第一章9 ~お兄ちゃんの安否~

 部屋に入ると薬の独特な香りが鼻腔を突き抜けていった。

 厭な匂いではないが、普段嗅ぎ慣れない匂いに思わず鼻をひくひくさせる。

 目の前には布団に横になって静かな寝息を立てている女がおり、身体の至るところには包帯が巻かれている。包帯には血が滲み、赤黒く染め上がっている部分も見られ、その怪我の重傷さを物語っている。


「で、お主らはそれを返すためにここへ来たと」


「は、はい。その……ミリアお姉ちゃんに頼まれて」


 女の側にはもう一人正座をする老婆がいた。

 緑のゆったりとした服を着ており、袖口から覗く手は皺だらけで骨張っている。やや目付きの悪い老婆は、訪れた私たちを値踏みするように睥睨しながら、受け取ったオシロイを天井にぶら下がる魔力結晶の光に翳した。


「ミリアの奴……いつの間にこんなものを。最近、色気付いてきたとは思っておったが、隠れてこんなものを作っていたとは。すまぬな、我が孫の我儘に付き合わせてしまって」


「い、いえ、届けただけですので」


 私は頭を下げた薬師様に申し訳なさが先立って慌てて迷惑と思っていない旨を伝える。

 薬師様はにこりと笑い、「そう言ってもらえるとありがたいよ」と一言付け加えてくれた。

 見た目は少し怖そうだが、中身はとても優しいお婆ちゃんだ。村の皆が薬師様と親しみを込めて呼ぶのも納得のいく振る舞いだ。決して医療に優れているからというだけで、伊達に薬師様と呼ばれているわけではないだろう。

 そんな薬師様は私を見たあと、隣に座るアリアちゃんとレイちゃんに目を移す。


「で、そこの二人はどうして顔が真っ白になっとるんじゃ?」


「そ、それは……その。これには深い訳があって」


「アリアが私にオシロイを塗ってみろと強制してきた」


「なっ!? レイ、あんた何あたしだけを悪者にしようとしてんのよ! 元はと言えばあんたが少し化粧してみれば、なんて言ったのが原因でしょうが!」


「でもその化粧でどこぞのバカ殿ならぬバカ姫みたいな顔面になったのは自分のせい。笑った私に報復とばかりにオシロイを塗りつけてきたのはアリア」


「ぐぬぬ……そのバカ姫呼ばわりが気にくわないのよ!」


 二人の間でバチバチと視線がぶつかり合う。

 薬師様は呆れたように溜息を吐きながら、コンパクトを開き始める。


「二人ともその辺にしておけ。患者が寝ておるんじゃ、静にせぬか。それにしても凄い匂いじゃのぉ。儂はあまり好かん匂いじゃな」


「そう? あたしは結構好きな匂いだけど。甘い匂いがして。どうして好きじゃないのよ?」


 薬師様の発言にアリアちゃんは自分の頬に付いたオシロイを指先で拭い取り、匂い嗅ぐ。

 確かにオシロイの匂いは私もいい匂いだと思う。隣にいるアリアちゃんとレイちゃんからほんのりとキツ過ぎない甘い香りが漂い、匂いのせいか心が落ち着く。

 何かハーブに似たモノでも混ぜ込んでいるのだろうか。

 薬師様はコンパクトの蓋を閉じながら、アリアちゃんが投げ掛けた質問に答えた。


「死化粧を知っておるか?」


「死化粧? 何その怖い単語」


「死んだ人間に化粧をすることだよ、アリア。エルト村もそうだけど、色んな国で埋葬する前には綺麗な遺体にしておくっていう風習があるんだよ」


「さすが博識じゃのぉ、レイ。文字通り、死化粧は死体に化粧をすることじゃ。このオシロイの匂いはその死化粧の匂いに似ておる」


 言われ、その場にいた全員が黙るしかなかった。

 アリアちゃんなんか、先ほど指先で拭い取ったオシロイをただ呆然と見て立ち止まる。

 薬師様は少しバツが悪そうな顔をして、


「あくまで似ておるというだけじゃ。死化粧として使うためにミリアも作ったわけではなかろう。そもそも死化粧を悪く捉えるな。あれは死人を綺麗な状態で旅立たせるため、あるいは死臭を誤魔化すために使うものじゃ。深読みするでない」


