◆intermezzo◆ 〜雨宿り・1〜
◆intermezzo◆ 〜雨宿り・1〜
ざあざあ、ざあざあ。
降りしきる雨の中、微かな足音が、小さな二つの体へと近付く。
「……ふむ。外傷は無し。しかし……体力はかなり弱まっていますね」
落ち着いた低音で呟いて、青年は、二人をそれぞれ両肩に担ごうとして。
「……これは、さすがに……私には無理がありますか」
溜息をついて一度場を後にすると、ほどなくして舞い戻り、押してきた木製の荷車に二人を乗せる。
二人を起こさぬように、なだらかな下り坂になっている場所を選びながら少しの間押し進むと、生い茂る木々に隠れるように立っている一軒家の軒下へと止めた。
「あ! おとーさん、おかえりー!」
引き戸が開いて、幼子が顔を出す。
元気な明るい声とともに、やわらかな金髪がふわりと揺れた。
「ただいま、シェエラ。今日は長いこと待たせてしまいましたね」
青年は座り込んで幼子……シェエラと眼の位置を合わせて微笑み頭を撫でると、口許に一本指を立てて囁くように話す。
「それと、ごめんなさい。今、父さんの後ろにシェエラより大きなお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるんですよ。森で迷子になってしまったみたいでね。疲れて眠っているから、起こさないであげてくれますか? 起きるまで、父さんとシェエラは、そーっとそーっと静かにお話しましょう。……できますか?」
ウィンクをした青年に向かって、シェエラはとびきりの笑顔を向けた。
「うん! できるよ。つかれたひとは、そっとしなきゃなのよね! ねむるのもくすりになるのよね」
同じく囁くように言ったシェエラにふわりと笑うと、青年は荷車の上の二人を一人ずつ抱えて、入り口から入って奥の部屋の簡素なベッドへと寝かせる。
額に手を当てて、熱を。
軽く手首を押さえて脈を確認すると、そのまま部屋を後にして居間へと戻った。
「シェエラ、この桶に水があります。台所には布がありましたね。そしてあそこの部屋の二人は、少し高い熱があります。さて、どうします?」
様子を伺っていたシェエラに、穏やかに青年が問うと、小さな声で返事が返ってくる。
「んー……ええと……からだをあっためて、あたまをひやします。たかすぎるねつじゃないし、ずっとあめふりにいたから、うでのうえのほうのしたはひやすとひえすぎます」
「うん、正解。もう覚えたなんて凄いですね、シェエラ。頼もしい助手が居て、父さんはとっても助かります。……じゃあ、父さんが二人の服をそーっと着替えさせておきますから、その間にシェエラは布を水に浸して、仕舞っておいた毛布を二枚出してください」
とても嬉しそうに青年が微笑むと、シェエラは照れたように笑って、足音を立てずに作業へと移った。
「ありがとうね」
シェエラの背中に向かって小さく囁くと、青年は奥の部屋へと入っていく。
二つ並んだ簡素なベッドに横たわる二人の子を見つめて、苦しいように笑った。
一歩近付くごとに、細く長く、背中で一本に編まれた蒼の髪が弾む。
髪と同色の瞳が少しの間宙を彷徨って、木目が連なる床へと落ち着いた。
「この子は……確か、長の曾孫の元気な面白い子……。そしてこの子の格好は……きっと、祝子くん……ですね」
呟きながら、青年は器用な手つきで二人の服を替えてゆく。
雨水を吸った服と、寝かせたときに水を吸った布のシーツを取替えると、青年は口元を手で覆って短い間思考して、小さく溜息をついた。
「……まだ、刻限でもないですし……。それに、祝が降りて来るなんてことは……。……さっき見た首飾り……あれも長のものでは……。……まぁ、それは後回しでいいですね。まずは……」
二人の額に再び手を当ててみる。
先ほどより、少し熱さが増していた。
「……おっと、いけない」
瞬きをしてシェエラを手伝いに隣部屋に向かおうとして、シェエラが木でできた小さな台車で毛布を運んできたのに気付いて、青年はにっこりと笑う。
工夫を覚え始めたシェエラの成長に溢れるほどの嬉しさと、ほんの少しの切なさを覚える。
満面の笑みで「さすがは私の助手です」とシェエラを抱きしめると、二人に毛布をかけ、少ししてシェエラが持ってきてくれた水桶と塗れた布とを使ってそれぞれの額を冷やした。
