第一章4 ~薬師の孫~

 事件は唐突に降って湧いてくるものである。

 それは夜も更けた晩のことだった。


「うぅ……誰か、たす……けて」


 エルト村には北と南に出入り口となる門がある。その木組みの二枚扉の門は商人のつてを使ってわざわざ王都から大工を雇って造らせただけあり、二メートル弱はあろうかという大きさで、重厚感がある。

 その北門の前で一人の女が地面に倒れ、苦悶の表情を浮かべながら身体を悶えさせている姿があった。


 身体の至る所に打撲や擦り傷が見られ、破けた服の隙間から血が滲んでいたり、皮膚が鬱血しているのが見える。赤黒く腫れ上がった腕なんかは折れているのかもしれない。まるで鈍器で全身を殴打されたような有り様だった。

 女の傍らには二人の男女がおり、男は悶える女の出血を止めようと腹部に布を宛てがって、懸命に応急処置をと施している。もう一人の女は門前で虚ろな目しながらしゃがみこみ、ただただ震えていた。


「誰か、すぐに薬師様を呼んできてくれ!」


「……あれはなに。なんでなんで……なんであんなのが……。あんなの反則じゃない……」


 助けを乞う声につられ、村人たちが集まってくる。同じく騒ぎを聴きつけてゲオルがやって来た。

 俺の姿を見つけると、いの一番に声を掛けてくる。


「おい、一体何があった」


「判らん……俺も今来たところなんだ。でも魔物に襲われたんだろう。あの門の前でしゃがみこんで頭を抱えてる人が猪の魔物に襲われたって呟いてたからな」


「猪の魔物……グリンブルスティか。だがこの辺じゃ珍しくもない魔物だろ。それに一個体はそんなに強くないはずだ。それがなんでこんな手負いになって……」


 グリンブルスティ――それはこの村周辺ではよく見かける猪に似た魔物の名前だ。

 目はあまり見えないのだが、豚のような鼻は嗅覚に優れ、獲物を狩る際は時速六十キロ程度のスピードで突進してくる。巨体は軽く百キロを越えるため、まともに突進をくらえばただの怪我では済まないだろう。

 加え、発達した下顎の牙が角のように突出しているため、仮に突進を躱したとしても、牙に服が引っかかり、そのまま引きずられて死んでしまうという事例もあり、大変危険な魔物である。

 だが突進はそのスピードのせいか、急な方今転換が利かないため、予め突進の方向を予測できれば対処はそんなに難しくはない魔物でもある。

 夜半の暗がりのせいで、突進の予測が間に合わなかったのだろうか。


 取り敢えず、俺は近くにいた村人から布を分けてもらい、門前でしゃがみこんでいる女に近づく。一応村長の息子であるため、傍観しているわけにもいかず、今自分ができることをしなければと思ったのだ。

 彼女は右腕から流血しており、俺はその震える手を取ってそこへ布を巻いてあげる。

 素人判断だが、流血量に比べて傷はそんなに深くはなさそうだった。それよりも、彼女の精神状態の方が気にかかる。


「大丈夫ですか? ――ぅぐっ」


「へ? うあっ!?」


 声を掛けると、女はそこで初めて俺の存在に気が付いたのか、驚愕の声を上げて突き飛ばしてくる。

 予想外の反応に反応しきれず、俺は地面に尻もちをついた。


 というか、腕に布を巻いた時点で俺の存在に気が付かなかったのかよ。

 影が薄いのかな。それはそれで何気にショックだ。


「コレッ、何をしとるんじゃ童(わっぱ)っ。患者を驚かすでないわ」


 コツンっと突然後頭部を何か固いもので殴られ、脳が揺さぶられる感覚を得る。慌てて振り返ると、そこには木製の杖を持った背の低い老婆が立っていた。

 白髪頭で頭頂部には髪をまとめて作ったお団子が乗っており、緑を基調としたゆったりめの服に身を包んでいる。

 老婆は骨張った細い人差し指をこちらに向け、糸目を限界まで見開きながら眉間に皺を寄せ、俺を睥睨してくる。


 山姥(やまんば)かと思った。

 いや、それよりも質の悪い、この村唯一の薬師――ミヨである。


「出やがったな、この怪物オババっ」


「黙らっしゃいっ。そんな適当な応急処置をしおって! 傷口を碌に消毒もせずに布を宛てがう阿呆がおるかっ」


 ポコンっと二度目の杖が俺の脳天に放たれる。

 さっきよりも衝撃が強く、俺はその場にしゃがみこんで頭頂部を押さえた。

 ミヨことオババはそんな俺を構いもせず、門前の女の所へ行く。


「よーしよし。もう大丈夫じゃ。怖くないよ。儂がついとるからのぉ」


 オババは先ほど俺に怒鳴った声とは明らかに声質をワントーン上げ、寄り添うようにまずは女の傍らにしゃがみこみ、頭を撫で始める。女は恐る恐るオババの方に視線を泳がせ、その人が誰か視認すると震えた声で「お、オババ様……」と呟き、涙を溢しながらえづき始めた。

