第9話 逃げて
離れ屋に落ち着いてから、阿曽たちは村長に一夜の宿を貸してくれることへの感謝を伝えに行った。
阿曽と温羅は大蛇に手渡された布で目元を覆っている。けれど、視界が遮られることはない。
大蛇によればこれには特殊な術がかかっており、布を巻いていることは、四人以外にはわからないのだという。更に、相手から二人の瞳の色は黒か茶に見えているのだとか。
「初歩的な術のひとつだけどね」
にやりと笑った大蛇に二人は礼を言い、今に至る。
本邸にいた村長は、体の大きな壮年の男だった。白髪交じりではあったが、精悍な顔つきと体つきをしている。きっと、若い頃は山を駆け回っていたのだろう。
彼の容姿は目を引くものだったが、最も珍しいと阿曽が感じたのは右手首にはめられた腕輪だ。唐草のような文様の書かれた木製のもので、美しく磨き上げられていた。
須佐男が四人を代表し、村長の正面に座る。そして深々と頭を下げた。
「この度は、一夜とはいえ宿をお貸下さり、ありがとうございます」
「これはご丁寧に。構わんよ。もう少し先へ行かないと、他の人のいるところには着かないからね」
村長は鷹揚に笑うと、ちらりと阿曽と温羅を見た。阿曽は須佐男たち以外の人と間近で話した経験がなく緊張して気付かなかったが、温羅は気付いていてあえて気付かないふりをした。村長の視線はそのまま滑り、挨拶は無事に終わった。
「はあ、緊張した……」
離れ屋に戻り、阿曽は床に仰向けになった。
すっかり暗くなり、外の様子はわからない。
「お疲れ様だね、阿曽」
「温羅さん、ありがとうございます」
阿曽は温羅が手渡してくれた水を飲むため、一度身を起こした。喉に染み入る水は、阿曽をようやく落ち着かせてくれた。はあ、とため息にも似た声が漏れる。そんな彼を見て、大蛇が笑った。
「緊張してたねえ、阿曽」
「そりゃあ緊張しますよ。俺、皆さん以外の人とまともに喋ったことないので」
「そっか。阿曽は少なくとも一年前から一人であの森にいたんだもんね」
「はい。でも、野宿しなくてよくなったので、ほっとしてます」
四人は村の外の森などで採って来た食材を使い、簡単な食事をした。それから各々寝転がり、明日に備える。
「……阿曽」
「なんですか?」
右隣で寝ていると思った温羅が、囁くような声で阿曽の名を呼んだ。
夜が更けてから、竈の火は消えてしまった。今、月と星の光以外に照らすものはない。
「阿曽は、村長の目に気付かなかったかい?」
「目? ……いえ、俺は緊張してたから」
「そうか。なら、須佐男と大蛇は?」
「オレは気付いたぞ」
「え?」
阿曽の頭の上から声がした。次いで、寝返りを打つ音がして、大蛇の声も左から聞こえる。
「うん。あの村長、気付いたかもしれない」
「気付いたって、何に……?」
その時、離れ屋の戸が叩かれた。集中していなければ聞こえないような、か細い音。温羅が体を起こすと、ギシリと床が鳴った。それが外にも聞こえたのか、小さな声が聞こえる。安堵と焦燥の混ざった、震える声だ。
「……起きてるんですね? なら、今すぐ逃げて。早くしないと、殺されます」
「……『殺される』? それはもしかして」
物騒な言葉を耳にして、四人は体を起こした。そして須佐男が戸を開ける前に、声の主は走り去った。
外は、静かだ。梟の鳴く声がする。草が風にそよぐ音がする。それだけだ。
須佐男は戸を閉めて首を横に振った。
「もういない。……しかし、あれはどういう意味だ?」
「『逃げないと、殺される』か。あれは忠告かいたずらか」
判断がつかずにいる四人の耳に、今度はつんざくような女性の悲鳴が響いた。
同時に、村のあちこちで人々が動く気配がする。阿曽たちも何事かと離れ屋を飛び出した。
勿論、村長を始めとした人々が武器でも持って飛び出して来るかと思ったが。
「……誰も、出て来ないだと?」
「おかしいだろ。あれはきっとこの村の人なのに」
「それどころか、戸を固く閉じてる。息を潜めて、出てくる気配はない」
須佐男たちは、顔を見合わせた。無言で頷き合い、悲鳴が聞こえた方へと走り出す。状況について行けずにいる阿曽の手を、温羅が取る。
「行こう、阿曽」
「――ッ。はい!」
風のように走る三人を追って、阿曽は懸命に足を動かした。その息が切れそうな中で、懸命に願う。
――どうか、間に合ってくれ!
阿曽の願いが通じたのか、走り切った先にいた娘は無事だった。阿曽と同じくらいの年頃か少し上に見える彼女の顔は、月明かりの下であってもわかるほどに蒼白だ。
彼女の目の前に、人ならざる者がいた。いや、人の姿はしていたが、違う。
それは、堕鬼人だ。
口から絶えずよだれを垂れ流す堕鬼人は、真っ直ぐに娘を狙っている。濁った赤い目は、幾つもの命を葬ってきたから得てしまったものだろう。
どうやら彼女は、堕鬼人の最初の攻撃を避けることは出来たらしい。
それに安堵する暇はない。阿曽が走り出すより早く、須佐男が娘の前に飛び出した。堕鬼人を牽制する。
「あなたはッ」
「さっき忠告してくれたのは、あんただろ? 同じ気配がする。だから、助けてやるよ!」
「グ……グアアァッ」
堕鬼人となって時が経ち過ぎているのか、男にもう人としての自我はないようだ。ただ、目の前の弱い存在を食い破ることしか考えていない。
「哀れな、ものだな」
愁いを帯びた目で堕鬼人を見やると、須佐男は剣を引き抜いた。
剣には、一つの珠がはめられていた。須佐男の瞳と同じ、深い海の底の色。その美しさに阿曽が見惚れる間もなく、剣の切っ先が堕鬼人に向かう。
ザンッ
「グアッ」
堕鬼人の右腕が飛ぶ。しかしまだ、動く。息根を止めねば、終わらない。
堕鬼人につかみかかられ、須佐男はひらりと躱した。まだ、須佐男の方が速い。
彼らの攻防の間に、大蛇と温羅が娘を安全圏へと連れてくる。
「大丈夫かい?」
「は、はい。ありがとうございます……」
温羅に問われ、娘はまだ怯えの残る顔で小さな笑みを浮かべた。その隣に立ち、大蛇が彼女に問う。
「ぼくは大蛇。彼は温羅、でそっちの子は阿曽。今戦っているのが須佐男。きみの名を聞いても?」
「あ、はい。……
娘――五十鈴が名乗るのと同時に、須佐男と堕鬼人の決着もついた。
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