「早く、元気になるんですよ」
シェエラの頭を撫でるように二人の頭をそっと撫でると、シェエラの待つ隣部屋へと足を向ける。
柔和な笑みが、青年の顔に浮かんでいた。
夜遅くまで降り続いていた雨が上がって、木々の生い茂る森の中の一軒家にも、光が柔らかく差し込んでくる。
夜明けから、既に数時間が経過していた。
日が高く昇りつつある時刻、二つ並んだベッドの片方で、少女の瞳が、ゆっくりと開かれる。
「ん……」
小さな声に、近くの椅子に座って本を読んでいた青年が顔を上げ、微笑んだ。
「気がつきましたか?」
どこか耳に覚えがあるような、けれど聞き慣れない声が耳に流れてきて、少女は何度か目を瞬いて。
「え? あれ? 何がどうなって……?」
辺りを見回しながら一つの姿を探して、その姿が隣のベッドにあったことを確認すると、小さく安堵の溜息をついた。
「大丈夫、眠っているだけですよ。おそらく、一度に能力を使い過ぎたんでしょう」
再び耳に入った穏やかな低音に、少女は隣のベッドから、声のした方へと視線を移して、そして。
「ああああおおおおあおがあおあおあおーーー!」
よくわからない、不思議な叫び声を上げた。
青年は一瞬目を丸くして、それから面白そうに笑う。
「はい、蒼ですね。私のこの髪も、瞳も。そしてあなたの髪も、瞳も」
後ろに編んで垂らした長い蒼の髪を正面へと持ってくると、ほんの少しだけ目を細め、遠くを眺めるような表情でゆっくりと話した。
「……私はエスタシオン。五年前に、ラナンキュラスの里を降りた者です」
「エスタ……シオン……?」
少女が酷く驚いた顔をして、青年……エスタシオンは静かに首肯する。
「里長の所には時々顔を出していましたから、幼い頃のあなたとも少しだけお会いしたことがありますが……こうしてもう一度お会いする機会があるとは思っていませんでした。……大きくなりましたね、アラマンダ」
もう、出会うことの無いと思われた同胞。
蒼い髪と蒼い瞳を持つラナンキュラスの民。
どこか、里長に似た眼差しを見せる青年。
少女……アラマンダは、思わず瞳に涙を滲ませそうになって。
はっとして、飲み込んだ。
「薬草を摘みに歩いていたら急に雨足が強まって、引き返そうとしたら、木の陰に倒れているあなたたちを見つけたんです。お二人とも意識が無かったので、独断で連れて来てしまいました」
言葉を繋げ、少し申し訳なさそうに微笑んだエスタシオンへと、アラマンダは深く頭を下げる。
「……ありがとうございます。助けて頂いて、感謝します。……それと……すみません」
里を降りた時点で、エスタシオンはラナンキュラスの里へ訪れる知識と術、様々な力を失う代わりに、ラナンキュラスの任からも遠退いた筈だった。
穏やかな生活に、過去の同胞が突然に干渉してしまうなんて。
ただでさえ、この人はあと──。
感謝と苦悩の入り混じる表情で発せられた声に重ねられた想いをそっと受け取って、エスタシオンは少しだけ目を閉じ、開いて。
ベッドから立ち上がろうとするアラマンダに手の平を向けて制止すると、ふわりと笑った。
「能力の……限界近くまでの消耗っていうのは、けっこう負担がかかるものなんです。……意識で持たせるのも時には必要ですが、今はとにかく休んでください」
本を小脇に抱えて部屋を後にするエスタシオンの後姿を眺め、それが見えなくなったのを確認すると、アラマンダは不意に顔を歪める。
「……」
重なって、重なって、重なった。
抑えていた涙が溢れて、覆い隠すように、毛布の中に潜り込んで。
声を殺して、息を抑えて、涙だけが、ながれるままに。
「……っ」
小刻みに、僅かに、毛布が上下する。
息を吸い込むような、小さな小さな音が一度だけ漏れて、部屋から出て少しの所に立ち止まっていたエスタシオンはふと振り返って。
「……」
小さく小さく、ため息をついた。
──静かに、穏やかに、時が流れる。
二つの小さな寝息と、一つの微かな嗚咽。
それら三つの音とは少し離れた所で、本のページをめくる音が一定のリズムで響いていた。
台所の椅子に腰掛け、前方の壁を見つめながら左手で時を刻むように厚い本のページをめくっていたエスタシオンは、ある程度時間が経過したのを機に、そっと立ち上がる。
