっと阿曽の顔を見ていた伊邪那美いざなみは、そっと彼の頭を撫でた。その行動の意味がわからずに硬直している阿曽に向かって、伊邪那美は「ごめんなさい」と謝った。

「……わたくしは、日子ひるこの子をこの目で見たわけではないのです。全て、あの子から送られて来た文に書かれていたことだから。それを読んだ上で、私はあの子が高天原に帰ることも、黄泉国にやって来ることも拒否しました。……当時、私の若かったのか、神として役目を全うしないあの子を許すことが出来なかったのです」

 今も、日子が何処にいるのかはわからない。そう伊邪那美は言う。

 伊邪那美では自分の正体はわからない。その事実は、阿曽を落胆させた。しかし伊邪那美は、阿曽たちにこの場で少し待っているよう言って何処かへと去った。

 伊邪那美を待つ間、酒天しゅてん茨木いばらきが阿曽たちのもとへと寄って来る。どちらも顔に好奇心の文字が貼りついている。

 酒天が温羅の横腹を小突く。

「温羅。お前が封じられたと聞き城を去って、ワシらは黄泉国へと戻った。しかしお前は、再びワシらの前へと姿を現した。それから何度も顔を合わせたが、お前は中つ国や高天原へ顔を出すことの方が多い。だから、あまり訊けなかったんだが……あの後、何がどうなったのだ?」

「封印は半分だけだったんだよ。半分の力だけ持って、五十狭斧彦いさせりひこに見つかるわけにはいかなかったから、すぐに黄泉に戻ることは出来なかったんだ。それは、申し訳なく思っているよ」

 苦笑気味に返す温羅に、今度は茨木がちょっかいをかける。背の高さを利用し、頭の上からのしかかった。

「で、今度は須佐男さまに八岐大蛇さままで連れてきたな。須佐男さまはあるじの息子だし、あの方もお喜びだ。だが……」

 茨木は阿曽をちらっと見て、首を傾げた。

「あの子どもは、鬼ではないのか? 目は赤いし、ただ人には見えないんだが」

「この黄泉国であいつを見たことは、ワシもない。始祖からつながる鬼は、全て伊邪那美さまの知るところだ。あの方もご存知ないと言うなら、あいつは純粋な鬼ではないぞ」

「さっきの会話、聞いていなかったのか? 阿曽自身もそれがわからないから、尋ねに来たんだよ」

「それもそうか。ハハッ、悪い悪い」

 バシバシと温羅の背を叩く茨木と、それを見ている酒天。彼らのじゃれ合いを離れて見つつ、須佐男は伸びをした。

「何か、新鮮だな。ああいう温羅は」

「そうだね。この一行ではあそこまで温羅で遊ぶ者はいないから。見ていて面白いよ」

 大蛇も須佐男に同意し、朗らかに微笑む。だが阿曽は、伊邪那美が何をしにいったのかと気が気ではない。

(何か、手掛かりになるものであれば良いけど……)

 自分が何者か。それを知り得ないことがこれほど辛く心細く思われるとは、知らなかった。その真実に近付くと思われるようになってからは尚更。

 阿曽はきゅっと衣を握り締めた。

「お待たせしましたね」

 そこへ、伊邪那美が駆け戻って来る。長く黒々とした髪が広がり、天照よりも大人しい銀色の髪飾りが共に揺れる。

 彼女の手元には、何枚もの紙の束があった。

「それは?」

「これは、日記ではないの。多々良たたらという鬼と何度も交換した文の一部。彼女は本当に優しくて物静かで、思いやり溢れる素敵な友だったのです。彼女との文には日子の世話を任せていたこともあって、あの子のことがよく出て来ました」

 懐かしそうに文を撫でる伊邪那美の言葉に引っ掛かりを覚え、阿曽は尋ねる。

「あの今、とおっしゃいましたか?」

「―――ええ」

 ぴたりと動きを止め、伊邪那美は真っ直ぐに阿曽を見つめた。愛しげに撫でていた指を握り締め、文がよれる。悲しげに、再び目が付せられる。

「……約一年前の冬の日、堕鬼人によって殺されました」

「―――!」

 その時、阿曽の頭の中が掘り起こされた。その変化は突然で、阿曽の中で何かが溢れ出す。

 阿曽の様子がおかしいことに気付いた温羅が、顔色を変えた。

「阿曽? ───阿曽っ?!」

「うら、さ……」

 須佐男と大蛇の焦った顔も見える。彼ら三人が近くにいる。そう自覚したのと、意識を失ったのはほぼ同時だった。




 ごめんなさい。

 誰かが、俺に謝罪する。

 ごめんなさい。

 何度も、何度も。

 それは夢だとわかっていた。何故なら、いつも見る夢だから。

 ――ごめんなさい、阿曽。

 目覚めても、傍には誰もいないのだから。




 いつも見た夢だ。

 泣き崩れる美しいひとが、何度も何度も阿曽に謝る。

 彼女の顔は影になって見えない。ただ、透明な悲しみと悔しさの涙だけが阿曽の顔を濡らす。

 考えてみれば、この夢は見なくなった。温羅たちと出逢って、怒涛の日々の中で思い出すことも少なくなっていたのだろう。

「……あなたは、誰ですか?」

 阿曽は初めて、この夢の中で問いかけた。影になって見えないその顔を見てみたいという衝動に駆られた。

「……」

 美しい女は答えない。ただ、涙が止まっている。彼女は伏しがちだった顔を、少しだけ上げた。

「あなた、は……!」

 阿曽は目を見張った。彼女の双眸は彼岸花のように紅く、鬼の証を持っていたから。地面まで届く長い黒髪は、艶やかだ。

 そして何より、自分によく似た風貌をしていた。

「……ごめんなさい」

 そのひとは両目に溜まっていた涙を溢れさせ、そっとその冷たい指で阿曽の頬に触れた。冷たいのに、優しさと愛しさに溢れた指だ。

「……あなたを残して、ごめんなさい」

 その瞬間、景色が変わった。

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