第12話 愛しいあなた

 反乱が多発している激動のノルマンディ行きと引き換えに、リチャードが作ってくれたエレノアとの面会。本来なら罪人たるエレノアに会うことは二度と叶わないはずだった。


 あてがわれた修道院の一室は最低限の衛生と温度は保たれているが、うら寒い寂しさは拭えない。華やかさを好み、いつも家の中を美しく飾りつけていたエレノアが、こんな所に閉じ込められていると思うだけで胸が苦しくなる。


 質素で小さな個室には生活に最低限の物しかなく、エレノアの存在は場違いにぽつんと花が咲いているようだ。

「あなた…!」

 サファイアを思わせる大きな青い目から涙をこぼしながら、胸に飛び込んでくる。


「ごめんなさい。ごめんなさい。わたくしのせいで迷惑をおかけして。あなたの名誉を傷つけてしまって!」

「いいんだ、エレノア。そんなことはもう」


「そんなことではありませんわ! ああ…、わたくしが愚かでした。利用されていたのに気づかず、あの人たちをお友だちだと思い込んで」

「彼らを手玉に取りサフォークへ対抗するつもりだったんだろう?」


「ええ。けれどすっかり見透かされ、逆にあなたを貶めることになるなんて。浅はかでしたわ。サフォークには敵わないというあなたの言うことを聞くべきでしたわ」

「過ぎたことはもういいから。エレノア、ここを脱出しよう」

「え…? どういうことですの、判決が覆ったと?」


「残念だけどそうじゃない。けど、たとえイングランド中を敵に回してもオレは君と共に暮らしたいんだ。船でブリストルに入って、そこからグロスターへ向かって逃げよう」


「そんな、逃げ続けるのなんて無茶ですわ」

「大丈夫だ」

「いいえ…、逃亡者の暮らしなんて耐えられません。あなたもわたくしも貴族の生き方を忘れられるわけがありませんわ」


「それでも共に生きる方法があるはずだ。フィリップに頼み込んでブールゴーニュに亡命してもいい。だから———」


 エレノアは首を横に振る。

「わたくしは生き恥を晒しましたもの。ここから出たところで、もう以前のようには外を歩けませんわ」


 収監前、エレノアは罪人の服を着せられロンドン市内を練り歩いた。この国で一番高貴な公爵夫人でありながら、見せ物として市民からヤジや罵声を浴びせられ続けたのは、指を一本一本切り落とされるのにも等しい。それを思うとハンフリーも強くは言えなくなる。


「怖いのは分かる。心が打ち砕かれた今、行動する勇気は持てないかもしれない。けれどチャンスは今しかないんだ。頼む、エレノア」

「いいえ、あなたが今すべきは、わたくしとの婚姻無効を申し立てることですわ」

「なんだって?」


「このままではあなたも同罪をなすりつけられます。ですから急いで! 事は全てわたくしが一人で行ったのが事実ですもの」


 ハンフリーの胸から離した顔は、よく知る妻の顔ではなかった。あざとかわいい所作にいつも最先端の服やメイクを自分のものにし、生まれながらの高貴な身分でないからこそ他の女性には負けたくないと常に上を見ていたエレノア。


 だが今目の前にいるのは傷つき、人生のおりを一気飲みしたような顔だ。白いがどこかくすんだ肌がのっぺりとして、結んだ口元には孤独と疲れが滲んでいて。髪も巻かずに下ろして一つに束ねただけだ。しかし澄んでいる。そして今まで見てきたどんな顔よりも愛おしさをハンフリーは感じた。


「あなたはこんなところに来ている場合ではありませんわ」

「エレノア…」


 オレがバカだった。どうして彼女が”お友だち”と夜な夜な遊んでいたのを良しとしたのか。どうしてプレラーティにもっと警戒しなかったのか。若い妻が退屈せずに過ごせるなら自分が我慢しようなどどうして思ってしまったのか。一人で読書している方が気が楽だとどうして逃げてしまったのか。


 きちんと向き合えればこんなことにはならなかった。妻をこんな目に遭わせずに済んだのではないか。

 ———しても意味のない後悔だ。


「だからオレは婚姻無効の申し立てなんかしないよ。それじゃジャクリーヌの時と同じだ」


 エレノアは前妻ジャクリーヌの侍女だった。だからジャクリーヌが継承するはずの領土を巡りフィリップと対立していたことも、夫婦でフランドルへ攻め込みフィリップに敗れた結果、和解するための条件で婚姻無効を申し立てたことも知っているし、それに激怒したジャクリーヌが夜中に襲来してきた現場にもいた。むしろ最も近くで見ていた当事者と言える。