足音を立ててアラマンダが横になっている部屋へと近づき、入り口の少し手前で声をかけた。
「入りますよ、アラマンダ」
少しして、返事を受け取ってから、ゆっくりと足を進める。
瞳に映ったアラマンダの眼差しに、静かに微笑んだ。
「おやおや。ただ寝ているのはやっぱり退屈でしたか? おてんばさん」
窓を背に立っていたアラマンダが、照れたように笑う。
「私は昔、あなたの前でもやんちゃしていたんでしょうか?」
「ええ、それはもう。一度里長に頼まれて、里の小さな子たちを集めて色んな物語を語ったことがありましたが、その時もあなたは話そっちのけで集会所を元気いっぱいに駆け回っていましたね」
エスタシオンは赤面したアラマンダへ笑いかけながら、ふと思い出したように付け加えた。
「……ですが、その時じっとしていなかったあなたが、唯一最初から最後まで耳を傾けてくれた話があるんですよ」
瞳を細めて面白そうに微笑んだエスタシオンに、アラマンダは瞬きをする。
不思議さと興味の視線が、真っ直ぐにエスタシオンへと向けられた。
「今、もう一度聴いてみますか?」
視線に応えるように発せられたエスタシオンの穏やかな問いかけに、アラマンダは首肯する。
「では、まずはベッドに戻ってください。戻ってくれたらお話ししましょう」
エスタシオンが悪戯っぽくウインクして、小さく微笑んだアラマンダがベッドへと戻って。
静かな一軒家に、夢物語が流れ始めた。
昔むかしのお話です。
あるところに、小さな集落がありました。
皆はとっても仲良しで、広い湖のほとりで水を友としながら、互いに助け合い暮らしていました。
ある時、集落の族長の家に、一人の男の子が生まれます。
長いこと子に恵まれなかった族長夫妻は、子の誕生を心から喜びました。
夫妻に笑顔をもたらしたその子はアウィスと名付けられ、集落の後継者として、集落の皆に見守られながらすくすくと育ちます。
人見知りせず誰にでも懐いて、いつもにこにこ笑いかけるアウィスは、皆から可愛がられていました。
アウィスもまた、皆の笑った顔が、とってもとっても大好きでした。
大好きな皆のためになることをしたいな。
小さなアウィスは毎日のように願っていました。
少し大きくなった頃、アウィスは皆を手伝い始めます。
するとどうでしょう。
みるみるうちに、アウィスは嫌われ者になってしまいました。
ある人は顔も見たくないと叫び、またある人は、悪いけどもう何もしないでくれと言って去っていきます。
失敗しなかったのにどうして?
問いかけるアウィスに、皆は口々に言いました。
失敗しないから怖いんだ、と。
……そう。
アウィスは、何でもできてしまう男の子だったのです。
アウィスが手伝ったことの中で、アウィスにできないことはありませんでした。
何か、何かこの子にできないことはないだろうか。
夫妻……アウィスのお父さんとお母さんは、必死でそれを探しました。
けれど探せども探せども一向に見つからず、できることばかりが、山のように積もっていきました。
アウィスのお父さんとお母さんは、日に日にやせ細っていきます。
アウィスの小さな頃は笑顔でいっぱいだった家の中は、ため息でいっぱいになりました。
……ある満月の夜、アウィスはそーっとそーっと家を抜け出します。
足音を立てずに集落の外へ出ると、ふわりと真ん丸く光る月を頼りに、集落から遠くへ遠くへと離れていきました。
「何か、できないことが見つかりますように」
手を組んで小さく祈って、アウィスは旅に出ます。
できないことを探す、長い長い旅に。
──さて、アウィスが無事にできないことを見つけたのか、見つけられなかったのか。
それは、私には解りません。
これは、物語。
私の祖父のそのまた祖父の代から語り継がれた、一つの小さなお話です。
アウィスという子がどこかに本当にいたのかいなかったのか。
今となっては、知るすべはありません。
けれど、一つだけ解ったことがあります。
「……と……ここでね、アラマンダ。あなたは『何?』と訊いて、私は『できることがよいことだとは限らないということです』と答えました。するとあなたは私に向かって可愛く頬を膨らませて『うそだー! できることは、いいにきまってるもん!』と仰って、それからはまた素敵に元気に走り回っていましたよ」
