ふたつの現実 前編
〜6. ふたつの現実 前編〜
歌が終わり、少女が軽く咳をして小さく息を整えてからは、ただ、室内に静寂が流れていた。
食事が下げられてから半時ほどの時間が経つまで、二人は壁際に座ったまま、何をするでもなく、天井を見上げていた。
ぽつりと、思い立ったように少女は呟く。
「──何か、見えましたか?」
天井から真正面へ、それからシェーナへと視線を移して、少女は続けた。
「この歌は、わたしが物心ついた時には既に知っていた曲なんです。どこの歌なのか知りたくて、お義父さま……私を育てて下さった方の前でも歌ってみましたが、やはり知らないと……」
目を閉じ、穏やかに微笑んで、少女は言葉を紡ぐ。
歌声よりは少し幼く感じられる声で、静かに語った。
「……けれど、懐かしい気がする、とも仰いました。試しに色々な人の前で歌ってごらん、と言われ、わたしはお義父さまの職場で、多くの人に聴いて頂いたのです。……そこでも、知ってらっしゃる方は一人もいませんでしたが……ひとつのことが解ったんです」
深く澄んだ石壁に、鈴の声が響いていく。
シェーナは風凪ぎのような、たゆたうようなその声を、そっと聞いていた。
「抱いてきた想いや歩いてきた場所、得たものや失ったもの、たいせつなものやたいせつな人……歩み去った過去……。幻想ではない、過去としての事実を、この歌は聴き手に見せるそうです。……ある方は、この歌を聴いて酷く苦しまれ、もう近くでは歌わないでくれと仰いました。またある方は、また何度でも聴かせてくれと……」
ふと、淡い色の目が開かれ、シェーナの横顔を見据える。
「……シェーナ様には、何が映ったのでしょうね」
「──」
横を向いて、少女の瞳と眼が合って、シェーナは息を呑んだ。
淡い藍の瞳が、鋭く、シェーナの茶の瞳を射抜く。
少女の顔から、笑みが消えていた。
澄んだ淡い瞳が、煌く刃のようにすら見える。
「……少し、喉が渇きましたね」
少女はそのまますっと立ち上がり、近くに置いてあったコップを手に取ると、少しずつ口に水を含む。
表情から、笑みは消えたままで。
笑みがないというより、感情全てが消えたような表情とでも言うのだろうか。
藍の瞳は、澄みすぎているくらいに澄んでおり、そこに何も映していないかのようだった。
シェーナはただ、そんな少女の姿を唖然として見つめていた。
『シェーナ様……』
ふと、シェーナの頭へと、声のようなものが響く。
え?
声を伴わず、ただ口だけを疑問の形に開いた時。
「……」
ほんの少しだけ離れたところにいた少女が、流れるような歩みでシェーナの眼前へと舞い戻り、
「!?」
同時に、何かが口の奥へと流れ込む。
息苦しさに思わず飲み込み、微かに残っていた力で少女の身体を押しのけると、何度か咳き込んだ。
「……申し訳ございません」
シェーナと少し距離を取った所へそっと座り、少女は口を開いた。
先の一時の無表情とは異なり、瞳には穏やかな色が浮かんでいる。
「このお薬はログレアで精製されたもので……薬効の強い薬草の成分を凝縮したものですから……少量でも、効果があるんです。身体にも、とてもいいんですよ」
少女はにっこりと微笑むと、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……シェーナ様」
小さく、確かに、声が響く。
「わたしの歌を、忘れないでください。……これからシェーナ様が生へ向かわれるとしても、死へ向かわれるとしても……。どうか、どうか……歌が見せたもの、すべてを、忘れないでいてください」
少女は銀の髪を揺らして立ち上がると、静かに戸の外へと出て行った。
長い服の裾が、戸に吸い込まれて、見えなくなっていく。
「……」
シェーナは少女の後姿を視線だけで見送ると、深く目を閉じた。
瞳を閉じたまま、想いを馳せる。
歌が見せた、景色を。
色鮮やかな、思い出たちを。
接したすべての人々を。
そして──
あの日起こった、出来事を。
あの日起こした、出来事を。
シエラねえさんの、最期の笑顔を。
シエラねえさんの、最期の言葉を。
「……」
そっと目を開くと、左手を握り、開き……それを繰り返してみる。
右手も、同じように繰り返す。
どちらも、動いた。
肩から繋がっている両腕は、両の手は、自分のもので。
遠ざかろうとしても、どこまでもついてくる。
あの日、あの時……身を切り裂く暴風が吹き荒れた時、強く違和感を感じた左手も。
シエラねえさんとよく繋いでいた、微かにあたたかさの残る右手も……。
確かに、自分のものだった。
焼きついて離れない紅い光景。
止まない風と、叫び声。
生温かい両腕と、体温を失って冷えててく大切なひとの身体と。
居た堪れなくなる、あの鉄のような臭い。
活気溢れる小さな診療所。
差し入れの食べ物と、皆の笑顔と。
手を繋いで歩いた、草の道。
春夏秋冬、流れる厳しくも穏やかな日々。
静かに想いながら、両の手を組み、額へと当てる。
「──」
固く目を閉じ、声にならない言葉を囁いた。
暫くして、二度目の食事が運ばれてきて、一時間後、いつも通りに、手付かずのままさげられていく。
いつの間にか眠ってしまったシェーナを、戸から入ってきた誰かがベッドへと運び、そっと戸の外へと消えていった。
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