第39話 瑠衣の悪夢2

 その時です。足を踏み鳴らすドッドッという音とともに地響きが起こり、洞窟の中から恐ろしい唸り声が聞こえたと思うと同時に、黒い影が飛び出してきた。

 それは、天を衝くような巨大熊だった。威嚇するように二本足で立ち上がり、その灰色の毛並には、縄文土器に描かれる炎を模倣した渦巻主文(モレウ)が赤く浮かび上がり、燃えるような赤い眼の淵には赤いクマが吊り上がり、耳まで裂けた口元には紅が差されてたようになっていて、鋭い牙が並んでいる。

 熊の姿を借りた悪魔! 私にはそれ以外の言葉が浮かばない。その熊の後ろから樹皮の衣を着て、武者のような鎧を付けた女の人達が、洞窟から足を踏み鳴らし、隊列を組んで不規則な足取りで進んでくる。

 女の人たちも熊と同じように、顔や腕は赤く渦巻主文の刺青を入れ、目元は目じりを吊り上げ、口元は耳まで口角を引き上げるように紅のような刺青を施している。

 まるで悪魔のようなメークだ。しかもこの怪しげな女戦士が持つ刃は鈍く光り、その質感はとても偽物とは思えない。

 私はあまりの恐ろしさに腰が抜け、声を上げることも出来ない。

 人は本当に恐ろしい時は腰が抜け、声が出ないことを初めて知った。

「お、お前たちは?」

 震える声でお父さんが問いかけた。大丈夫、お父さんにはまだ余裕がある。

「貴様ら、和人か? われらの警告を無視してこの聖域に立ち入るとは、我らの恨み、思い知れ!!」

 どうして熊がしゃべっているのよ?! われらの恨みって、私たちがあなたたちに何をしたっていうの? 私の疑問は頭の中で反芻されるだけ。でも、お父さんがちゃんと尋ねてくれた。

「なぜ、熊が言葉を話す? それに恨みってなんだ?」

「ふっ、死んでいく者にする話などない。わらわの正体もこの女子どもの正体もな。この聖地にやって来た男の行く末は昔から決まっておる。女人島で過去何度も繰り返えされて来た風習に従うのみ!」

「女人島……? この女たちは女人島の末裔たちなのか?」

「末裔とは少し違う。わらわを守り守護するために、自ら魂を差し出した者たちだ。者どもかかれ!!」

 そう巨熊がいうと、女たちは手に持った刀や槍で、お父さんに襲い掛かった。

「きゃーっ、やめて!! お父さーん!」

 やっと出た声は、霧を切り裂くような悲鳴だった。

 でも、私の目の前でお父さんは何本もの槍を受け、女戦士たちに串刺しにされていた。その心臓を刺した槍を抜くと私の顔に生暖かい物が飛び散る。目の前が真っ赤になった私は、熊の爪の一撃がお父さんの首を吹き飛ばし、千切れた首から噴水のように血が噴き出したかと思うと、スローモーションのようにゆっくりと一回転してそのまま地面に転がるのを息を止めて視ていた。

 私は目を見開き、息を飲む。お父さんが死んだ? 目の前で? 私たちが何をしたというの? この人達ってなんなの? 獣なの? 悪魔なの?

 私の中で、次々に疑問が浮かび、そして走馬灯のようにお父さんとの楽しかった日々が目の前を通りすぎていく。これが現実なら私も死ぬんだ……・

「女人島に流れついた男は、子をなせば死あるのみ。死ぬ間際に天国を見せてやれんかったのは不憫じゃがな。それよりそこの女子(おなご)、汝にはアイヌの血が流れているようじゃのう」

「私がアイヌ?」

「そうじゃ、われらの末裔になるのか……。そうであるなら殺しはせん。われらの一族になりここを守護するべきじゃが……。ここの女子どもは千年前に肉体は滅び、大和への恨みでこの世に魂が縛り付けられた亡霊じゃ。とても生身の子を育てるなんぞできん。じゃから、お前は帰してやるが、再びここに帰ってくるようわらわの呪いを受けてもらうぞ」

「……呪い……?」

 呪いと言われても、混乱した私の身になにが起こるかなんて考えられない。ただ呆けて、目の前の巨大熊を死んだ目で見ているだけだ。

「そうじゃ。いま見たことは誰にも話せん。そして二十歳になれば、ここに戻ってきてわらわとともに永遠にこの聖地を守護するのじゃ。破ればたちどころに悪魔に心臓を鷲掴みされ死んでしまうのじゃ」

 熊がそういうと、放心している私の両腕を女兵士が捕え、私の腕を両側から抱え上げ、巨大熊の前に引き摺ってくる。

「なるべく痛みの無いようにしてやる」

 そういうと、巨大熊は私の胸をその鋭いかぎ爪で抉った。

「ぎゃーっー!!」


 そこで私は飛び起きた。胸が締め付けられるように痛い。呼吸するのも困難だ。今まで見ていたのは夢? いえ、私が実際に一〇歳の時に遭った現実だ。夢の続きは、私はそこで気を失い、まったく別の登山道で倒れているところを他の登山客に発見された。お父さんはその先の崖崩れで封鎖されている登山道から転落したようで、数日後、ぼろぼろになった遺体が崖下で発見された。その時はなぜか首と体はつながっていて、落ちた拍子に何本もの枝が体に突き刺っていたようだ。

 お父さんの死んだ時のことを色々訊ねられたが、私は何も答えられなかった。少しでも話そうとすると、心臓が鷲掴みされたような痛みに苦しくなり、発作を起こしてしまうのだ。それで周りの人は、あまりのショックでパニックを起こしていると思ったみたいで、状況からお父さんは誤って崖から落ちた事故と判断され、騒動は収まっていった。

 お母さんはお父さんの死を嘆き悲しんだが、子どもの私を育てるためにいつまでも泣いてはいられなかった。それに、お父さんの残してくれた遺族年金と死亡保険で、裕福ではなかったが生活だけはできていた。

もっとも私は塞ぎこみ、ほとんど友達も作らず、あの時巨大熊が言ったアイヌや女人島を調べまくるようになっていた。幸いお父さんの書斎には、これらの本がたくさんあった。それで興味を持った私は、お父さんと同じ研究者になることを夢見るようになっていた。

 このままあの熊の言う通り二〇歳で死ぬにしても、何も知らないで死ぬよりはましだと私の意地が叫んでいたんです。


 発作が収まった私は、ベッドから起き上がり、まだドキドキしている胸を落ち着かせるために、流し台に行きコップに水を灌ぐ。そこにある鏡に映し出された私は、あの時の女戦士のようにおぞましい刺青が浮かび上がっている。そして、Tシャツを撒くり上げると胸にはあの熊のカギ爪の後がくっきり浮かび上がっているのです。

 この傷と刺青、私があの時のことを話そうとしたり、興奮したりすると肌に浮かびあがってくる。呪いとはよく言ったものだ。この刺青のせいであの日のことは決して忘れることなどできない。そしてあの約束も……。

 もうすぐ二十歳の誕生日がやってくる。私は大学受験で、少しでもあの忌まわしい場所から離れたくて、福島から遠く離れた地方の国立大学を受験した。この大学にはお父さんも通っていて、学んだ恩師がいるとのことだった。 そして今はこの大学の文学部の2年生だ。しばらく見なかった夢を最近頻繁に見るようになったのは、二十歳の誕生日に私を連れ戻しにくるという暗示なのだろうか……。

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