 腐っても医者ということなのだろう。患者への寄り添い方が上手い。俺みたいに正面に立たず、横に陣取るのは突き飛ばされないようにするためだろう。


「童(わっぱ)、ここは儂が診ておく。ぼさっとしとらんで、向こうの重傷者を診てるミリアを手伝いに行きんさい」


「痛つつ……いや、待てよオババ。あっちが重傷者って判ってるなら、あっちを先に診るべきだろ。悪いがその人はそんなに深手じゃない」


「判っとるわ、そんなこと。じゃから、今回はミリアに任せとるんじゃ」


 言っている意味が理解できないが、これ以上反論するとまた殴られそうなので大人しく言うことを訊いておく。凄い形相で睨まれた。

 その場を離れ、重症患者の方へ向かう。

 村の人たちが重症の女を囲むように集まり、心配そうな声を漏らしたり、痛ましい姿に幻肢痛のような感覚を覚えたのか悲痛の表情を浮かべる者もいた。

 人集りを掻き分け、中心にいた重症患者とその重症患者が暴れないように身体を押さえつけるゲオル、そして大きな木箱を地面に置き、中身を広げているミリアを発見する。

 ミリアは普段着のオーバーオール姿ではなく、オババと同じく緑を基調としたゆったりとしたワンピースのようなものを着ている。頭には頭巾を被り、口元も布で覆っている。いわゆる医療用の服装だ。


「ミリア、何か手伝うことはないか」


「レクス。うん、ありがとう。じゃあ、ゲオルさんが腕を押えてるから、レクスは足を動かないように抑えてて。そのうちに私はこれを打っちゃうから」


 言って、木箱の中から透明な液体が入った小さな小瓶と、注射器を取り出す。

 恐らく麻酔薬だろう。

 ミリアは小瓶のコルクを外すと、注射器の針の部分で中の液体を吸い出し始める。そしてゲオルと俺に目配せをしてから、まず女に布を噛ませ、それから静かに首元に針を通した。


「ぐぅっ!? がぁあ……ぁぁ……」


 一瞬身体が痙攣し、歯を食い縛る女。布は舌を噛まないようにするためのものらしい。その後、数秒としないうちに女は目を一度見開いたあと、意識を失って動かなくなる。

 医療関係は全く判らないが、あんな液体を少し打つだけで眠らせてしまうとは。素直に凄いと思った。


「ふぅ……。レクス、私が言う番号のモノを木箱から取ってくれる。ゲオルさんはもし彼女が目覚めた場合に備えて、そのまま腕を押えてて」


「判った」


「おう、任せとけ」


 ミリアの指示に従い、俺は黙々と木箱から薬やハサミ、糸や針を取り出し、それをミリアに渡す。

 どうやら女は全身打撲以外に腹に噛みつかれたような裂傷も負っていたらしい。明らかに他の傷に比べ、損傷が激しいため、まずはそちらの治療に取り掛かる。

 ミリアによると内臓まで傷は達していないから消毒をして傷口を針で縫って塞ぐとのことだ。


 それから約一時間は経過しただろう。手を休めることなく、手術は続いた。

 邪魔な服を丁寧にハサミで切り落とし、物凄い集中力で正確かつ手早く傷口を消毒していく。彼女の命を取り溢さないように時折脈を測りながら、細心の注意を払って内部にある異物も除去していく。最後に一度火で炙った針と細い糸を使って、開いた腹を縫い合わせていった。


 最初見た時は内臓が零れ落ちても可笑しくないレベルで腹がぐちゃぐちゃになっていたのに、ミリアの手によって綺麗に整えられていった。それはまるで魔法のように皆の目には映ったに違いない。それくらい手際よく、鮮やかで、洗練された業であった。

 そして血に濡れた手袋を外し、ミリアが額の汗を拭って一息をついたのを皮切りに、固唾を呑んで見守っていた村人たちから歓声が上がる。


「はぁ……見てるこっちがひやひやした。おつかれ、ミリア」


「ふぅ……うん。手伝ってくれてありがとね、レクス。それにゲオルさんも。あとは一人でできるから」


 ミリアは淡々と告げると、消毒液をしみ込ませたガーゼを傷口に張り付け、包帯を巻き始める。打撲箇所には塗り薬を塗布し、骨折している箇所には添え木をして固定していく。

 事の顛末がすべて終わる頃、ようやく姿を見せたオババは横たわる女の近くまで来て、ミリアの施した治療を見ていく。


「及第点じゃな。丁寧ではあるが、時間が掛かり過ぎじゃ」


「……はい」


「おい、オババ。ミリアは一生懸命やっただろ。一言目がそれはさすがにないだろ」


 オババが神妙な表情のまま、あまりにもミリアに対して辛辣な言葉を口にしたため、俺は我慢できずに口を挟む。

 一瞬睨まれ、少し怯んだが、それでもオババを睨み返してやった。

 するとミリアが俺とオババの間に割って入り、俺を見ながら言う。


「いいの、レクス。お婆様は私のために言ってくれてるんだから。確かにちょっと時間が掛かりすぎてるし、もっと重症だったらたぶん助けられなかったのも事実だから」


「けど少しくらい労ってもバチは当たらないだろ」


 明らかに苦笑を浮かべるミリアが不憫で、もう一言くらいはオババに言ってやろうと口を紡ごうとする。だがそれより先にオババはミリアの頭に杖を優しくコツンと当てていた。


「医療の現場では如何に迅速に、丁寧に、適格に治療を施せるかが勝負なんじゃ、童(わっぱ)。時間があれば、もっと手早くやれば、あの時もっと丁寧に、そして判断を見誤らなければ……。そう思ったときには人は命を落としとるものなんじゃよ。……じゃが、ミリア。よくやったの」


 最後に朗らかに笑ったオババ。それを見てミリアも笑顔を取り戻していた。

 そこで頭に昇っていた血が引いていく感覚を覚える。

 そこへ相も変わらず空気を読まず、ゲオルが俺に片組してくる。


「なんやかんや言って、オババはミリアに甘いからな。今回だってオババが直接手を出さなかったのはミリアに経験を積ませるためだったんだろうな。しかし残念だったなぁ、レクス。これが本当にきつい性格のクソババアだったら、お前が庇うことでミリアも惚れてたかもな」


「うるせぇよ、余計なお世話だよおっちゃん。……ちっ、あのババア、絶対俺が口挟むって判ってて言いやがったな」


「当たり前じゃ。大事な孫をボンクラにそう易々と渡すわけにはいかんからのぉ。ふぉっふぉっふぉ」


 くえない婆さんである。

 わざとらしく老人っぽい笑い方までして、少し腹立たしかった。

 俺は拗ねて、事は済んだし、あとは村長の親父がこの事態を収拾してくれるだろうと心から願い、眠いこともあってさっさと家帰につこうとする。

 その矢先、踏み出した足で何かを蹴った感触を覚える。

 それは地面を何度かバウンドし、跳ねて行く。俺はそれを拾い上げてみた。


「なんだこれ? 鏡か?」


 掌サイズに収まるそれを手に取り、どうやらそれが上下に開閉するようだったので開いてみる。

 二枚貝のように開いたそれは上部に鏡が嵌め込まれており、下部には少し独特な匂いがする肌色よりも少し白っぽい粉が固められたものと、ガーゼが折り畳まれて入っていた。


「どうしたの、レクス?」


「ん、嗚呼。これが地面に落ちてたんだよ。何か判るか」


「あ、それ化粧品だよ。私が自作した。いわゆる、おしろいってやつ。この村の女の子たちに配ってるんだ。中々人気なんだよ。ほら、私のそばかすも今はないでしょ」


 ミリアが俺から受け取ったおしろいを説明しながら、自分の鼻上辺りを指さす。

 確かに朝、水浴びしたときにあったそばかすが今のミリアにはない。

 そこでふと前世記憶を思い出す。


 そう言えば、前世記憶の世界だと動画ですっぴんが不細工な女が化粧で超絶美人になるやつがあったな。

 つまりこのおしろいも、


「なるほど、これが王都でも流行ってる顔面改造器具か――ごふっ」


「言い方に気をつけなさい、レクス。殴るよ」


「もう殴ってんじゃねぇか。手が早いのはババアと一緒か」


 容赦ない顔面パンチをくらい、鼻先がひりひりする。俺は涙を浮かべながら、ミリアは間違いなくあの怪物オババの血を引いているのだなと痛感するのだった。

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