「な、なぁんだ。もう、オババも人が悪いわね。ち、ちょっと。ほんのちょっとだけどびっくりしたじゃない」


「アリア、冷や汗で化粧が落ちてる。ぷふっ、まるで化物」


「んなっ!? あんたはまたそうやって! 今日という今日は許さないんだから!」


 くって掛かろうとするアリアちゃんを私は必死に止める。レイちゃんは尚もクスクス笑いながらアリアちゃんをからかっていた。薬師様は「メイも大変じゃのぉ」と笑いながらコンパクトを女の枕元に置いた。

 そうしてしばらくその家で薬師様とお話をした私たち。

 幸いにも寝ているお姉ちゃんの容態は回復傾向にあるらしく、峠も越えたため、命の心配はあまりないという。アリアちゃんもそれを聞いて少し安堵しているようだった。隣人であるため、多少なりとも交流はあったのかもしれない。


 そうして日が沈み始めた夕方のこと。

 突然家のドアが勢いよく開き、そこから一人の男が転がり込んでくる。


「た、大変だ!」


「これ! いきなり何事じゃ! ここには病人がおるのじゃぞ。静かにせん――」


「それどころじゃないんだ、薬師様! 先ほど討伐隊が帰ってきたのですが」


 男は慌てた様子で薬師様の言葉すら遮って衝撃の一言を放つ。


「村長の息子が……レクスが死んだと」


「……へ?」


「なんじゃと!?」


 突然の訃報にその場にいた全員が頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けたことだろう。少なくとも私はそうだった。

 薬師様はすぐに男に帰って来た討伐隊の元へ行くと言い、私たちもそれに便乗してついていくことになった。

 帰ってきて間もないのだろう。まだ北門前にいるということで、駆け足でそこへ向かう。人集りを見つけ、薬師様が人混みを掻き分けて奥にいる討伐隊の元へ駆け寄った。


「ぅ……ぐぅ……レクス……ひぐっ」


 北門前で地面で泣き崩れるミリアお姉ちゃんの姿がそこにはあった。他の討伐隊のメンバーも神妙な面持ちで俯き、嗚咽を漏らしながら何度も拳を地面に叩きつけるミリアお姉ちゃんをただ傍観している。

 薬師様はミリアお姉ちゃんの傍に行くと、その何度も叩きつけていた拳を止め、静かに声をかける。


「落ち着きなさい、ミリア。一体何があったんじゃ」


「ぅぅぐ……お婆さま。私、私は……レクスを見殺しにしちゃって。何もできなくて……レクスが」


 文脈があやふやで、何を言っているのかまるで判らなかった。それだけミリアお姉ちゃんはとり乱していた。普段は飄々としていて、並大抵のことでは動揺しない人なのに。

 私はミリアお姉ちゃんの傍まで行くと、小さな声で訊いてみた。それだけはなんとしても訊いておきたかった。


「ミリアお姉ちゃん……お兄ちゃんは?」


「っ!?」


 ミリアお姉ちゃんにとって、それは酷な質問だっただろう。だがそこに気を使えるほど、私にも余裕はなかった。

 ミリアお姉ちゃんはしばらく目を見開いて私を見つめていたが、不意に俯いて一言呟いた。


「レクスは……死んだわ」


 その一言を訊いた瞬間、私の視界が揺らいだ。自分の身体から力が抜け、筋肉が弛緩するのが判る。

 後ろ向きに倒れそうになる私を慌ててアリアちゃんが支え、そこで失いかけた意識が引き戻される。だが抜けた力が戻ることはなく、手足に力が入らない私は、ミリアお姉ちゃんのように地面にへたり込んでしまった。

 そんな私を介抱しながらアリアちゃんはミリアお姉ちゃんを鋭い眼差しで射抜き、声を荒立たせた。


「め、メイ! ちょっとミリア姉、どうしてレクスが死んだなんて嘘をつくのよ! あいつが……あの莫迦が死ぬなんて有り得ないでしょ!」


「アリア、落ち着いて。ミリア姉が嘘ついてるようには見えない。それにそんなに質問責めにするのは……酷」


 ミリアお姉ちゃんとアリアちゃんの間に割って入るレイちゃん。

 アリアちゃんはそんなレイちゃんが気に入らなかったのか、レイちゃんの肩に掴みかかった。


「うっさい! レイはなんでそんなに冷静でいられるのよ! なんでそんな涼しい顔してレクスの死を受け入れられんのよ! あんたはなんでそんな平然としていられるのよ! あんたには……あんたには人の心がないのか……」


 そこまで言って、アリアちゃんの叱責は終息していった。

 レイちゃんを見ると、顔こそいつも通りであったが握った拳からは血が滴っていた。

 レイちゃんだって何も感じないわけではない。きっと私たちと同じように悲しいはずだ。アリアちゃんも叱責の途中でそれに気が付いたのか静かに「ごめん……」と一言呟き、レイちゃんを解放する。