「彼女には今でも可哀想なことをしたと思っている。そんなことは繰り返したくない」

「けれど! それではわたくしはグロスター夫人のまま罪人として過ごすことになります。あなたの名前を永遠に汚すのですよ」


「言ったろ、オレは政治のために結婚してそれが幸せだと思い込むような人生は送りたくないって。オレは君を愛したから結婚した。今でも変わらず愛している。だからこの手を自ら放すなんて決してしない」


「わたくしは罪人なのです! 愛だの幸せだの言っている場合ではありませんわ! しっかりしてくださいまし、これは名誉の話なのです。捨て去ることだと、プレラーティが言っていたではないですか。今がその時ですわ」


「名誉か。ふふっ、さすが君の方がオレなんかよりよっぽど雄々しいな」

 そう笑うと、エレノアはぷうっと頬を膨らませた。


「…あなたは野心も保身も無さすぎるんですわ。わたくしは王妃になりたくてあなたを誘惑したのに」

「うん、知ってた。それでも好きだったんだぞ」

「この国一番の公爵で王冠にだって手が届くはずなのに、頂点を目指すわけでもなくのほほんとなさって」


「オレにヘンリーの代わりは無理だよ。ジョンならともかくさ」

「そう仰りながらジョン様には散々対抗なさったんじゃありませんこと?」

「生きてた頃はな。今は悪かったってちょっとは思ってるよ。君にも」


「わたくしに?」

「君の理想の夫になれなくてさ」

 目を丸くするエレノア。


「だって夫婦は互いに協力して理想を叶えていくものだろ」

 するとその双眸から再び涙が溢れる。


「わたくしだって最低の妻ですわ。自分の理想ばかりを押し付け、あなたの話を聞こうともせず。挙句の果てにあなたの足を引っぱって」

「エレノア、オレはそうは思わない。君は罪人なんかじゃなくてオレの妻だ。いつまでも、ずっと」


「わたくしはハリー陛下とマーガレット王妃が死んでくれればいいと願いました。王妃に負けたくなかったんですもの。しょうもない女を掴まされたとお思いでしょう? 優しい言葉なんて結構ですわ」


「それでも君と結婚したことに後悔なんてしてない」

 髪と顔を撫でる。こんな風に触れたのはいつ以来だろうか。


 ごめんなさい。そう言ってエレノアは泣き続けた。裁判の時も市中で晒し者にされた時も、エレノアは一粒も涙をこぼさなかった。負けず嫌いの彼女がずっと一人で耐えていたのがハンフリーには分かっていた。


 子供のように声を上げて泣くエレノアの背中を撫でて抱きしめていると、見張りがそろそろ時間だと告げに来る。

 泣きやむのを待って、耳元に小声で告げる。


「もう一度言うよ。一緒にここを抜け出そう」

「いいえ。これ以上あなたにご苦労をかけるわけにはまいりません」

「どんな形でもオレは君と生きたいんだよ」


「わたくしの願いは、あなたの日常が安らかであることですわ。あなたに不名誉な逃亡などさせるわけにいきません。わたくしが言い出したら聞かないことくらいご存じでしょう?」

 その通りだ。したくはないが、ハンフリーは渋々頷くしかなかった。


「希望を失わずにお互い生きていれば、また会えることもあるでしょう。それにわたくし、今が一番幸せかもしれませんわ」

「幸せか」


 微笑み合い、キスした。熱を感じるまま、寄せては返す波のように繰り返す。

 またオレは何もできなかった。けれどこの熱だけは確かで、最後にエレノアは笑ってくれた。


◇◇


 エレノアとの婚姻無効を申し立てないハンフリーに、サフォーク派の中では同罪が叫ばれ始めた。リチャードはフランスに行ってしまったし、政界で力を持たぬハンフリーにはその後の出世や重用という見返りを期待できないので、力になってくれる者はほとんどいない。


 そしてある朝、起床すると訪いを告げられる。国王ハリーへの謀反容疑で拘束し、裁判と家宅捜索が行われるという。


「わかった、抵抗はしない。身支度をさせてくれ」

 普段通りに顔を洗い髭を剃り、くりくりの金髪を整える。


 鏡の前で従者に命じて両肩に羽織った装束は、ランカスター家の赤だった。

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