最終話 朝日を待っている

 帆船が大きく帆を広げる。追い風を受けていっぱいに膨らんだ。


 甲板に立つブラッドサッカーは、船体へ寄せては返す波の音を聞きながら、まだ暗い海へ語りかける。

「どうして最後までハリーのそばについてやらないんだって、あなたは怒りますかね」


 血の卸売から始めた事業を全て売却し、ヘンリーが自分に投資してくれた分相応の額を国庫へ寄付した。それから残った金で船を買い船乗りを雇い、旅に必要な物を揃えた。先のことは行きついた土地で考えれば良いと思っている。


 ハンフリーが囚われの身となり、更にはハリーの精神状態がしばしば不安定になるという不穏な噂もある。しかしブラッドサッカーがいなくても燃料は安定供給されるよう整えたし、本当にもうやることがないのだ。


「そういうことじゃないだろう。友として、相談役としてそばに居てやれという意味だ」

「ういっ⁉ おおおおおはよう。今朝もビックリしたぁ」


 気配を消して人の背後から現れるのは長年の染みついた癖だというが、絶対わざとだと思う。寒そうに両腕をさするヴァイオラを、肩にかけた毛織ストールの中に招き入れた。


「まあ、それならシザーリオがいるじゃん」

「あいつはくそ真面目だから、あれが相談相手ではハリー陛下も息が詰まってしまうだろう。アンタくらいの遊び人がちょうどいいんだ」

「遊び人って⁉ やだなぁ、俺は真面目な商売人なのに」


 ヴァイオラと共に旅に出る。そう告げたブラッドサッカーはシザーリオの事も誘っていたが、『オレは最後までランカスター家と共にありたい』と断られた。


『ヘンリー様への恩を忘れられないわけ? 彼は最後まで尽くす事より君たち姉弟きょうだいの幸せを願ってる気がするけど』

『オレのことはいい。姉はずっと、女の身にはきつい生き方をしてきたから、楽をさせてやってほしい』


『君も十分きつい生き方してきたと思うけど。ランカスター愛だねぇ』

『今でもまだジョン様を愛しているんだ。オレの生涯でただ一人だけ。だから最後までランカスター家のそばに残ろうと思う』

『『⁉⁉』』

 強烈な一撃。


『そこまで異端だとは知らなかったぞ……』

 からのヴァイオラ自虐ツッコミ。カミングアウトしてスッキリしたらしいシザーリオが笑顔で見送ってくれたのが救いだ。


「そりゃあ、確かにもう俺は”ブラッドサッカー”じゃあなくなったけどさぁ」

「悪い事や遊び方は全部お前から教わったと、ブールゴーニュ公が言ってたじゃないか」


 旅の途中、二人はフィリップの元にも訪れていた。

『君のことだから行った先でも何か新しい事を始めるんだろうね。珍しいものが手に入ったら僕にも贈ってよ。それからお幸せにね』と涙ぐみながら見送ってくれた。


「フィリップ坊ちゃんとは小さい頃から家族ぐるみで仲良かったしさ」

「それなのにいいのか。過去を置き去りにして新しい世界へ行って」


「ああ、もちろん。この世界にはキリストを神としない場所がある。イスラムの国もそうだし、他にもまだまだあるんだ。そこでは君はもう異端じゃない。過去なんか置き去りにしていけばいいんだ」


「アタシとアンタじゃ全然違う。アンタのは置き去りにしていい過去じゃないだろう」

「ちゃんとここにあるよ。家族と過ごした子供時代のことも、ヘンリー様と二人三脚で夢を追ったことも、全部俺の中にあるから置き去りになんかしてない。君とは共に未来へ向かいたいんだ」

 柔らかい手を取り、ブラッドサッカーは自分の胸に当てた。


「……いくつになったと思ってるんだ。恥ずかしくないのか?」

「恥ずかしいもんか。いくつになっても夢はあっていいじゃんかぁ」

 それから勢いで頬っぺたにキスすると、振りほどいた手の平で顔面を押し返される。あらら、昔はこうじゃなかったのになぁ。


「本当にあるのか? アタシが日なたを歩けるような場所が」

「あるよ。それにさぁ、これはヘンリー様との約束なんだ」

「ヘンリー様だと?」


 臥していたヘンリーの見舞いに訪れた時、まさかこれが最後になるとは思わず、たわいもない雑談でのことだった。

「ハンフリー様とジャクリーヌ妃の恋愛結婚をどうして許したのか聞いたんだ。そしたら、一人の女の為に全てを捨てて人生賭けるのは誰でもできることじゃねぇよ、って」


『お前ぇはどうだ?』

 

 その時聞かれたのだ。

「けれどあの場では返事できなくて、そのまま亡くなってな」

 追い風に髪をなぶられる。


「ヘンリー様はそんな生き方をしてみたかったんだろうなぁ」

「叶わぬ夢だったからこそ、ハンフリー様にはご自身の道を進んでほしいと願われたのか。ヘンリー様らしいな」


「きっとそうだねぇ。でオレはさ、ヘンリー様みたいに愛する妻を置いて先に死んだりしないって、勝手に約束してるの」

「さぞかしお心残りだったろうな」


「そうだよねぇ、君、ヘンリー様が死んでずーっと会いに来てくれなかったもんねぇ。やっぱり好きだったんでしょ? ヘンリーの女だったんでしょ?」

「だからヘンリー様はそんなゲスい方じゃないと言っただろう! あれはアンタを破滅させたくなかったからで……。それにアタシが好きだったのはトマス様で!」


「トマス⁉ へー! そっちだったんだぁ、一番人気を狙うなんて意っ外」

「置き去りにしてくればよかったな」

 小声でつぶやいたヴァイオラを引き寄せてくっつく。


「ま、過去の事はさておいてさぁ。これからは毎朝一緒に起きてめしを食べる。最期は暖かいベッドの中で君に看取られて死ぬ。君が先に死ぬなら俺が看取る。俺はそうやって生きたいんだけど、どう?」

 ヴァイオラはしばらく固まっていたが、諦めたように体の力を抜いた。


「ここまで来てしまったんだから引き返すわけにいかないだろう。それとも断ったらアタシを海に突き落とすか?」

「悔しいけどそこまで人でなしにはなれないなぁ」

「だろうな」


 艶のある目線。ずるいよなぁ。視線一つでいつも胸がざわっとさせられて、彼女がいなくなるのではという不安に駆られる。本当にいなくなる時は黙って消えるから、実際はそんな事ないのだが。

 きっと一生抜け出せないだろう。ヴァイオラに好意を抱くのは樹海に踏み込むようなものだと、いつだったかシザーリオに忠告されたっけ。


「ヘンリー様が叶えられなかった夢なら、アタシたちでやるしかないな」

「ああ」


 どうです、こんな人生羨ましいでしょ?


 暗闇を照らすスピーダーバイクの細いライトのように、暗い海を船はまっすぐに進んでいく。

 その先には徐々に白んで明るくなっていく空。そして雲の向こうに朝日を感じる。


 幾度となく見てきた夜明け。けれど必ず毎回、今この時も鼓動は高鳴り心地良い高揚感に満たされる。夜の匂いが変わって、表裏一体の生死がせめぎ合う戦場のような一瞬。その時、彼らは確かに生きていたのだ。


「いつも朝日を待っているよ」


 やがて海と空が赤色に染まる。雲が水面に影を落とし、コントラストが浮き上がると朝日が金色に輝く。

 赤地に金獅子の旗、イングランド王家の色だ。


『行ってこいよ』

 まるでヘンリーがそう言ってくれているようで、ブラッドサッカーは小さく頷いた。

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