指の形
扇智史
* * *
ほんとうに正確な時計はこの世界に存在しない。
私と日水子が同じクラスにいた高3の1年間だけでも、数え切れないくらい遅刻を繰り返した。かと思えば、誰よりも早く学校に来て、教師が鍵を開けるまで校門の前でしゃがんでいることもあった。見てきたように言えるのは、黒々とした鉄の扉を背にした彼女の自撮りが、いまでも私のスマホに残っているからだ。機種を引き継ぐたびにわざわざ転送している日水子のはかない美貌を、私はときおり見返す。
真っ暗にした部屋の中で、スマホの光の中で目を伏せている彼女の姿を、私はずっと見つめる。折れそうな細い首をハイネックのセーターで覆い、肉のないすねをスカートの下からさらし、形のよい白いひたいはほれぼれするほど美しい。あごに添えられたV字の形の指は無機質な風合いで、その肌に一度も触れたことはなかったけれども、その体温はきっとひどく冷たかったろうと思う。
日水子は浮いていた。高校の途中で転校してきてから、いっかな学校になじめなかったのは、彼女自身が原因だったことは疑いない。
クラスの半分以上が地元で就職するような、だらけた雰囲気の地方の私立高校でさえ、日水子は悪目立ちしていた。時間にはひどく無頓着で、かと思えばスリッパの汚れに異常にこだわったりする数々の奇癖を持ち、聞きかじりの知識を組み合わせた真偽不明の戯れ言で他人を煙に巻く姿は、他人と合わせることを拒絶しているようだった。
同級生の誰もが敬遠していた彼女を、私はどうしてか放っておけなかった。学級委員よろしく遅刻を注意したり、授業の理解度を確認していっしょに復習したり、なんでもない夕方に教室のベランダでふたりで居残ったりしても、教師の覚えがよくなるでもなく、自分が満足するわけでもなかったのに。
どうしてか解らないまま、私は日水子にかまい続けた。
いや、いまなら理由はわかる。
私は彼女を許せなかったのだ。
学校ではマイノリティーだった私、一刻も早くこの街を出て遠くに行きたいと希っていた私にとって、日水子の価値観は理解できないものだった。
はなやかで希望のある東京からこんな閉塞した地方都市に移ってきて、不満げにするでもなく奔放に生きる彼女。世界と相容れない自分をただそうともせず、それを己に許している彼女。どこにも行かず、何にもなろうともしない、日水子。
おこがましいことだが、きっと、私は彼女を正しい道に連れ戻そうとしていたのだろう。私の思う正しさへと彼女を導き、時計のずれをただすみたいに調律することができれば、彼女は私をいらだたせずに、そこにいてくれるかもしれない。そんなふうに期待していたような気がする。
そんな私を、日水子はいつも受け入れながら、決して自分を変えようとはしなかった。スマホに何度もメッセージを送っても、返信はいつも気まぐれだった。時計からかたくなに目をそらしているみたいに、深夜や早朝に返事を送ってきた。
眠っている間に通知で起こされて、私はいつも、しょぼくれた目をこすりながら返信していた。
時計の話をしたのは、暑くも寒くもなくて、半ば暮れかけた日があたりをうっすらと包んでいるような日の、公園のベンチだった。
遊具がことごとく取り払われた公園は、砂場の砂さえ凹凸を失っていた。ぬるい陽射しはただでさえ世界の輪郭をあいまいにさせていて、影を生み出す大きな建造物もあたりにはなく、視界一面、薄赤い膜に覆われているようだった。
日水子は、コンビニで買ったカフェオレを両手にくるむようにして、ぼんやりとローファーのつま先に目を向けていた。
彼女は、視線をあまり上に向けないくせがあった。あおむけに寝るのがきらい、と言い切ったことがある。そのわけについては、あまり詳しくは聞けなかった。
その日も、私が「空、きれいだよ」と口にしてみたけれど、日水子はけっして上を向こうとはしなかった。彼女が見ていたのは、自分のつま先と、うつろな公園と、それからたまに、私の顔だけ。
彼女の瞳はすこし色素が薄く、かすかな赤みを帯びていて、いまにも砕けてしまいそうなやわらかな宝石を思わせた。その目で私を見つめ、ゆるく笑って、「今日もありがとね」と告げた。彼女は今日も昼過ぎになるまで学校に来なくて、私は彼女が来ていなかった授業のノートをまとめて、コピーしてあげたのだった。
感謝されると、胸がざわついて、心の底に重たいものがたまっていくような気がした。自覚のないまま、私は私のなかに黒い気持ちをため込んでいたのだと思う。
私は、視線を赤い空に向けて、「感謝するくらいなら、遅刻、なくしなよ。時計、ちゃんと見て」とつぶやく。
彼女が時計の話をしたのは、そのときだった。曰く、この世界で最も正確な光格子時計だって、何百億年のうちに1秒もずれてしまう。一般に使われている時計なら、目に見えないけど大きな誤差が存在しているはず。そもそも、厳密に言えば地球の質量の偏差が原因で、地球の上でも時間の流れ方はわずかに違うのだ。
ほんとうに正確な時計はこの世界に存在しない、と日水子はうそぶいた。
私は苦笑して「へりくつだよ」と言っただけだった。日水子のことばはうまく飲み込めなかったし、結局、そんな詭弁で自分の気まぐれさをごまかしているだけではないか、とそんなふうに思っていた。
「時間なんて、作り物だよ。この社会をまわすために、捏造しただけ」
いつもより低い声で、暮れかけた空気のなかに沈み込ませるように、日水子はつぶやいた。私は「だから遅刻するの?」と混ぜっ返して、その話は結局そこまでになった。日水子は、いつもどおりののろのろとしたしゃべり方で日が沈むまでしゃべり続け、私がスマホの時計で時刻を確認して帰宅を急かしても、ずっと話すことをやめなかった。
日水子とはいつも、長く長くしゃべり続けていたような気がする。
日水子の行状は何も改善することはなく、さほど成績も上がらないまま、卒業した。私は関東の大学に行ってひとり暮らしを始め、日水子はたぶん別の土地に引っ越して、それきりになった。
いま、私は眠れない夜を過ごしている。
大学を無事に卒業して、派遣社員として過ごす日々の中で、私はあっというまに時間の感覚を失ってしまった。まんじりともできない夜の先には、重たさと眠気で頭を支配される朝が来ることを知り、夜はひどく憂鬱な時間になった。
あのころは、眠れぬ夜を待ち望んでさえいたのに。
いや、それは、私がいまの苦しみから逃げ出しているだけだ。
あの、日水子に振り回された日々の記憶を、美しく塗り直そうとしているだけだ。
絶対に。
ベッドの上であおむけになると、黒い天井と壁のさかいめに、蛍光色の時計の文字盤がほんのりと浮かび上がる。ひとり暮らしをするときに、自分で選んで買った時計だ。自分の新しい生活に、規律を作りたかった。
そうしたら、これから先も、正しい人であれるように思えたから。
身をよじり、うつぶせになって、枕に顔を沈み込ませながら、スマホの中でうすく笑う日水子を見つめている。
あのころも、日水子は、こんなふうに私からのメッセージを読んでいたのだろうか。昼も夜も区別がつかなくなって、人の世界の仕組みになじめなくなった彼女は、私のことばをどんなふうに受け止めていたのだろうか。
あれから、私と日水子とは没交渉だ。私からのメッセージに、日水子からの返信は一度もない。私と日水子の時間は狂ってしまったまま、永遠に合わせられない。夜の1時の形をした指にも、もう触れられない。
指の形 扇智史 @ohgi_
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