第30話 瀬尾

 ───ガキンッ

 阿曽が恐る恐る目を開けると、目の前には大蛇の背中があった。

「全く、世話が焼けるね」

 その手には、拳十個分の長さを持つ剣がある。十拳剣とつかのつるぎとも称され、天之羽々斬剣あめのはばきりのつるぎという名を持つ。

 その刃を横にし、重い斧を受け止めた。

「大蛇さん……」

「うちの阿曽には、堕ちたといえども殺しはさせたくないんでね」

 ぼくが相手になろう。大蛇はそう言って微笑むと、風のような速さで青年の間近に迫った。

 青年は一時的に驚きを顔に貼り付けたが、くすくすと血濡れた笑みを見せた。

「面白いね。あの人が言った通り、地祇までもがきみのもとにいる。これはどういうことだろう?」

「無駄口叩いてる暇なんて、あるのかなッ」

 一閃。美しい軌跡を描き、剣が宙を走る。

 その横一文字は青年の肩の布を斬り裂いたが、彼自身には傷をつけなかった。

「次は、こちらだ」

 青年は斧を振り上げ、斜めに袈裟斬りする。それをひらりと躱されると、勢いをそのままに今度は下から大蛇の胸を狙った。

「甘いな!」

 大蛇はその場で跳んで斧を避け、青年の顔に回し蹴りを喰らわせる。

「───かはっ」

 ガラン、ガランッ

 斧が吹き飛び、青年も地面に転がった。

「───っ」

「危ないな……っと」

 青年が手離した斧は、勢いを保ったままで宙を舞う。そして、阿曽の頭上に落下しようとした。それを斧の柄をつかむことで防いだ温羅が、須佐男の顔を見る。

「須佐男」

「……ああ、こいつに尋ねてみる価値はありそうだな」

 須佐男は温羅と阿曽を下がらせると、咳き込む青年の傍に片膝をついた。その様子に、大蛇が「須佐男……」と注意を促す。

「問題ない」

 そう言った須佐男は、立ち上がろうとした青年の腕を捻って組伏せる。

「くっ……」

「お前……成鬼人なきびと、だな」

「……」

 青年の瞳孔が開き、次いで力なく伏せられた。

「ただとは呼ばないんだね」

「こっちには本当の鬼がいるからな」

 ちらりと温羅を見た須佐男が言う。そうか、と喉で笑った青年は、ふぅと息を吐き出した。

「……僕の名は、瀬尾せお。あるひとを救おうと鬼の力を得て、手に入れたのは親友だと思っていたものと彼女の遺体だけだった、愚か者だ」

「……」

「……あの子は、とある男に言い寄られていた。それでも僕と結ばれることを望んでいた彼女は、それを拒否して激昂した男に殺された。僕はかたきを討つため、鬼の力を手に入れた」

