印無き祝子
〜6.
「むかしむかしのお話です……」
ゆるやかに、淡々と、アズロは物語を語り始める。
「むかしむかし……セレスの暦が刻まれるまえ……」
むかしむかし、セレスの暦が刻まれるまえ。
この星には、文明の発達した大小様々な国がありました。
人々は、今の僕らの持つ能力のような力を、ほんの少しだけ物質的な器に与えることで稼働する、
人は個々に、それはそれは多様な力を持っていました。
火をおこす力、水を操る力、風を生む力。
それぞれが持って生まれた固有の力を使いながら、互いに協力し合って、文化の発展に努めていました。
国と国境はあるものの、それは今の町や村のようなもので……世界が、一つの国でした。
皆が皆、世界は……大地は広いと思って過ごしていました。
広大な世界に生きるためにも、力導器機をそれぞれに見合った力で動かすためにも、一つの能力……生まれ持った一つの力だけでは難しいことを知っていました。
手を取り合って、ないものを補いながら、暮らしていました。
技術がさらに発展したある日のこと。
一人の人間が、風の力に反応して使用者の身を空へと羽ばたかせる翼……飛翔の力導器機を発明しました。
何度もの実験を重ね、彼は飛翔に成功します。
人々は、空に羽ばたいた彼を称賛し、世界は一時お祭騒ぎになりました。
彼はたくさんの人の質問に、こう答えました。
……ああ、この世界は、こんなにも碧く美しい。
安全が確認され、彼は国の代表者──王のような存在とともに、飛翔することになりました。
彼は、代表者に感動の空の風景を見せられることを、心から喜んでいました。
すばらしい。
空を駆けた代表者は、口にしました。
彼は言葉を聞いて喜んで、隣の代表者の顔を見て……そして、滝のような汗をかきました。
世界は小さく、民もまたちっぽけだ。
……代表者は、見るものが怯むような鋭い眼光と、歪んだ笑みで呟いたのです。
翌年、人々の間に飛翔の力導器機が普及した頃……、世界に、争いの炎が灯りました。
やがて世界は二分され、
……力と力、力導器機と力導器機の戦い。
双方が全勢力をかけて向かい合った決戦の日、片方の力導器機が発動した瞬間のことです。
森を境に、世界を二分し空をも引き裂く、高く高い、巨大な壁が出現しました。
何人も、その壁を越えることはできませんでした。
それから程なくして、全世界にはらはらと雪が降りました。
……どこまでも白いその雪は、人々から力を……能力を奪い去りました。
数日間の雪の後、人々は、力で火をおこすことも、風を操ることも、できなくなっていました。
力導器機も、全てが稼働不可能になりました。
戦火に傷ついた誰かは、同様に傷つき苦しむ他の誰かに手で触れ、何らかの力の芽生えに気が付きました。
……手から生まれた白い力が、相手を包んで癒していきます。
雪色のあたたかな花のようだ。
彼は、呟きました。
それから百年後。
世界は、突然の長い長い猛吹雪に襲われて……一部の人間を残し、大半が死滅しました。
生き残った人々は、石と石を擦り合わせて火をおこし、大地を耕し育てながら、少しずつ、少しずつ、人口を増やしていきました。
……彼らは、長い冬を越しやって来た春を祝い、大地にセレスと名を付けて、安寧を願ったのです。
その名付けの儀式が行われてから時を経て、名前の由来すら忘れられた頃……
今の、セレスの歴史が始まりました。
セレス暦の始まりの日。
その日に、僕ら……蒼の民ラナンキュラスも、この地に生を受けたのです。
はるか昔の史実を継ぎ抱き、セレスの守護を心に……空より生まれ降り立った、蒼い髪と瞳を持つ民。
飛翔の能力と、数多の能力とを併せ持ち、セレスの行方を記し、影にて守りながら静かに生きる任を負う者。
……今から五十八年前、とある赤子もまた、ラナンキュラスに生まれ落ちました。
この地の里長の曾孫として……体の弱かった母親の命と引き替えに生を受けた赤子は、空色の髪に緑の瞳を持っていました。
……ラナンキュラスの民特有の、翼形の
……ラナンキュラスの里の日々は、里長を中心に、天の祝の祈りのもと、農耕を頼りに静かに穏やかに、営まれます。
