八岐大蛇
第56話 大蛇と尊
昔々、
人々から貢ぎ物を貰う代わりに、龍神は実りの雨をもたらした。神が人々の前に姿を見せることはなかったが、混じりけのない美しい雨を見るたびに、人々は龍の雨だと喜んだという。
しかし、ある時の王が、龍神を幻の産物だと言い放った。彼の言い草は人々の反感を買ったが、王はその武の力で人々を従わせた。
時代を経て、王の考え方は常識となった。
貢ぎ物も己を信じてくれる人の心も失い、龍神はその存在を保てなくなった。
だから、最期に己の力を解放したのだ。
村々を焼き、王の子孫を焼き殺し、火川は氾濫を起こし、奔流が逃げ惑う人々を襲った。
人々は信心のなさが龍神の暴走につながったことに気付かぬまま、ある旅人に神の討伐を願った。彼は了承し、何故か酒を持って龍神を訪ねてきた。
―――寂しいんだろ、お前。
そんなことはあり得ない、そう言って攻撃を繰り返すも、旅人はびしょ濡れのまま笑った。神も鬼も、人でさえ、寂しさは心を曇らせる、と。
―――オレが勝ったら、寂しかったと認めろよ?
―――笑止!
翡翠色の瞳が輝き、龍神は水を味方につけた。
龍神と人の戦いは、何日も続いた。三日三晩など生ぬるいほどに。
まさか、旅人の正体が天照の弟神たる須佐男であったとは。
この時まだ、八岐大蛇は知らなかった。
堕鬼人の女に襲われた村を出て、阿曽たち四人と
「この先に、オレがよく鍛錬に使っている空き地があります。そこへ行きましょう」
「ああ。……だけど、よく初対面のぼくの言葉に乗ったね」
普通、断ると思うのだけど。大蛇の疑問に、尊は爽やかに笑って答えた。
「そうかもしれません。でも、オレは強い人と戦うことが何よりも好きですから」
そう言って、尊は自分より少し背の低い大蛇を見て、にやりと笑った。
「あなた方は、普通の人なんかじゃない。……違いますか?」
「ふっ。見る目はあるようだな」
「お褒めに預かり光栄です」
二人はそれぞれの剣の鞘を当て交わし、空き地に着いた途端、一気に距離を取った。
尊が鍛錬に使うと言っていた空き地は、彼の努力の跡がそこかしこに残っていた。岩には切り傷が何本も走り、一部は割れている。更に木々にも傷痕があり、もともと傷があったであろう幹の表面は、木の皮が傷を覆って
須佐男と温羅、そして阿曽は二人を同距離から見られる位置に移動した。
大蛇と尊がそれぞれの剣を抜いたのを見て、阿曽が遠慮がちに口を開く。
「やっぱり、真剣を使うんですね」
「阿曽は木の棒でも使うと思ってたのかい?」
「そうだといいなと思っていました。別に、殺し合う必要はないんですから」
「いや。殺し合うくらいでいかないと駄目だろうな」
そう言ったのは、木の幹に背中を預けた須佐男だ。阿曽が咎めるような目で彼を見ると、苦笑気味に弁明する。
「別に、殺し合えと言ってるわけじゃない。大蛇があの草薙剣から自分の力を取り戻すためには、それくらいの覚悟が必要だって話だよ」
「覚悟……」
阿曽たちがそんな会話をしているとはつゆ知らず、大蛇と尊はお互いしか見ていなかった。
「改めて名乗ろうか」
大蛇は前髪をかき上げ、その翡翠色の瞳を晒す。
「ぼくの名は、八岐大蛇。火川の龍神が本来の姿だ」
「やまたの、おろち!」
尊は目を輝かせ、草薙剣を掴む手に力を込めた。この地に住む者ならば誰もが伝説を伝え聞いたことがあるだろうと思っていた大蛇だが、尊の言葉に目を見張ることとなる。
「ずっと、憧れていたんです。幼き頃より伝説を聞いていたから。あなたと、八岐大蛇と戦うことを! ……それにこの剣が、何度もオレに囁くんだ。八岐大蛇をこの身で倒し、一つとしろと」
「一つに、か」
「そう。この剣は、時折意思があるんじゃないかと思う程にこちらの意図通りに動いてくれます。そして、常に飢えている。……きっと、あなたもそうだったんでしょうね」
「どうかな」
―――キンッ
試合は、突然始まった。合図があったわけではない。しかし、二人はほぼ同時に刃を交わした。
背丈と体格の差で押し負けると判断を下し、大蛇はいち早く尊から飛び退く。すると尊は、その姿を追って再び剣を振り下ろした。
「くっ」
紙一重で尊の剣を躱すと、大蛇は片手で全身を支えて体を後ろへと跳ぶように移動させた。
「逃げるばかりじゃ、オレには勝てませんよ!」
剣の狙いを大蛇の喉笛に定め、尊は叫ぶ。そうして走り出すと、一気に大蛇との間合いを詰めた。
二つの剣が金属音をたて、それが何度も繰り返される。攻勢一方の尊は、心底戦いを楽しんでいた。
「楽しいなぁ! こんなに楽しいのは、いつ以来でしょうね?」
「……戦闘狂いか」
「オレのこと、そう言う人もいますね。でもそれは、オレにとっては誉め言葉だ!」
珍しく尊が距離を取り、草薙剣を構え直す。その刃に水の波紋のような模様が浮き出した。大蛇が「あっ」と声を上げるが、遅い。
「出でよ、
「ぐっ……かはっ」
尊の剣撃と同時に、小型の竜の形をした水流が発せられる。自在に動き回る水流は、逃げる大蛇をその身に捕らえてしまった。
「大蛇さん!」
阿曽が思わず叫ぶが、それでどうにかなるものでもない。彼の隣では、須佐男が尊の剣さばきに感心していた。
「あいつ、なかなかやるな」
「須佐男、冷静に見ている場合なのかい?」
「そうですよ! あのままじゃ、息が出来ない」
阿曽の言う通り、大蛇は今、息をすることが出来ない状況に追い込まれていた。竜巻のような水に閉じ込められ、身動きもままならない。
「……っ」
「どうです。口を開けることすら、ましてや手足を動かすことすら出来ないのではないですか? 当然ですよ。これは、命尽きるまで拘束を続ける死の技なのですから」
愉悦に浸る尊を、大蛇は睨みつける。しかし、彼の言う通りにそれ以外に何も動かすことが出来ない。
(くそっ。本来の姿さえ取り戻せれば、こんなもの茶番でしかないのに)
幾ら毒を吐き悔しがろうとも、ないものはない。大蛇は息も出来ず思考もまとまらない中で、脱出の機会を窺っていた。
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