 須佐男は、瀬尾と名乗る成鬼人が喋るに任せていたが、瀬尾が口を閉じたことをきっかけに問いかけた。

「……一つ、聞きたい。『あの人』とは誰だ?」

「あの人、か。……堕鬼人だきにになってまで、あいつはあの子を手に入れたかったらしい」

 呟いて、瀬尾は記憶を手繰った。


 ある夜、瀬尾はふと目が覚めてしまった。家を出て、村の中をぶらつけば眠気が再びやってくるだろうと思って歩き出した。

 すると、村外れの森の中から声が聞こえる。言い争いのようで、一方がせわしなく言葉を吹っ掛けているようだった。

 瀬尾には、その声の主に覚えがあった。

「……伊乃矢いのや?」

 伊乃矢は、瀬尾の最も親しい友である。先日も咲売さくめとの婚姻を一番喜んでくれた。

 その彼が、何故真夜中に。

 瀬尾は不自然に跳ねる胸を抱いたまま、声の方へと忍び足で歩いていく。

 石や落ち葉に気を付けて、木の裏からそっと覗いた。

 伊乃矢がいた。そして、見知らぬ男の姿も。

 伊乃矢の形相が月の光の下に照らされる。それは、普段の彼からは想像も出来ない激しく、険しく、醜いものだった。

「頼む。オレを鬼にしてくれっ」

「……鬼になり、何を望む?」

 男の影が揺れる。実体を持つのかすらわからない、不安定な影だ。男の声は、地を這うように轟く。瀬尾はゾクリと鳥肌が立つのを感じた。

「……あの女を、いたぶり、殺す。そして、あいつも」

「くくっ、よかろう。我が血を継ぐ堕鬼人となれ」

 男の片手が挙がり、伊乃矢の額に触れる。

 ───バシュッ

「……?!」

 瀬尾は口を両手で覆った。そうしなければ、叫びだしてしまいそうだった。

 伊乃矢の額を、何かが貫いた。彼はその場に崩れ落ち、男は無言で去った。

 どれほどの時が流れただろうか。

 ふと殺気を感じて顔を上げると、瀬尾を睨み付ける伊乃矢ものがいた。

 物陰に隠れているのに、その視線を間近に感じる。瀬尾はゾッとして、大慌てで村まで走った。

 その時、奴は追ってこなかった。

 翌日、伊乃矢がいないと彼の母親が訴えた。村中を皆で探したが、見つからない。

 瀬尾は、昨晩の光景を話すことは出来なかった。幻ではないかという思いと共に、あの時の伊乃矢の眼差しが口を止めていた。

 その夜、寝付けない瀬尾の家の戸を叩く者がいた。恐る恐る外に出ると、誰もいない。

 同時に、女の悲鳴が聞こえた。

 まさか、という思いで走る。すると、森の中に血のにおいが漂っていた。

「……咲売。伊乃矢、どうして」

「よお、瀬尾」

 瀬尾の目の前で、咲売の胸が刃物で貫かれていた。伊乃矢はそれをズルリと引き抜き、血振りをする。どさり、と咲売が崩れ落ちた。

「咲売!」

「せ……」

 瀬尾が咲売を抱き抱えると、腕に血が伝う。彼女は光を失いつつあった瞳で瀬尾を捉え、かすかに微笑んだ。

 それから、動かなくなった。止めどなく流れる血は、赤い泉を作り出す。

「────────ッ」

 その中心で、瀬尾はえた。獣のごとく、意味をなさない言葉を叫んだ。愛する者の亡骸を抱き締め、血で体が濡れることも厭わずに。

 ゆっくりと咲売の体を木陰に横たえ、瀬尾は伊乃矢を真っ直ぐに見た。

「……伊乃矢」

「いい目だ、瀬尾。オレと同じ、人であることを止めた、鬼の瞳」

「黙れ」

 瀬尾の手に、近くの小屋に放置されていた斧が握られた。対して伊乃矢の手には、鎌に似た大柄の刃物がある。

 いつしか、瀬尾の瞳は血のような赤に染まっていた。

「何故だ、伊乃矢」

「……オレは、許せないんだよ。瀬尾、お前も。咲売も」

「何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だァァァァァァァ!」

 二人がぶつかった時、どちらのものともわからない血飛沫が舞った。


「あの人は、伊乃矢を堕鬼人に変えたんだ」

 語り終え、瀬尾は呟くように答えた。それが、最後の言葉だとでも言うように。気だるげな声だ。

 須佐男は眉をひそめると、瀬尾に背を向けた。

「……大蛇、もういい」

「そうか」

 大蛇は頷き、瀬尾の前に立った。

「望み通り、咲売という人のもとへと送ってやろう」

「……礼を言う」

 死へ向かうことがわかっていながら、瀬尾は満足げに微笑んだ。

「これで、ようやくあの人に謝ることが出来る。……守れなくて、ごめん、と」

「……黄泉にて、眠れ」

 大蛇の刃が、瀬尾の生を終わらせた。

 血溜まりの中に横たわった男の亡骸は、やがて崩れて風の中に消えていった。

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