天の祝とは、セレスに安寧の祈りを捧げし者……アクアでいう、調和の巫女のようなものです。
祝に任ぜられた里の民は、家族や知人と一切の関わりを断って、後任者が現れるまで、里の頂にある祈りの間から外へは一歩も踏み出さず、ただ一心に祈祷を続けます。
……その子供は、長期に渡って祝の任に就き続けた老齢の先代に代わって、いつ終わるとも知れぬ任に就いたのです。
……不自由を知らないその幼子に、不自由は全くありませんでした。
幼子は、世話係のほかに唯一会うことのできる人物である里長から、日に短時間、口伝の継承と種々の教えとを受けながら、残る時間は祈りを捧げる日々を繰り返し過ごしていました。
幼子が物心ついた時、里長は静かに、静かに話しました。
「
蒼く長い髪を垂らして、俯いて言った里長に、幼子は抑揚のない声で、はい、と答えました。
教えを受ける時の確認の返事と全く変わらない、短い返事でした。
里長が気まずそうに背を向け、歩き去っていくのを見つめながら、不思議そうに小首を傾げた幼子は、少しの間その背を見送って、それから何事もなかったかのように、祈りを捧ぐべく、場を移動しました。
……それから何年かの歳月が経ち、幼子は八歳の少年になりました。
何年も変わらない毎日を、少年は淡々と過ごしていました。
少年の飛翔能力には一歳の時に仮封印がかけられており、祈りの館の入り口には厳重な警護、館の裏は断崖絶壁になっていましたが、少年はやはり、それを窮屈に感じることはありませんでした。
幼児期から馴染んだそれが、少年にとっての世界の形だったからです。
……八歳になって間もないある日、少年がいつもと同じ時間に布団に入ると同時に、床に微かな音が響きました。
ゴトン、ガタガタ。
何度か床が揺れて、床に敷き詰められた正方形の石…並の力では持ち上がらないその石が下から持ち上げられ、一人の少女が、少年の前に現れました。
無言で少女を見つめる少年に、少女は名乗りました。
「初めまして、兄さん。私はアラマンダ、あなたの一つ下の妹だよ。……話するだけで皆が恐がるから、どんな厳しい顔つきの子なんだろうって思ったら、なーんだ、たいしたことないじゃない! むしろ弱そうよねー」
肩より短い長さのふわりとした蒼い髪と、少し日に焼けて薄く色付いた顔に土埃を纏わせたまま、澄んだ青の瞳を細めて、少女……アラマンダは笑いました。
表情を変えず、見張りに通報もせずただ眺めている少年に向かって手を差し伸べると、強引に少年の手を取って、それはもう、悲鳴が出るほど力一杯握り締めました。
「兄さんにはまだ名前がないんだよね? 翼の儀式してないもんね。じゃあ、とりあえず今はラナンって呼んでいい? ラナンキュラスのラナン。素敵でしょ? ……なにその目。センスを疑ってるの? このアラマンダ様に疑いの目を向けるなんて、骨があるじゃない」
何も答えない少年をよそに、だいぶ勝手に話を進めたアラマンダは、少年の制止をものともせずに、少年を、少年の全身の骨を折る勢いでお姫さまだっこしながら飛び上がり、少年の背丈では届かない高い窓の鍵を開けると、そこから空へと羽ばたきました。
相変わらずの無表情ながらも微かに瞳を見開いた少年の顔色などには目もくれず、アラマンダは一心不乱に断崖絶壁を低く滑空し、里から少し離れた花畑……夜はめったに人の訪れないそこに、着陸します。
着陸し、一息つくと、アラマンダは少年に問い掛けました。
「ねえ、ラナンって強いの? 私この間、里の子たちの大将を倒したの。里長の曾孫のくせに力は結界能力しか役立たない無能ってからかいやがったから、ちょっとばかり……体術のほうで懲らしめてやったわ。そしたらそいつが言うのよ。お前俺には勝ててもあいつには絶対勝てないぞって。……あ。あいつってのはラナンね。……もちろん大将はそのあとタコ殴りにしといたけど、それでちょっと気になってねー。ほら、会おうとしたってラナンには会えないでしょ? だから長期戦で穴掘って会いに行ったのよ。中に忍び込めさえすれば、あとはこの素敵な滑空能力で逃げ切ればいいだけだもんね。……ふふふ、甘い甘い! 鳥の民は地下の見張りに甘いのよねー」
