第48話 五十狭斧彦

 目の前に現れたのは、阿曽の知らぬ男だった。その肢体は痩身で、人の悪い笑みを浮かべている。

 彼と邂逅し、温羅は眉間にしわを寄せた。

「……とっくの昔に死んだと思っていたけれど、まだ生きていたのか。五十狭斧彦いさせりひこ

「まだ生きていたのか、はお互い様だろう? お前を封じたのは、俺なのだからな」

 剣が鳴る。雷鳴のような、激しい音が鳴り響く。

 阿曽の目には捉えきれない速さと強さを持った二つの光は、火花を散らした。

 飛びすがり、五十狭斧彦はにやりと笑った。まるで、待ち望んだ獲物に出会った獣のような瞳だ。

「半身を取り逃がしたと知った時は、はらわたが煮えくり返りそうだったぜ。でもお蔭で、俺は更なる力を手に入れた」

「───まさか」

「お前の『予感』、外れたことはなかったな」

 腹を空かせた獣の殺意は、隠しおおせるものではない。五十狭斧彦は、闘気を変化させた。

 血のにおいが濃くなり、そこに暗い感情が混じる。闘気の中に、温羅は人喰い鬼の気配を感じ取った。慣れることのない、どこまでも他者を拒絶する気配だ。

 くっと唇を引き結び、温羅は悔しげに呟く。

「お前までも、下ったのか」

「そう。真の名を申すのも恐ろしい、人喰い鬼と称せられるお方に、力を頂いた」

 温羅、お前の生き根を今度こそ絶つ力だ。

 五十狭斧彦は恍惚して言うと、爛々らんらんと光り輝く瞳で、真っ直ぐに生涯の敵を射抜く。

「ここで、あの時の決着をつけよう。封印などという生易しいものではない。温羅、お前の命を消し去ってやる」

 五十狭斧彦の殺意を受け止め、温羅は振り返らずに口を開いた。振り返った瞬間、首をかかれるのは目に見えている。

 いつになく冷たい声音で、温羅は仲間を呼んだ。

「……須佐男、大蛇」

「何だ」

「どうした?」

 まるで危機感のない二人の返答に、笑みさえ込み上げる。温羅は剣を構え、一言だけ告げた。

「阿曽を頼む」

「「心得た」」

 二人の了承を得ると共に、温羅は跳躍する。彼がいた場所には影のように五十狭斧彦が剣を振るい、空を薙いで舌打ちする。

 すぐに彼は温羅を追い、空中でその片足を切り裂こうとした。あと一歩のところで温羅に逃げられ、着地と共に走り出す。

 彼の前には同じく着地した温羅がおり、凄まじい剣撃に同じ威力で返り討つ。弾かれた五十狭斧彦は、目を見張る間もなく次の剣を振るった。

十六夜剣舞いざよいけんぶ

「───!」

 夜闇よりも静かな力が温羅を襲う。空気を震わすこともなく放たれた剣撃は、温羅の鳩尾を躊躇なく殴り付けた。

「かはっ」

「温羅さんっ!」

 岩の壁に背中を叩きつけられ、温羅の胸に衝撃が走る。胸の中の空気を全て吐き出し、彼は激しく咳き込んだ。

 阿曽は須佐男に背中から腹に手を回されていたが、懸命に温羅に手を伸ばした。バタバタと手足を動かすと、須佐男が渋い顔をする。

「おいこら! 阿曽、暴れるな」

「温羅さんがっ」

「阿曽、大丈夫だから大人しくしていて」

「……っ」

 須佐男と大蛇にいさめられ、阿曽は奥歯を噛み締める。見れば、温羅は体についた石の欠片を払い落として立ち上がったところだった。

 阿曽は奥歯を噛み締める。何故か、どうしようもない無力感に襲われていた。

(俺は、見ていることしか出来ないのか?)

 ふと、言葉がこぼれ出る。

見てるだけなんて、もう嫌だ……え?」

「阿曽?」

「何か言ったか?」

 温羅たちの戦闘音にかき消されて聞こえなかったのだろう。大蛇と須佐男が、思わず口を手で押さえた阿曽に問う。阿曽は「何でもないです」とかぶりを振って、込み上げてくる言いようもない感情を押し留めた。

(俺は、?)

 記憶を失くす以前から、きっと抱き続けてきた疑問。阿曽は大切な何かを忘れ続けている違和感を持ちながら、激しさを増す温羅と五十狭斧彦の戦いを見つめた。

 五十狭斧彦の執拗な攻撃を全て躱し、弾き返す。温羅の優勢で戦いは続くかに思われた。しかし、それで終わるはずはないと温羅の中で警鐘が鳴る。

(阿曽は……大丈夫なのか?)

 反撃に転じ、温羅は剣の柄の底を五十狭斧彦の胸に叩きつける。ゴッと音がした途端、五十狭斧彦が吹き飛んだ。

 ───ドッ

 五十狭斧彦が、城の壁面にぶつかった。衝撃で崩れた岩壁の下敷きになるのを確認して、温羅は仲間たちを振り返った。

 いつの間にか自分が廃城の上に立っていたことにも驚いたが、阿曽の呟きが聞こえた気がしたのだ。

 見下ろせば、阿曽が須佐男に抱き抱えられて崩れかけた壁から離れたところだった。

 大蛇と目が合い、頷く。彼らに任せておけば何の憂いもない。しかし、何かを忘れている気がして内心首を傾げた。

「……余所見とは、良いご身分だな?」

「なっ───!」

 いつの間に瓦礫がれきから這い出したのか、五十狭斧彦が間近に迫った。一瞬反応が遅れ、真面に刃を受けてしまう。

「くっ」

 ポタッ。温羅は咄嗟に腕を交差させて身を守ったが、両腕に一文字の赤い筋が浮く。深傷ふかでではないものの、剣を握ると鈍い痛みが駆け抜けた。

 だからといって、取り落とすことはない。先程壁に打ち付けた際の背中の痛みが徐々に薄らいでいるように、こちらも少しずつ和らぐだろう。

 血の一筋が、剣の刃を這った。

「温羅。昔は俺の刃なんざ、寄せ付けもしなかったのになぁ? 力を半分失えば、そんなもんか」

「残念ながら、わたしはお前のように他者ひとの力を頼みにはしていないものでね」

「言うじゃねぇか。……その気味の悪い薄ら笑い、ひっぺがしてやるよ」

 五十狭斧彦の頭からこめかみに、血が滴った。幾つもの傷をその身に受けながらも、彼は余裕の笑みを浮かべている。

「……何を、するつもりだ」

 何処からの攻撃にも対処出来るよう、温羅は痛む手に力を入れた。

 しかし五十狭斧彦の狙いは、温羅ではない。

 瞬時に離脱すると、五十狭斧彦は軽い身のこなしで阿曽の前に現れた。須佐男が阿曽を抱き寄せ、大蛇が五十狭斧彦に刃を向ける。

 そんな状況にもかかわらず、五十狭斧彦はせせら笑った。更に驚くべきことに、軽く頭を垂れて顔を上げた。

。あなたのことは、人喰い鬼から聞いていた」

「……な、んだ?」

 五十狭斧彦の目が、阿曽を捉える。その静か過ぎる瞳の中に、怯える阿曽の顔が映り込んだ。

 困惑する阿曽に、五十狭斧彦はククッと笑い、とっておきの秘密を披露するかのように言い放つ。

「忘れているのも無理はない。お前の以前の名は、阿曽媛あそひめ。この城の主の妻であった娘の名だ」

「……は?」

 その瞬間、阿曽だけでなく温羅たち三人も動きを止めた。

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