第13話 あの空は変わらぬまま

 どんなに無罪を主張したところで最初から固められている罪状が覆るはずもなく、ハンフリーが移されたのはロンドンから北西に82マイル(約130㎞)、サフォーク領のベリー・セント・エドムンズ修道院だった。外に出られる時間は決められているうえ、許可された範囲は隣の墓地までだ。


 ツタと苔に覆われた修道院の外壁を見上げると、不意にドンと突かれたような胸の痛みに襲われる。急速に締め上げられ、尋常でない痛みに呼吸ができず、その場でうずくまった。


「どうされましたか⁉」

 随伴している小姓が慌てた様子で助けを呼びに行こうとするのを手で制す。少しずつ痛みが和らいだところで声をかけた。

「……平気だ。なんでもない」


 この撃たれたような心臓の痛み。修道院に来てから始まり、三度目だ。次はもう終わりかもしれない。


 常にそう覚悟しているせいか、ある事無い事なんでもアリの罪状でっち上げには辟易したものの、さほどの憤りも失意も感じなかった。審理はこれからだが無論前向きな期待はしていないし、かといって絶望もない。

 むしろ死を感じさせる墓地を歩いていると、あの世にはきっとたくさんの人がいて、そのうち一人くらいは自分を待っていてくれるのではないかと希望さえ覚える。


「ずっと気になっていたのです。お顔色がすぐれませんし、お医者様を呼ぶよう修道長にかけ合います」

「医者にはどうにもできまい。オレのために手を煩わせる必要はない」


 灰色の空をカァカァと太い声でカラスが横切る。さながら、もう終わりだと言わんばかりのタイミングだ。眉根にシワを寄せ、小姓が悲痛な面持ちになる。

「公爵さま……」


 赤ん坊の頃に親から捨てられた少年と聞いたが、よく仕えてくれていて、ハンフリーのわずかな心の癒しになっていた。

「そんな顔をするな。さて、今日は何の本を読むかな。書庫まで供をしてもらおうか」

 小姓の肩をつかんで、大丈夫だと言い聞かせる。


 だが三日後、医者が現れた。余計な事をと思いながら招き入れると、頭を下げて入ってきたのはまだ若い男に鞄持ちの少年の組み合わせで、それ自体はおかしなものではない。だが、何か違和感を感じた。部屋には心配そうな小姓の他に修道長の息がかかった、つまりサフォーク配下の見張りがいる。


 医者は鞄から漏斗じょうごのような形の器具を取り出し、片方の口を上半身を脱いだハンフリーの胸に当て、反対側に耳を当てる。


「こちらを」

 医者が小声で囁き、小さく折りたたんだ紙を渡して来た。


 胸の音を聞く体勢は変えず、見張りから見えないよう自分の体を盾にしている。ハンフリーは何も言わずに受け取ると片手で紙を開き、首を動かさないよう目線だけで文字を読み取る。


 二日後、夜七時、援軍。そして”R”。


 そうか、違和感はこれだったか。目の前の男は医者ではなく、リチャードの配下だ。修道長が呼んだ本物の医者とすり替わり潜入してきたのだろう。

 一通り眼球や舌の色を確かめる演技をしながら、男が言葉ではなく目で伝えてきたのは、フランスにいるリチャードの身を切るような思いだ。


 ケイト様の時も、エレノア様の時も救えなかった。だから今度こそ———


「胸の音は悪くありません。薬湯を処方しましょう」

 少年に命じて鞄からヨモギのような乾燥薬草とすり鉢を取り出す。


「せっかくだが、断る」

 ハンフリーの言葉に手が止まった。


「しかし」

「もうよいのだ。この痛みはには治せない。兄ヘンリーの早すぎる死以来、いや、我が父が王座についた時からランカスターの心臓に巣くう病なのだ」

「なにを仰いますか……」


「オレはもう戦えないのだよ」

 見張りに見えないよう、ハンフリーは手紙を医者の手の中に戻した。


「手間をかけさせた。受け取ってくれ。もうこれしか金目のものが無くてな」

 薬指にはめていた指輪を渡す。大きなルビーは昔、ヘンリーが自分だけにこっそりくれたものだ。石の中にわずかな傷がありそれが薔薇の花のように見える。赤薔薇はランカスター家の徽章だ。


「……確かに拝受しました」

 見張りがいる手前、それ以上あからさまに説得するわけにいかない医者は深く頭を下げて、修道院を出て行った。


 午後はだるさを感じて散歩には出ず、横になって過ごしていると、不意に見慣れた灰色の窓ではなく抜けるような青空が広がる。


 雲一つない高い空。目に痛いほどの清々しい青さに、これは夢なのだろうと悟る。足元はぼやけていて地面はあるのか無いのか分からないが、なぜか不安はなかった。


「だから結婚には反対だっつったのに。バカすぎなんだよあいつ。女の胸しか見てねぇんだもん」

 その声にはっとする。

「うっかり者で考えが浅いくせに頑固で思い込み強くてウザみの極み」

 それ、オレのことか?


 こき下ろされてムカつくのに懐かしさで震える。金絹の直毛に冷たいアイスグレーの瞳。この兄の弟だと思うといつも劣等感の塊になるしかなかったけれど、ジョンがいなくなってから何か物足りない。


「でもロンドン市民からは人気で、国内はずっと安定させてたじゃん。よくやったよ」

 トマスだ。死んでから何年経った? 出てくるのが遅いよ、もう顔も忘れかけてたじゃんか。


「どこが⁉ ボーフォートと対決しやがってさ、仲裁のためにおれは何度もフランスと往復させられたんだぞ? おれの寿命が縮まったのはあいつのせいだ」

「それも含めてジョン様の使命だったのでしょうね」


 モーとは死に目にすら会えなかった。病で死んだと聞いたけど、安らかだったのか? それとも死ぬときは苦しいものなのか?


「くそ……、おればっかり貧乏クジ引かされてよ。なぁヘンリー⁉」

 形のきれいな額に血管を浮き上げたジョンが迫る。


「いやそう来られると何も言い返せねぇけどよ。死期こればっかりは自分じゃ決めらんねぇしな、トマス?」

「俺は自分でミスって死んだから言い訳はしないよ」

「う、モーは……」

「私はヘンリー様よりは長生きしましたから、責務は果たしたつもりです。あなたの早死には罪が重いですよほんと」

「ううぅ……ソレハ」


 ああ、ヘンリーだ。くせ毛の長髪を一束にして、琥珀色の隻眼せきがん。元気な頃の顔のままで笑って……いや、泣かされている。


 ヘンリー! トマス! ジョン! モー!


 叫びたいのに声が出ない。駆け出したいのに体が自分のものじゃない。ぼやけた地面に座って談笑している四人と自分の間には透明な壁があるように、彼らはハンフリーの存在には全く気付いていない。


 ごめん、オレやっぱりできなかったよ。ジョンの後を継いで、フランスの領土を維持しなきゃならなかったのに。

 届かないと分かってもなお、伝えずにはいられない。


 弟たちですら言えない事をずけずけ言ってくるモーに、ヘンリーは口を尖らせる。

「夢は叶わなかったけどよ、オレたち四人にモーがいればできると思ったんだ。お前ぇらもそうだろ?」


 最初に頷いたのはトマスだ。ちょっと笑ってモーに目配せして、モーが「そうですね」と答えると、最後にジョンがやれやれと大きな溜息をつく。

「自分が思ってた以上の事が成せたよ。それは嬉しかった。誤算はあったけどな」

 それを聞いたヘンリーがニカっと白い歯を見せて、ジョンも笑った。


「誤算でフィリップに殺されたんだもんな」

「うるせぇなトマス! あいつ、こっち来たら絶対ぶちのめしてやる」

「あれはジョン様がフィリップ様のお気持ちに応えなかったからでしょう。必然です」


「お気持ちって何だよ⁉」

「えっ、そうだったのか。全然知らんかった。妹のアンヌと結婚したと見せかけて実は兄とだったのか。さすが策士だなお前ぇ」

「ジョン様は昔から男性におモテでしたからね」

「愛だな、愛」

「もー言い返す気にもならないんだけど」


 頭を抱えたジョンと目が合った気がして、それから通信画面が切れたように、ぷつりと視界が黒くなった。


 瞼に光を感じて目を開ける。あるのは見慣れた部屋の壁で、一人きりの寝台だった。いつの間にかカーテンが下ろされていて、隙間から青白い光が漏れている。


「もっと聞いていたかったな」

 思い出してハンフリーは笑った。表面だけでなく体の底から揺すられて笑ったのは久しぶりだ。


 一体どのくらい昼寝したのか。夕方か、それとももう夜になっていて、この光は月明りだろうか。

 寝台を下りてカーテンを開くと、少し霧が出ている。夜明け前だ。どうやら夜通し眠ってしまったらしい。


「……叶わなかったけど、できなかったけど、それでも一緒にヘンリーの夢を追えてオレは嬉しかったよ」

 兄弟の中でいつも自分一人だけ同じようにできなくてお荷物だった。けれど、ヘンリーは自ら作り出したうねりの渦中へ連れて行ってくれた。


 そしてヘンリーを含めた誰もが葛藤を抱えながら、なお前進をやめなかった。それが戦を始めた者の責務だからだ。

「オレにもほんの少しでいいからその強さを分けて」


 一人で抱えるものの桁が違いすぎるヘンリー。

 最前線で何度も心と命を捨て戦ったトマス。

 涼しい顔して、裏では血を吐くような思いで腕までも犠牲したジョン。

 正当な王位後継者と簒奪さんだつ者という立場を超えて尽くし、ずっと支えてきたモー。

 己の運命と責務から誰一人逃げようとしなかった。


「だからオレも、まだ少しだけ———」

 朝日が昇り、ハンフリーのグレーの瞳が強く輝く。窓を開けると、ひんやりした風の妖精に手を引かれるようだ。


 ハリーとサフォークに戦の趨勢すうせいを変える程の力はない。近い将来イングランドは負け、ジョンが死守しようとしたノルマンディの領有権すら失うだろう。それを受け入れるのが残されたオレの責務だ。

 蝕まれた心臓では最後まで見届けられないかもしれない。けれども、終わらせなければ。


 父王ボリングブルックが王座を夢見たことからすべてが始まった。ランカスターの朝日を輝く太陽にした兄ヘンリーの夢を、どういう形で息子ハリーへ継承するのか。それをサフォークに任せてはならない。ランカスター家の一人として最後まで戦わねばならない。


 ガウンを羽織ると、ハンフリーは書机に向かい手紙を二通したためる。一通は国王ハリー宛、もう一通はノルマンディのリチャード宛だ。


 書き終えると窓の外はすっかり朝になっていて、冬空に日差しが暖かい。

 かつて兄たちと共に海を渡りフランスへ上陸したあの頃へ、もしかするとこの空は時空を超えつながっているのかもしれない。ふとそんなことを思った。

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