くすりと笑いながら、エスタシオンは柔らかく言って。
「あはは……何となく想像できます……うああー……ごめんなさいー……」
アラマンダはもそもそと毛布の中に沈んで頭まで潜った。
器用に毛布を体に巻き付けると、みの虫のようになってベッドの端へと移動する。
それから小さな、しかしエスタシオンに聞き取れるくらいの声で話した。
「……アズロ……って言います、隣のベッドの子。……この子に会うまでは、私、ずっと思ってました。できることは、いいことだって。すごく羨ましいって。でも……今は。できないほうがいいこともあるなって。何がいいのか悪いのかは、一概には言えないなって感じてます。それに……できるできないだけじゃなくって、知る知らないとか、考える考えないとか……色んなこと、全部、そうなんじゃないかな……とも。……全部のことに、いいことにも悪いことにもなる可能性があって……そうして起こったいいこと、悪いことも……いいことか悪いことなのか判らなくて。いいこと、悪いこと、って判断することも、本当はできないのかもしれない。でも……それが無いと難しいから、きっと私たちは私たちの判断を頼りに生活するんだと思うけど……。だから思ったんですが……あなたが今の話を、昔ラナンキュラスで語ったのは…もしかしてアズロのために……ううん、ラナンキュラスのために……セレスのために……?」
「──」
エスタシオンはアラマンダがすっぽり埋まった毛布へとにっこり微笑んで、ゆっくりと目を閉じる。
「……可能は火種になる。不可能も火種になる。しかし両者とも水たり得る。全ては揺らぎ定まらぬ。故に固執はならぬ。ただし、離れても放してもならぬ。──長が……エドゥカドル様が、よく仰っていました。……あなたは、その歳で会得されたのですね。たいしたものです」
一呼吸を置き、閉ざした瞳をそのままに、静かに。
問いかけるでもなく、そっと言葉を繋いだ。
「だからこそ──あなたがその首飾りをつけているのでしょうね」
「──」
十秒ほどの、沈黙。
それを経て、アラマンダは丸まった毛布から這い出ると、ゆっくりと落ち着いた動作でベッドへと腰掛けた。
向かいのベッドに腰掛けて目を閉じているエスタシオンへと口を開く。
「ラナンキュラスの里は、おそらくもうありません」
ただ静かに。
凛と、淡々と。
アラマンダは偽りない事実を伝えて。
……始まりの出来事と、あまりにも壮絶な終局。
一部始終を聴き終えたエスタシオンは目を開き、平坦な、しかし穏やかな声音で問い掛けた。
「──全てを語ったのは、何故です?」
短い問いと向けられた眼差しに、アラマンダは真っ直ぐに応える。
互いの蒼の瞳に、互いの蒼が映し出されていた。
「私達は、今後の任務や私達自身のことで手一杯です。……あなたの刻限が厳守されるかということを、念頭に置く余裕もありません」
「──」
もう、手が回らないですから。
そう言って肩をすくめてみせたアラマンダを、エスタシオンはきつく抱きしめる。
「アラマンダ。あなたという人は、こんな時に……」
体を離さぬまま、ほんの少し揺らいだ蒼の瞳で、溜め息をつくように語った。
「……聞くつもりでした」
「はい?」
「あなたが長の制約に絡められて話せないなら、聞き出すつもりでした。……服に飛び散っていた多くの血……今、お二人で仕舞い込むには重すぎます」
「……」
「……話して下さってよかったと、だから思いました。最初のうちはね」
「エスタシオンさん……」
「……あなたの語り口は、長としてのものでした。……事実をあるがままに、感情を加えずに話されたあなたに、途中からは──何らかの決意を感じていました。しかしまさか、その決意がこんな──」
癖のある蒼の髪に、細身ながらも大きな大人の手が運ばれる。
そっと優しく、エスタシオンはアラマンダの頭を撫でた。
「私のことに関しては、後でゆっくり話しましょう。ですから……ね、アラマンダ。──泣いたって、いいんですよ?」
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