作戦成功、と喜ぶアラマンダを見つめて、少年……もう名前はラナンで決定のようですね……と思って自分の名をラナンと認識した少年は、きょとんとした表情で言いました。
「あなたの……アラマンダ様の仰っている強い……が、何の分野を指すのか判りかねますが……。力は外では使わないように命を受けていますし、体術も使用が禁止されていますので、残念ですがお相手はできません。……けれど察するに、体術でしたらわざわざ私と闘わずとも、アラマンダ様のほうが勝れていると思いますよ?」
ラナンのその言を聞いてアラマンダは一瞬だけ目を丸くし、それからにっこりと笑って、ラナンの真っ白な手を握りました。
「声、きれいなんだね。……ラナン、この山の下に広がる世界には、歌手って人もいるんだって。歌を歌うのを仕事にしてて、たくさんの人の心に音色を残すんだって。ラナンは地上に生まれてたら、歌手だったかもしれないね」
「……歌手……そのような仕事も、地上にあるのですね」
アラマンダの言葉に、ラナンは抑揚のない声で答えます。
声色の乱れることのない、平坦な調子で話すラナンの態度にアラマンダは口を開きかけ、閉じて、少しの間唸ってから、先ほどの調子に戻って言いました。
「……うー……あー……えーと……。と……とにかくそう、今は勝負よ! 禁止でも体術勝負なのよ! 曾祖父さまの説教なんてへっちゃらよ! 二人で怒られれば怖くないわ!」
「……アラマンダ様……それは……」
無理やり体を引っ張られ、位置につかされたラナンの……当時のラナンにとってはかなりの動揺を含んだ揺れた調子の言をさらりとかわして、アラマンダは容赦なく技の体勢に入ります。
「さあさあ! 地上の、なんかの試合の開始の合図で始めるわよ! レディー、ゴー!!」
楽しそうに構えるアラマンダに、ラナンは仕方なく受身の態勢を取りました。
「ほっ、はっ、とぉ!」
眼前に繰り出される数々の技をなんとか避けて防ぎつつ、ラナンは技が止まるのを待っていました。
「……」
そうこうしながら、何十発目かのアラマンダの体術を、ラナンが受け流した時。
「嘘でしょ……」
アラマンダは呟きました。
「なんで……一発もかすらないの? 私……けっこう自信あったんだけど……。もしかしてもしかしなくても、ラナン……とっても強いんじゃ……。……使用禁止なのも、もしかして……」
呟きに、ラナンは小さく首を振って答えます。
「いえ、私はアラマンダ様のような技は繰り出せません」
「嘘」
「本当です」
「大嘘」
「いいえ」
「じゃあ、やってみてよ」
「?」
「一発私に打ち込んでみて。……私は素人じゃないもの。本気かどうかくらい解るわ」
「……」
断ろうとして、そこでアラマンダの眼差しが、いつか里長の言っていた人の感情の一つの「真剣な感じ」だと憶測したラナンは、アラマンダに向かって渾身の一発を打ち込むために、構えました。
アラマンダの額に冷汗が伝ったのが見えましたが、「真剣」には「真剣」に対応を……という里長のいつかの話を思い出して、そのまま技へと移ります。
「……行きます」
声と同時に、目に見えないような素早さでアラマンダへと向かったラナンは、右腕を、アラマンダの体ではなく腕に向かって遠慮なしに打ち込みました。
「……」
「……」
しばらく、お互いに無言の時間が過ぎた後。
口を開いたのは、当然、アラマンダのほうでした。
「……嘘……だと、思ったわ」
「そうですか」
「そうですよ嘘だと思いましたよ」
「そうですね」
「はいそうです……って、なんじゃあこりゃーーー!! ふざけてんのかおんどりゃーーー!!」
「いいえ」
二人いるのですが半ば一人芝居に思えるやりとりを交わしてから、アラマンダはラナンに溜息をつきました。
ラナンの一撃は、もちろんアラマンダに入りました。
アラマンダの腕に当たりました。
──けれどそれは、アラマンダが、防ぐ必要は無いと感じたからでした。
ラナンの攻撃までの速度は俊足。
けれど、その後の一撃は、一撃と言えないほどの、アラマンダからすればへにゃへにゃの一撃だったのです。
ラナンの一撃が、アラマンダの腕に与えた衝撃は皆無でした。
