第25話 酒の行方

「天恵の酒、とは何だ?」

 須佐男に問われ、櫛名田くしなだは木簡を広げた。

「ここには、簡潔に言えばこうあります。『天恵の酒は、人ならざる者になった人であった者の魂を、戻す薬のようなもの』だと」

「つまり……堕鬼人だきにの魂をもとの人に戻す力を持つ、と」

「そういうことですね、温羅さん」

 温羅の言葉を肯定し、櫛名田は更に続ける。その表情は暗い。

「ただし、その酒が何処にあるのか、誰が造っているのかはわかりません。記述がないのです」

「でも、向くべき場所は見えた。そうだろ、須佐男」

 大蛇の問いに、須佐男は頷く。彼らが行くべき目的は、天恵の酒を探すこと。そして、それを何らかの形で用いて堕鬼人を戻す。

 しかし、一つだけ阿曽には引っ掛かりがあった。

「その酒は、のですよね?」

「ええ」

「では……、堕鬼人自身を元に戻すことは出来ない、ということでしょうか」

「それは……」

 答えに窮する櫛名田の肩を抱き、須佐男は口を開いた。

「魂を救う。ただし、元の体を取り戻すことは叶わない。……そういうことだろう」

「はい……。本来、堕鬼人や成鬼人となった人に来世はありません。ただ、黄泉の奥底で永久とわに眠るだけです。それが、来世を約束される存在となる。……これが、『救い』なのかは、人によるのでしょうが」

「そう、なんですか」

 鬼の名を持ってしまった人を、生きた状態で助けることは出来ない。

 阿曽は正直がっかりしたが、次の生に命をつなぐことは出来るのだと思い直した。そう思えば、希望があるということだろう。

「そういえば」

 須佐男は何かを思いついたのか、櫛名田の顔を覗き込む。

「櫛名田、お前この酒のことは前から知ってたのか?」

「はい。須佐男が堕鬼人を追い始めた時には既に」

「……いや、どうして黙ってたんだよ。何度も顔を合わせてきたんだから、言う機会くらいあっただろ!?」

「だって……」

 にっこりと櫛名田は微笑んだ。

「あなたがいつも、話を聞かずに飛び出してしまうからでしょ?」

「うっ……」

 言い返され、須佐男は言葉に詰まる。

 確かにいつも須佐男は自分の話をするばかりで、櫛名田の話をゆっくりと聞こうとはしてこなかった。その仕返しだとわかっているが、櫛名田の笑顔が怖い。

 須佐男は素直に頭を下げた。

「す……すまない」

「長話に付き合ってくれとは言わないわ。だけど、たまにはわたしとゆっくり過ごしてほしいな……」

 櫛名田の細い手が、須佐男の頬に触れる。その愛しげな瞳が、櫛名田の想いを代弁するかのようだ。

 二人の熱にあてられた阿曽がぽかんとしていると、温羅がわざとらしくゴホンと咳払いをした。須佐男と櫛名田の二人は、慌てて人一人分離れる。

「櫛名田、その酒のありかに心当たりはない?」

 何でもいい、つながるものであれば。そう尋ねる温羅に、櫛名田は自分の頬に手をあてて考え込んだ。

「そう、ですね……。確か、高天原の何処かで特別なものを創り出す神さまがおられると聞いたことがあるような」

 ただ噂程度で信じてよい話かはわかりませんよ、と櫛名田は釘を刺す。

「特別なもの、か。それがこの酒かはわからないが、探す価値はあるだろうな」

 須佐男の言葉に、全員が頷いた。今、手掛かりは何もない。どんなに細い糸でも手繰り寄せる以外にないのだ。

 旅の方向性が決まった時、外はもう日が暮れていた。今から山を下りるのは流石に危ない。すると櫛名田が、ここに一晩泊っていくよう提案してくれた。

「実は、部屋はここだけではないですから。皆さんが足を伸ばして眠れますよ」

 そう言うが早いか、櫛名田は壁にかかっていた美しい織物を手で上げた。すると、その裏には通路がある。その先が部屋になっているのだと櫛名田は笑った。

「普段、ここにはわたししかいませんから。掃くくらいのことはしていますから、すぐに使えますよ」

「流石だな。じゃあ、使わせてもらおう」

 須佐男が笑い、宿が決まった。

 阿曽と温羅が覗くと、部屋は続いて二つあった。奥を阿曽と温羅が、前を須佐男と大蛇が使うことに決めた。

 阿曽が部屋に入ると、そこは衾が二台と水甕があり、更に純白の布が天井から壁に垂れ下がっている。素朴な部屋だ。手前の須佐男たちが使う部屋も同じようなものである。

「何をしてるんだい、阿曽」

「あ、温羅さん」

 きょろきょろと室内を見回していた阿曽に、温羅が苦笑しつつ尋ねる。

「いえ、何というか。洗練された感じがして、森で雑多なものに囲まれて暮らしていた俺には敷居が高いというか、落ち着かないんです」

「ここは、中つ国で神と一番近い場所だから当然かな。でも落ち着いた方が良いと思うよ、櫛名田が困るだろ?」

「あ、ですね。……座ります」

 ぺたんと床に座ると、ひやりとした木の冷たさが足を伝う。阿曽の隣に温羅も胡坐をかいた。

 丁度いい機会だ。阿曽は少し気になったことを聞いてみることにした。

「そういえば、温羅さんたちも櫛名田さんと知り合いだったんですね」

「そうだよ。わたしが知り合ったのは、須佐男が櫛名田と出会った後のことだけどね。大蛇はもう少し前だろう」

 何せ、そもそも須佐男と櫛名田が出会うきっかけは大蛇なのだから。温羅が苦笑気味に言うと、阿曽は目を丸くした。

「へえ……」

「ふふっ、気になるって顔だね。いつか時期を見て、大蛇に聞いてみたらいいよ」

「そうします」

 その時、手前の部屋から誰かがやって来る足音が聞こえた。廊下を見ると、大蛇が立っている。

「あ、いたか二人共」

「大蛇? 何かあったのかい」

「そうじゃない。だけど、須佐男が天照さんたちと連絡を取るっていうから呼びに来たんだ」

「ここからつなげられるんですか?」

 阿曽が驚くと、大蛇は「そうだ」と頷く。

「ここは高天原に最も近い場所であり、神と対話する神聖な場でもある。あの祭壇からつながることが出来るんだ」

「じゃあ、行こうか。阿曽」

 大蛇と温羅に伴われ、阿曽は再び櫛名田と須佐男がいる真ん中の部屋へと急いだ。

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