 一連の成り行きを見守っていた薬師様が、ようやく口を開いたのはその直後であった。


「ようやく落ち着いたようじゃの。じゃがお主ら少し焦りすぎじゃ。状況も碌に訊かずにレクスの童(わっぱ)が死んだと決めつけるのは早計じゃろうて。ミリア、あやつは本当に死んだのか?」


「た、たぶん。私たち絶壁の所で洞窟を見つけて、そこに入ったの。そしたら中にはグリンブルスティがいて、襲われたから逃げたんだけど……私を庇ってあいつ怪我をして……。それで皆を護るためにあいつは洞窟を爆破したんだけど、その洞窟が出入り口まで瓦礫で埋まっちゃったから……」


「洞窟……じゃが、死体を見たわけではないのだろう」


「そうだけどっ……でもあの状況じゃ……」


「――確かに可能性は低いかもしれねぇな」


 そこへ明後日の方角から男の声が飛んでくる。

 見れば、そこには鍬を肩に担いだゲオルさんの姿があった。隣には息子のフィルくんの姿もあり、私たちを見つけると駆け寄ってきて、地面にへたり込んだ私に手を差し伸べてくる。


「あ、ありがとう」


「気にすんなって。俺もレクスが死んだなんて思いたくねぇし。だから父ちゃん」


「おうよ! その洞窟に行ってレクスを掘り出せばいいだけの話だろう。ここでうだうだしてても仕方ねぇんだ。だったら生きてること信じて今俺たちができることをやるしかないだろ。絶望すんのはその後でも十分だ」


 ゲオルさんの言葉に周りにいた村人たちも何人かその言葉に触発され、同意の声をこぼす者がいた。

 しかし薬師様は冷静にゲオルさんを見ながら言った。


「はぁ……ゲオル。お主、簡単に言っておるが掘り起こすにしてもどうする気じゃ? まさかその鍬一本でどうこうできるとは思っておらんだろうな」


「ふん、そこは気合いだ。それに魔法で土を掘り起こしたり、水で土を柔らかくできる奴もいる。そいつらと一緒なら洞窟くらい堀り越せるだろ」


「阿呆かお主は! 洞窟を掘り起こすなど、気合でどうこうなるわけなかろうが! 王都の土木関係の者でも半年はかかる作業じゃぞ。ましてや専門知識もなく掘り起こしてみろ。仮にレクスが生きていたとしても、そのせいで地盤が緩んで洞窟の崩壊が進めば、それこそあやつの生存率を下げることになる。それにエルト村の外は魔獣の巣窟じゃ。夜行性が多いとはいえ、出くわせば被害が出るリスクもあるんじゃぞ」


「だったらこのままレクスを見殺しにしろっていうのかよ。オババだって生きている可能性があると思っているんだろ。俺は厭だぜ。あいつは村の仲間だ。それに何のために俺たちは日々訓練をしてるんだ。村の皆を護るためだろ。怪我すんのが怖くて仲間を見捨てるなんざ、俺だったら死んだ方がマシだっ」


 ゲオルさんの言葉は人として正しいと私は思った。私もお兄ちゃんが生きているなら、今すぐにでも洞窟を掘り起こして助けてあげたい。だが現実問題、それが難しいことは私でも判った。

 この村には土を形状変化させたり、石を砕いたりする魔法を扱える人たちがいる。しかしどの魔法も土で掌サイズの人形を作ったり、小石ならともかく岩となるとひびを入れたりすること限界であるハズレ魔法ばかりだ。ゲオルさんも土を少し隆起させることしかできないため、そもそも掘り起こすことことが難しい気がする。

 仮に土を掘り起こすことが叶っても、魔物に襲われるリスクを考えながらでは当然作業も長引くだろう。お兄ちゃんは食料や水を持って行かなかっただろうから、そのうち疲弊して死んでしまうのがオチだ。