逆に、受身のために力のこめられたアラマンダの腕に無防備な一撃を打ち込んだラナンの右の拳は、無表情にも等しいラナンの表情を、ほんの少し歪ませるほどにヒリヒリしていました。
「はぁ……。……ラナン。本気だったのよね、さっきの。…わかるわ、真剣だったもの。……本気……だったのよね……。……ごめん、疑って。……うん、確かに、打ち込みは私のほうが格段に強い。ラナンの言ってたのは、お世辞じゃなくて本当のことだったのね」
アラマンダは気の抜けたように少しうなだれた後、夏に咲く花のように、ぱっと明るく笑いました。
「でも……ラナン、ラナンは守りがとっても上手いね! 私の技を防ぐ人なんて、同い年ではそうそういないんだよ? ラナンはすごい! 攻めはへにゃへにゃでも、守りがとっても堅いような相手は容易には倒せないって、曾祖父さまが言ってたの」
その微笑みにほんの少しだけ瞳を細めたラナンに、アラマンダは唐突に……アラマンダのやることはいつも唐突でしたが……唐突に提案します。
「ねえ、ラナン。私に守りを教えて。……私、いつも言われるの。おまえの技は、攻めに秀でていても、いざ空きを突かれると崩れやすい。守りを磨け……って。……私、ラナンみたいになりたい。守りも強くなりたい」
「……しかし」
口を濁すラナンに、アラマンダの真剣な眼差しが向けられました。
その眼差しは、先ほどの眼差しとはどこか違った……そして、ラナンの何かを揺さぶる、そんな眼差しでした。
強い眼差しの奥に、痛いほどの決意が宿っている気がした……。
のちのラナンは、親しいとある友人に、当時のアラマンダのことをそう語っています。
「……私は……己を守ることはできても、このままでは民を守る刃にはなれぬ……と、そう、言われています。……アラマンダ様、それでは……私に打ち込みを教えて下さいますか?」
嫌に高鳴る鼓動を感じながら、民と関わることは禁忌と知りながら、ラナンは、口の動くままに言葉を発していました。
ラナンの言葉の進行とともに、アラマンダの顔が笑みに染まっていきます。
「打ち込みなんて、いくらでも教えるよ! わかった、それがコウカンジョウケンってことだね! ラナンも悪ね〜」
「悪……ですか。私はさておき、アラマンダ様が懸念されているなら、やはり止め……」
「だー! 違う! 今のは冗談! 本気じゃないからっ」
「冗談……? 本気じゃない? ではやはり……」
「あー! わー! だー!! もう、ややこしくなってるったら。ラナンは普段どんな会話……って、あの曾祖父さまなのよね……。……ええとね、ラナンに教えてもらえるのが嬉しくって、それに、ラナンのことをちょっと身近に感じて、ふざけてみたの。親しみっていえばわかる?」
「親しみ…」
ぽつりと呟いたラナンの両頬をぐいっと引っ張って、アラマンダは笑いました。
「そう。そしてね、親しみを向けられた相手は、嫌じゃなかったら笑うのよ。こうやってね」
アラマンダの手によってラナンの頬が少し持ち上げられ、強引に笑みを形作ります。
「嫌だったらどうすればいいのですか?」
ふと何気なくラナンが聞いて、アラマンダがもの凄い形相になりました。
「い や な の……?」
少しだけトーンの下がった声が耳元に響いて、ラナンは思わず、もう既に頬から手を離されていましたが、思わず自然と微笑んでしまいました。
危機を感じたような、苦笑いでした。
「い……いえ。対応を知っておきたいと思いまして」
しどろもどろに言ったラナンに、アラマンダは「その時は張り倒すのよ」と答えて、ラナンはそのまま頷きました。
その時は本当に、そういうルールなのだと思っていました。
──こうして、ラナンとアラマンダの、二人としては必死に人目を忍んだ……しかしとうに里長に知られていたような…秘密の特訓が始まることになります。
アラマンダは日に日に守りを身につけ、ラナンはアラマンダよりも遅い速度ながら、着実に打ち込みを覚えていきました。
大変というよりも面白く、辛いというよりも楽しい……そんな時間が、ゆっくりと過ぎていきました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます