◆intermezzo◆ 〜雨宿り・2〜
◆intermezzo◆ 〜雨宿り・2〜
穏やかな晴れに、ぽろぽろ、ぽろぽろ、雨が降る。
大粒の涙が、溢れて。
豪雨を降らした大きな大きな雨雲が去った後に一足遅れてやって来た小さな小さな雨雲は、ほんのひと時だけ音のない雨を降らせてから、微笑みに消えていった。
『──ありがとうございます』
アラマンダの声とエスタシオンではないもう一つの声とが同時に場に響いて、アラマンダは驚き、エスタシオンは笑みを浮かべる。
「アズロ!」
「お早うございます、よく眠れましたか? アズロ君」
嬉しさを含んだ叫びと、含みのある挨拶が響きに応えた。
──時を遡った、明け方。
『おや、気がつきましたか』
薄明かりの灯る部屋の中で目を覚まし、椅子に腰掛けた青年の姿に気付いた少年は、反射的に身を起こして臨戦の構えになり。
『……くっ』
小さな呻き声をあげ、ベッドへと再び崩れ落ちた。
改めて辺りを見回し、アラマンダの無事と、青年の髪と目の色とを確認すると、困惑したように口を開く。
『……エスタシオン様……ですか?』
『これは驚いた。私をご存知でしたか、ラナンキュラスの
嬉しそうに微笑んだエスタシオンに、少年は淡々と……淡々としているわけではないのだが、淡々と聞こえる口調で言った。
『……ラナンキュラスに祝……それらをご存知ということは、やはりあなたはエスタシオン様なのですね。……ええ、お噂はかねがね』
『私の噂……ですか?』
『はい。長がしばしば仰っていました。あやつは諸々の技量と思考力は申し分ないが、行動が常軌を大幅に逸しておる……と』
一般的に初対面では……しかも緊迫した状況では語らないような話題を、少年はさらさらと口にして。
『──真顔で言われてしまうと少々切なくなりますねえ』
エスタシオンは全く切なくないような声音で言って、少しだけ俯く。
その表情は明らかに笑っていたのだが、少年はそれもまた人の複雑な感情の形なのかと思って声をかけた。
やはり、淡々と。
『すみません。では、笑って言い直しましょうか? 確か、言い方によって伝わりかたや相手が傷つく度合いは異なるのですよね?』
『……いえ、大丈夫ですよ。あなたは私の知り合いに少し似ていますね。相違点は多々ありますが』
おそらくは心底気遣って言ったであろう少年の心境を察して、エスタシオンは穏やかに微笑んだ。
『ようこそ、祝殿。此処は私の家……人に見つかることもありません、御安心下さい。あなたの隣のベッドの子も、眠っているだけですよ』
エスタシオンは何も聞かず、少年もそれを決して話さない。
『ひどい雨でしたね』
『……こちらは降雨量が多い地域なのですか?』
『ええ。雨はよく降りますよ。ラナンキュラスの年間降雨量と比較したなら、こちらが圧倒的に多いでしょうね』
『なるほど……』
『そういえば、あなたたちを見つけたあたりはちょうど薬草の群生地なんですよ。あなたが回復してきたら行ってみましょうか』
核心には触れず、外周をふわりと漂うような語りかけに少年が応える形で、ぽつりぽつりと会話が行われていた。
会話の中で少年が語ったのは、少年の名がアズロであるということ。
ただ、それだけだった。
祝に決定権は無い。
干渉されぬことと引き換えに、干渉もまた禁忌とされる特異な立場。
それ故の──
否。
立場に加えて、と言うべきか。
仄かに見え隠れする小さな感情を、頑なに抑えるかのような姿勢。
両者を捉えて、エスタシオンは静かに言った。
『あなたの隣のベッドの子が起きたら、その子の口から、あなた方のことを聞かせて頂こうと思います。……その後で、少しだけあなたのお話を聞かせて下さいませんか?』
それからにっこりと微笑んで、付け加える。
『──それと、アズロ君。あなたに一つ技のプレゼントを』
おそらくこれは長は教えていないでしょう。ですが、とても役に立つ技ですから、覚えておいて損は無いと思います。
エスタシオンは、真剣な眼差しでアズロへと語った。
『狸寝入りの極意を伝授します。ものは試しですので、軽く概要を飲み込めましたら、先ずは使ってみて下さい。始めの合図は、隣のベッドの子が起きる気配を感じた時。……終わりは、あなたにお任せします』
狸寝入りとはつまり──驚いた狸が一時的に仮死状態になるかのように、"起きていること"……"意識のあること"を悟らせないように、寝たふりをすることです。これは簡単なようで、ちょっとしたコツが要りまして云々……(中略)……であるからして、起きた時に、いかに"今起きたところだ"と表現できるかによってもまた、真に迫るかどうかが変わってきます。それから──
延々と、それはもうアズロでなければ真面目に聞いていないであろうほどの長さで、エスタシオンは「狸寝入りの極意」を説いた。
やたら真面目に……ひたすら真面目にエスタシオンの半冗談話を聴いたアズロは、とても素直にそれを実行し──
──そして、今に至ったわけである。
「……なかなかでしたよ、アズロ君」
「──そうでしょうか」
謎の会話を交わす二人に、アラマンダは「え?え?何?」と、聞いてはいけない質問をしてしまって。
「アラマンダさん、実は斯く斯く然々──」
アズロの口から、それはそれは長いエスタシオンの蘊蓄が、そのままの長さで語られて。
(面白い……ああ、面白すぎるっ……!)