 私のように感情論ではどうこうできないことに薄々勘づいてる村人もいるようで、周りでは行くべきか、行かないべきかで口論まで始まりだしていた。

 最早収拾がつかなくなり始め、薬師様とゲオルさんの言い合いも苛烈になってきた頃、そこへ一喝の声が飛んでくる。


「騒々しい! 静かにしないかっ」


 その声の発声源に皆の視界が集まる。

 村人たちを掻き分けて姿を現したのは強面の男だ。袴姿で、羽織がはためく姿がまた厳格なイメージを彼にもたらしている。

 このエルト村の村長アルクだ。


「ゲオル、それにオババまで騒ぎ過ぎだ」


「けどよ、アルク! このままじゃレクスが死んじまうんだぞ。あんたの息子でもあるだろ」


「判っている。だがゲオル。感情論だけで助けに行けば、その護る村人が別の原因で死んでしまうかもしれないんだぞ」


「そ、それは……」


「それに腐敗したグリンブルスティの件も片付いたわけじゃない。まずはミリアたちが視てきた情報をまとめ、作戦を練り直してレクスを救いに行く。もう夜になる。今日山中に入るのは危険だろ」


 その言葉でその場の全員が反論を示すことはなかった。

 結局、その後は討伐隊の面々を含め、村長さんや薬師様を交え、村長宅で再び作戦会議が開かれることになった。それ以外の人たちは自宅待機を命じられ、私も例に漏れず自宅へと戻るしかなかった。

 悔しかったし、お兄ちゃんが生きている可能性が低いことが判ってしまったため、それを考えるだけで目頭が熱くなる。家に帰ったらたぶん泣いてしまうだろう。

 そんな中、泣いているミリアお姉ちゃんがずっと「私が無理に連れて行ったせいだ……」と後悔の言葉を吐露していたのを私は聞き逃さなかった。



 ☆☆☆☆☆☆☆



 それから数刻のことである。私の目の前で腐敗した人間が剣を振り翳したのは。

 刀身が背後で燃ゆる炎の赤光を千々に散らす。時がゆっくり流れる感覚があった。

 逃げないと。叫ばないと。とにかく何でもいい。この状況を打破すべく、私自身が動かないといけない。

 私は足に力を入れ、思いっきり地面を蹴って横に飛んだ。


「――ぐぅっ」


 咄嗟の判断でまともに受け身も取れず、そのまま地面に転がる。

 その拍子に膝に痛みを感じた。恐らく今ので膝を擦り剥いたのだろう。そんな思考を残しつつも、すぐに襲い掛かってきたゾンビを見る。

 そこで私は動揺を隠せず、また硬直してしまう。


「な、なんで……お姉ちゃん」


 そこにいた人物の顔には見覚えがあった。

 先ほどはその異様な姿と立ち居振る舞いが先だったせいで顔を判別することが叶わなかったが、少し落ち着きを取り戻したせいか、そこに立っている人物を私は認識してしまった。

 間違いない。あれはアリアちゃんの家の隣に住むお姉ちゃんだ。腹の縫い傷が何よりの証拠である。

 大怪我で、意識も失っていたはずなのに、動けるわけがないはずなのに。だが彼女は確かに先ほどまで私がいた場所にその怪我をもろともせず剣を振り下ろしていた。剣が空を斬り、地面にその刀身が僅かであるが突き刺さる。

 その拍子にぶちぶちと糸が切れる音が聴こえ、同時に腹部から腸が零れ落ちた。


「うぶっ」


 本来目にすることのない薄ピンクの腸を目の前に、胃の中のものが喉に湧き上がる感覚を覚える。

 気持ち悪い。怖い。どうして生きているの。

 そんな疑問が思考を埋め尽くす。

 込み上げたものを飲み下し、私は取り敢えずお母さんとお父さんがいる村長宅に逃げるべきだと判断し、逃げようと立ち上がろうとする。だが腰が抜けたのか、多少もたついてしまう。

 彼女が首をもたげてこちらに視線を定めるのはそれとほぼ同時だった。


「ガァアアアアッ」 


 絶叫を上げたのを合図に私は四肢をバタつかせて走り出していた。

 いつ転んでもおかしくない。運動音痴のような無様な走りだったことだろう。

 それでも足を前へ突き出し、強く、とにかく命一杯地面を踏み抜いて、太ももを持ち上げた。


「――ぅぐっ」


 前も見ずに、下を向いて走っていたせいだろう。

 私の進行方向を塞ぐように、何かが前に聳え立っていることに気が付かなかった。私は走る勢いに任せてそれに突進してしまう。ぶち当たったのは壁ではないことはすぐに判った。壁にしては柔らかく、ぶつかったそれがよろけて倒れるような感覚があったからだ。

 私も前につんのめり、再び転ぶ。目の前には人の足らしきものがあった。どうやら押し倒す形で突進してしまったらしい。


「ご、ごめんなさ……い」


 私の謝罪の言葉は尻すぼみになるように小さくなっていった。

 視線を上にあげ、その人の顔を見てしまったからだ。


「ァァ……」


「ひっ!?」


 短い悲鳴を上げ、私はその人から――否、腐敗した人間から飛び退いた。

 そこにいたのは面識こそあまりないが、見知った顔であった。エルト村はそんなに人がいるわけではない。総じて人口は一〇〇人と少しと言ったところだろう。だから判別がついた。

