第55話 女の無念

 ああ、いとおしや。愛おしや。

 憎し男よ、首を出せ。

 我が子の無念、その身に受けよ。

 愛し子よ。


 悲しみの中に、怒りの感情が見え隠れする。

 たけるの後を追って近くの村へとやって来た阿曽たちは、その村に入った途端に歌を聞いた。そのいびつな旋律は村の男を操り、女たちに悲鳴を上げさせた。

「いや、あなた! 行ってはだめ!」

「……」

 男が一人、ふらふらとおぼつかない足取りで村の奥へと進んでいく。その身に奥方おくがたらしき女人がしがみつくが、簡単に振り払われてしまう。

 何度名を呼ばれようとも、妻の顔を見ることはない。そんな情景が、幾つもある。

「何なんだ、これは……」

 愛するはずの者を置いて、男たちが歩いて行く。その顔はうつろで、生き物の覇気がない。

 須佐男は息を呑み、気を取り直して今まさに夫に弾かれた女人のもとへ駆けて行った。土を掴んで涙を流す女人を助け起こし、何があったのかと問う。

 女人はまさか、外部の人間には話しかけられるなどとは思わなかったのだろう。目を丸くして須佐男を見た。

「あなた方は?」

「通りすがりの旅の者です。何やら不穏な風を感じて立ち寄りましたが……、一体何があったのですか」

 二人が話している間、阿曽は村をぐるりと見回した。尊の姿はここにはないが、大丈夫なのだろうかと不安になっていた。

 女人は須佐男に助け起こされて少し正気を取り戻したのか、自ら深呼吸を繰り返す。

「ありがとうございます。……実は昨日、突然女人が一人やって来たのです。彼女は一夜の宿を求めましたので、断る理由もなく了承しました。村長むらおさの邸にて、宿を借りたはずでした」

 旅姿でもなく、少し擦り切れた服を着ていた女人は、歓待を受けた。しかしその世、村長の妻が不思議な歌を聞いたのだ。

「男に対し、首を出せと迫る歌です。今、この村中で流れています」

 不安定な節回しで、男の首を乞う。悲しく寂しい女の歌声に、女人は身を震わせた。

「今朝、夫人が寝床を見ると、村長は姿を消していたそうです。それから村全体で男と女の喧嘩が絶えず、男は歌を聞くと何処かに消えていってしまうのです。……あんなことで喧嘩なんてするべきではなかった」

 些細なことで喧嘩したという女人は、須佐男に誘う女を捕まえてくれるよう頼んできた。須佐男は二つ返事で了承し、仲間たちを振り返る。

「尊が何処にいるのかはわからないが、オレたちだけでも行こう」

「ああ。この死に際のにおいは、堕鬼人のものだ」

 大蛇も同意し、四人は村の奥へと進んだ。村の奥とは、村長の自宅であった大きな邸だった。その建物全体が黒々としたもやで覆われており、堕鬼人のにおいが濃い。

「あれ、見て」

 いち早く、不審な点を見つけたのは温羅だ。邸の屋根の上に、一人の女人の影を見つける。彼女はくるくると回り、両手を広げて天を仰ぐ。

 頬はこけ、病的に落ち窪んだ目がぎょろりと四人を捉える。振り乱された黒髪は、本来の美しさを失っていた。

 血の赤色の瞳が、四人を見据えた。かくん、と首が横に折れる。その瞬間、不可思議な歌が止んだ。

「誰? ……あの人?」

「あんた、堕鬼人か」

 大蛇が天羽羽斬剣あめのははきりのつるぎを鞘から取り出そうとした、まさにその時だ。温羅が気付いて声を上げたが、遅い。

「大蛇!」

「返せ、あの子を返せ!」

「うわっ」

 女の堕鬼人は大蛇の首を両手で掴むと、ギリギリと締め上げた。息をするのもままならず、大蛇は堕鬼人の腕を掴んで外そうと試みる。

「はな……せ……!」

「返せ。何故、お前が殺した。自分の子を、何故……」

 堕鬼人は大蛇の言葉を全く聞いていない。ただ「返せ」と繰り返す。大粒の透明な涙が堕鬼人の頬を濡らす。

 流石に意識が混濁してくる。視界に白濁とした範囲が広がる。

 遠くで、須佐男と温羅が堕鬼人に攻撃を仕掛けている音がする。しかしことごとく跳ね返されていることに加え、女の姿をしていることから本気で戦うことに躊躇ためらいが生まれていた。

 堕鬼人は須佐男の切っ先を手で掴んで軽々と投げ、温羅の剣をその鋼のような硬さを持つ腕で受け止めてしまった。阿曽も彼らに続き、日月剣ひつきのつるぎを振り上げて背中を狙う。

「あ、阿曽……」

「大蛇さんを離っ……!?」

 ―――ガッ

 堕鬼人は大蛇の首を掴んだまま軽く跳び、阿曽に踵落としをお見舞いした。丁度後頭部にあたり、阿曽の体が傾ぐ。顔から地面に落ちかけた阿曽を、温羅が抱き留めた。

「あ、ありがとうございます。……強い、ですね」

「ああ。恐らく彼女は、子を夫に殺されたことを切っ掛けに鬼へと変貌したのだろうね。何度も『子を返せ』『何故殺した』と訴えているから」

 母の強さは、時に何よりも激しいと温羅は苦笑した。

 しかしただ指をくわえて待っていても、大蛇を救うことは出来ない。刃を全て受け止め弾き返す堕鬼人相手に、攻めあぐねる阿曽たち。

 その時、頭上から男の声が響いた。

「オレに任せろ!」

 見れば、屋根から飛び降りた尊が草薙剣を振り下ろすところだった。太く分厚い草薙剣が堕鬼人の首を捉え、力いっぱい斬り落とした。

 骨を断つゴリッという音と共に、堕鬼人の首が落ちる。驚愕の表情を浮かべたまま、涙溢れる表情のまま、女はこの世から消え去った。

 堕鬼人の消滅と共に、催眠状態だった男たちが戻って来る。全ての村人を救えたわけではないが、目の前の人々を救うことが出来、阿曽たちはほっと胸を撫で下ろした。

「―――ッ、はぁっ」

 げほげほと激しい咳をして、大蛇が解放される。阿曽を抱えた温羅が近付き、体調を尋ねる。

「大丈夫かい、大蛇? 危なかったね」

「……死ぬかと思ったよ」

 青い顔のまま苦笑した大蛇は、助けてくれた尊に対して感謝した。

「ありがとうございます。お蔭で助かりました」

「まさか、きみたちがオレについて来ているなんて思いもしなかった。でも、間に合ってよかったよ」

 驚きながらも、尊は笑みを浮かべて大蛇の無事と村の男たちの無事を喜んだ。しかし、不意に悔しげに顔を歪ませた。

「さっき、きみたちが堕鬼人の相手をしてくれていた間に堕鬼人に襲われかけていた人々は食われずに済んだけど……。昨日の内や今朝がた、殺された人々を救うことは出来なかったな」

「……。そう言えば、少し来るのが遅くなかったですか?」

 先に出たにもかかわらず村につくのが遅かった理由を阿曽に尋ねられ、尊は眉をひそめた。

「あの堕鬼人のねぐらを見ていたんです。そこは、やはり人骨や皮膚、血痕が残るのみでした。……くそっ」

 人々を救えなかったことに対する悲しみといら立ちを募らせる尊に、正常な呼吸を取り戻した大蛇が尋ねた。

「尊、ぼくと試合をしてくれないか?」

 先程夫を呼んでいた女人の歓喜が聞こえた。どうやら今食われかけた男たちは、全員無事だったようだ。

「……試合?」

 尊の髪が揺れ、一房のみの赤毛が片目にかかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る