瞳に涙が浮かびそうになるのをこらえながら、エスタシオンは二人の長い長いやりとり──アズロの棒読みの「狸寝入りの極意」を聴いていた。
──勿論。
アズロの語りで数時間が経過したのは言うまでもなく、やがて話し疲れ、聞き疲れた二人の疲労は極みに達し、満面の笑みでエスタシオンが持ってきた料理を無言で平らげると、吸い寄せられるようにベッドへと近づき、数分もしないうちにすうすうと眠りにおちてしまう。
「……そうそう。疲れた時は、寝てしまうのが一番ですよね」
誰にともなく、エスタシオンは呟いた。
*
「おねえちゃん……は、ねてるですね。……おにいちゃん…は、ねてるですか? おきてるですか?」
耳元をくすぐるような、小さな声。
深夜、アズロは閉じていた瞳をそっと開くと──
「わ、わ、やっぱりおきていましたですね。えと……えっと……」
身長の低いアズロよりもさらに小さな、小さな、と形容するよりは幼い……そんな幼子。
宵闇にちらちらと光る金の長い髪を持つ女の子が、アズロの氷のような双眸を直視して──決して目をそらすことなく、しかしたどたどしく話し始めた。
「わたしはシェエラザードといいます。エスタシオンおとうさんのこどもなのです。アラマンダおねえちゃんとアズロおにいちゃんのことは、おとうさんからきいてますです。はじめましてでよろしくおねがいしますなのです。そ……それでですね、その……あの……」
「……?」
「おとうさん……エスタシオンがおにいちゃんをよんでますです。いっしょ、きてくれますか?」
差し出された手は、やはり小さくて。
アズロは無言で、しかし極力力を抜いてその折れてしまいそうな小さな手を握ると、シェエラザードにつれられて、まだ灯りの灯る居間へと導かれた。
*
静まり返った夜更けに、あたたかな灯が灯る。
無作為に作られたと思しき木造の居間には自然な木目が編まれており、アズロは何とも言い表せない感情を覚えていた。
──ラナンキュラスを想わせる心地よい空間、あたたかな人たち。
なのに何故、こんなにも胸がざわつくのだろう──。
「……それはね、今まで君が抱かなかった、新たな感情かも知れません」
ふわり、と。
いつの間にか隣に立っていたエスタシオンがアズロの両肩に手を添える。
「君は、これから徐々に知ってゆくのでしょう。それは君にとって、幸とも不幸とも言えること──」
アズロの長い蒼の髪が、エスタシオンのすらりとした手によって優しく梳かれて。
「……さて。君のお話を、聞かせてもらえますか?」
淡い氷の瞳は、ただ、真っ直ぐに深く穏やかな蒼の瞳を見つめていた。
「──私は、きっと、アラマンダさんとは異なる民なのだと思います」
「──それは、何故です?」
「ラナンキュラスから逃げ延びた時、飛行しながら、アラマンダさんは必死に涙をこらえていました。私は──それが、どうしてなのか、わからなかったんです。悲しくないのか、寂しくないのか、辛くないのか。アラマンダさんはいろいろな言葉を使って、私に問い掛けました。ですが私は、そのどれにも頷けなかった……。エスタシオン様……涙とは、何なのでしょう? 悲しい、とは……? 辛い、とは? ……私は、ですから、思ったんです。私はきっと『涙を持たない民』というものなのではないか──と」
「ふむ……?」
「私はラナンキュラスの天の
「──そうですね。アズロ君、確かに『今の』君は、『涙を持たない』民に近い存在なのかもしれません。ですが君は、しっかりと気付き始めています。だからこそ、君の、今の言葉がある──」
「……」
「君の迷いや疑問は、やがて何らかの『出口』へと辿り着くでしょう。その時、決して──決して、呑み込まれてはいけませんよ……?」
「……呑み込まれる……?」
「──そうそう、アラマンダのことは、そろそろ呼び捨てにしてあげて下さい」
「へ?」
「君は、アラマンダに元気になってほしいのでしょう?」
「はい……」
「でしたら、きっと、有効な手段となります。『長』とならざるをえなかった彼女にとって、ね」
「……?」
「ふふ、今は解らなくていいんです。アズロ君、君の話を聞かせてくれてありがとうございました。──さて、そろそろ床に戻りましょうか。君の大切な人が、待っていますよ」
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