 性別は男だ。今日の昼前の訓練でも訓練場で見かけた人だ。首筋が何かに引き千切られたかのように一部抉れており、血泡(けっぽう)と共に鮮血が流れ、切れた筋肉の筋がぷらぷらと首を振っている。素人目にも判るほど致命傷だ。にも関わらず、男はその出血を止めようとも、それどころか痛さで悲痛の声を上げることもしない。

 血で塗れて染め上がった右目がジロリとこちらを睨み上げられ、私は尻餅をついた状態で後ずさる。

 次いで周りを見て、私はただただ愕然とするしかなかった。


「な、なんで……何が起きてるの……」


 見れば目の前の男や背後で剣を振り回す女だけではない。

 燃えた民家の中から人影が揺らいでいるのが何人も見える。奥からは悲鳴のような声も聞こえてくる。

 そんな中、一人の女性が炎の中から飛び出してきた。


「だ、誰か! 誰か助けて! 誰か――きゃあぁぁぁぁぁぁぁあっ」


「アァァっ」


 女性は悲鳴を上げ、助けを求めて哀願しながら走る。

 その後ろから複数の人間たちが群がり、女性を追いかけている。やがて女性は一人の人間に足首を掴まれ、そのまま引きずられ、肉塊(にくかい)と表現してもいい人の群れの中に引きずり込まれていった。

 惨い音が様々に鳴った。骨があらぬ方向に折られる鈍い音、血が噴き出す飛沫音、皮膚が引き千切られるような異音、そして女性の喉奥から発せられる悲鳴が残響に変わる音。

 頭がおかしくなりそうだった。

 目の前で人がこうもあっさり死ぬ瞬間を目の当たりにして、私は気が付けば履いていた寝間着の下をアンモニア臭のする液体で濡らしていた。


 先ほど私が突進をかました男が立ち上がる。

 逃げようと必死にもがくが、今度は立ち上がることは叶わない。

 男が伸ばした手が私の肩を凄い力で掴んでくる。骨が軋む。地面にそのまま押し潰されてしまうのではないかと思うほど、男は私を馬塗りにして地面に張り付けた。。

 最早、逃げることはできない。


「た、助けて……」


 そんな私のか細い声はもう男には届いていないのだろう。

 大きく開いた口がゆっくりと躊躇なく眼前に迫ってくる。

 私はこの瞬間、死を覚悟した。いや、覚悟なんて大層な心の準備などできていなかったが、死ぬという未来だけは予想できた。

 首筋に歯が当たる。私はグッと目を瞑る。せめて痛くないことだけを切に願った。


「――へぇ、私以外にゾンビっているんだっ」


 その場にそぐわない声が聴こえた瞬間、鈍い音が鳴り、私の身体を押さえつけていた重みが突然消える。


「ガァッ」


「ふぅ、軽く蹴り飛ばした割に結構吹っ飛んだわね。ねぇ、平気? 漏らしてるみたいだけど」


「……へ?」


 目を開ける。

 目の前にいたはずの男はそこにはもういなかった。

 代わりに傍でしゃがみ込み、私の顔を覗き込む綺麗な女の人がそこにいた。ミリアお姉ちゃんやお兄ちゃんと歳が変わらなさそうな少女だ。

 金糸の髪を肩口辺りまで伸ばし、碧眼の瞳はまるで海中から空の景色を眺めているかのように澄んでいて宝石みたいだ。陶器のように白い肌、そこに花咲く赤い花のように薄くルージュにひかれた唇。だが一点だけ、その美しさを貶すように首には痛々しい縫い傷が一周している。

 麻布一枚を身体に巻いただけの軽装な少女はにこりと私に微笑みかけた。


「んー、びっくりし過ぎて声出せないか。ま、見た感じ、まだ噛まれてないみたいだから平気っぽそうだけど。って、私が言っても信憑性ないか。それにしても、これってパンデミックってやつなのかな」


「……ぱんで、みっく?」


 聴きなれない言葉を復唱する私に、少女は手を差し伸べてくる。

 訳が判らなかったが、私はこの見知らぬ少女に間一髪のところを助けられたらしい。

 少女の手を取り立ち上がった私は、やけに冷たく、ぬくもりを感じないその手に違和感を覚えるのだった。

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