第69話 伊邪那美命

 黄泉国への入口は、中つ国のとあるところにある。黄泉平坂よもつひらさかという、歪んだ場所だ。

 阿曽たち四人は天照らと別れ、その黄泉平坂へとやって来た。

 坂という名を持ってはいるが、その姿はただの坂道ではない。下りているようで上っているような感覚に陥るという、暗く寂しい道なのだ。

 黄泉平坂を通り慣れている温羅を先頭にして、一行は歩いて行く。この坂は、道を知る者でなければ迷う危険性すらあった。

「温羅さん、黄泉国ってどんな場所なんですか?」

 何故かとても心細い気持ちになり、それを振り払おうと阿曽は先を歩く温羅に尋ねた。くるっと振り返った温羅は、少し考える素振りを見せる。

「そうだな……。地下にあるとされているから、暗い国だと思われがちだけど、そういうわけでもないよ。日の光がきちんと届くし、夜の昼もあるんだ」

「夜も昼も? じゃあ、中つ国とあまり変わりはないんですね」

「そう。違うところと言えば、人ではなく鬼が住んでいることくらいかな。わたしのように赤い目を持った者たちがたくさんいるんだ」

 温羅も流石に全ての鬼と顔見知りというわけではないが、数人の友がいると言う。

「彼らを、阿曽たちにも紹介するよ。きっと、黄泉国を知る上で助けになってくれるから」

「温羅さんの友ですか……。楽しみです」

 阿曽の表情が少し明るくなり、温羅はほっとした。

 彼らの傍で、須佐男は少々複雑な顔をしていた。それに気付いた大蛇が声をかける。

「どうした、須佐男?」

「いや……。母さんに会うのはいつぶりだろうって考えてたんだ」

 須佐男が「母さん」と呼ぶのは、伊邪那美いざなみという女神だ。彼女は天照と月読の母であり、現在は黄泉国の主でもある。

「母さんがいなくなって、親父も消えた。姉貴と兄貴がいなかったら、オレはここにいたかどうかもわからないな」

「須佐男さんのお父さん、ですか?」

 阿曽が須佐男の言葉に引っ掛かりを覚えて尋ねた。彼の言葉に「しまった」という顔をした須佐男だったが、一つ息を吐いて苦い顔をした。

伊邪那岐いざなぎ。オレたち姉弟を放置して、何処かに消えちまった奴だ。……母さんは、未だにこいつを探しているけどな」

「いつか、会えるといいですね」

「まあな」

 四人はいつしか、山を下りていた。いつの間に山に入っていたのかと阿曽は驚いたが、温羅に笑われた。

「伊邪那美さんは、時折黄泉国の入口で遊ばれるんだよ。今回は山だからまだいいが、火山の中や海の中を再現された時には、流石に死ぬかと思ったよ」

「どんな遊び方だよ、それ」

 大蛇は肩をすくめ、手近にあった木に触れた。すると手が通り抜けるということもなく、木が実態を持っていると判明する。

 その時、突如として山の木々の葉が一斉に散った。

 散る葉の数は膨大で、阿曽たちは思わず目を瞑る。ざざざ、と四人を巻き込んだ葉の風は、そっと彼らを手放した。

「よく来ましたね。四人共」

 風邪を感じなくなり、不意に聞こえたしとやかな女人の声。阿曽がゆっくりと目を開けると、そこはまた山ではなかった。

「何処だ、ここ……」

 周りを見回すと、黒を基調とした空間が広がっている。真っ直ぐに伸びた幾つもの細い柱が天井を支え、松明が辺りを照らし、奥には大きな椅子が据えられていた。

 椅子には、華奢な一人の女人が腰掛けている。周りに馴染む黒色の袖の長いひとえを身に着けており、瞳も長い髪も黒い。

 彼女の左右には大柄な男が二人控えている。どちらの瞳も赤い。左の男の髪は茶色く、右の男の髪はほとんど黒に見える緑色だ。

「あなたたちは……」

 柔和な女と頑強な男の組み合わせ。その意外性に圧倒された阿曽が呟く。その問いに答えたのは、真ん中に座る女人だった。

わたくしの名は、伊邪那美。そこの須佐男の母にして、この黄泉国の主をしております」

「あなたが、伊邪那美さん」

 にこりと微笑んだ伊邪那美の右頬には、火傷らしき古傷があった。

 更に、伊邪那美の左右に控えていた男たちからも声が上がる。左の男が、持っていた酒壺を振って笑った。

「ワシは酒天しゅてん。伊邪那美さまのもとで働く始祖の鬼であり、そこの温羅の友だ」

「オイラは茨木いばらき。酒天と共に伊邪那美さまに仕えている。久し振りだな、温羅」

 茨を絡ませた杖を持つ茨木が、杖を地面に打ち付けて笑う。

 酒天と茨木の挨拶を受けて、阿曽たちも名乗りを上げた。伊邪那美は特に、須佐男の名を聞いて目を優しげに細めた。大きくなりましたね、と呟いたが、それを聞くべき須佐男には届かないほどの小声だった。

 温羅は「全く」と嬉しそうに微笑んだ。阿曽を手招きし、二人を紹介してくれる。

「彼らは、阿曽たちに紹介しようと思っていた酒天と茨木だ。二人共気のいい鬼だから、何でも聞いてくれて構わないよ」

「おお、そうだ。ワシらが黄泉のことならなんでも教えてやろう!」

「酒天、あまり彼らを急かしてはいけません」

 どんっと胸を叩く酒天を制し、伊邪那美は自ら椅子を立った。そして阿曽たち四人のもとまで下りてきて、柔らかな表情を浮かべる。

「簡単には、天照から聞いています。何か、私に聞きたいことがあるとか? 何なりと聞いて下さって構いませんわ」

「阿曽」

 伊邪那美と温羅に促され、阿曽は一歩前に出る。そして、あのことを尋ねた。

「……俺は、親を知りません。たった一人で森に住んでいました。先程高天原で、伊邪那美さんの日記を読ませて頂きました。そこに、こうありました」

 一呼吸置き、阿曽は続ける。

「『日子ひるこに子が生まれたと聞く。彼の世話役だった鬼、多々良たたらとの間の子か。……神と鬼の交わりは禁忌。日子は高天原にも黄泉国にも帰ることはまかりならない。』この意味を教えて頂きたいんです」

「それは……」

 まさか自分の日記が出て来るとも思わず、伊邪那美は絶句した。そんな伊邪那美に、阿曽は畳みかけるように尋ねる。

「俺は、日子の息子なのですか? それとも、全く関係のない誰かの子なのでしょうか……?」

「……」

 伊邪那美は阿曽の頬を両手で包み込み、じっと彼の顔を覗き込んだ。

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