第8話 弟

 遺言により、ジョンの遺体は祖国でもアンヌが眠るパリでもなく、ルーアン大聖堂に埋葬された。死してなおノルマンディを守り、統治の礎となる。そういう強い意志だ。


「死んでも一切ブレないとか、ほんとやな奴だよな」

「見た目も頭も良すぎて俺にはちょっと遠い人でしたが、昔スピーダーの整備を一緒にしてくれたことがありました。緊張したけど嬉しかったな」


「つまりオレは親近感あるけどバカってことか?」

「そこがハンフリー様の良いところですよ。俺と本気でかくれんぼしてくれたのはハンフリー様だけですから」


 褒められているのかよく分からない。それでもリチャードは、意気消沈しているハンフリーに毎日こうして会いに来てくれていた。


 だが現実は待ってくれない。


 ジョンがいないフランスを誰が守るのか。自分がやるしかないとハンフリーは摂政の座を求めたが、ボーフォート派が占める議会はこれを拒否した。


「またか! やる事なす事いちいち邪魔してきやがって!」

 リチャードはほぞを嚙んだが、そんなことをしている間にパリが陥落してしまった。ヘンリーが占領して以来の親イングランドでラ・イールとジャンヌの進軍をも阻んできた都が、しかも無血開城だ。


「ちくしょう! 指をくわえて見ているしかできないなんて…!」

「これで良かったんじゃないか。無用な犠牲は出なかったわけだし」

 ハンフリーの言葉に、くわっと目を見開き金髪を逆立てて大迫力のリチャードが詰め寄る。


「近いな…」

「なんてことを仰いますかっ! ヘンリー陛下がどれほど苦労して手に入れたとお思いですか!」

「だからオレはヘンリーじゃないし。フランスを手に入れるなんて、ヘンリーが生きてなきゃ無理だろ。お前だって本当は分かってるはずだぞ」


 ヘンリーと同じ夢を見たけれど、それはオレの夢ではなかった。ジョンですら成せなかったのだから、遅かれ早かれパリを失うのは必然だ。

 しかしリチャードは引き下がらない。


「俺は認めません! ジョン様を亡くされた心痛はお察ししますが…いえ、俺なんかが想像できるより遥かにお辛いと思いますが、だからって護国卿の錫杖しゃくじょうまで返還する必要は無いでしょう!?」


「ハリーが親政を始めたんだ。オレが護国卿のままじゃやりづらいだろうし、ボーフォート派が黙ってない。けど争ってる場合じゃないだろう? ジョンはもういないんだからさ」


 ジョンには『内乱起こしたらブチ殺すからな』と脅されていたが、もうできなくなった。それに自分が本当に張り合いたかったのはボーフォートではなく、その向こうにいるジョンだったのだといなくなってよく分かる。柿の種の顔したオヤジにやられっぱなしでたまるかと内乱ギリギリまで対立していたのに、今は自ら降りることに何の抵抗も感じないのだ。


「ハンフリー様…」

 口をM字にしてリチャードは涙ぐんだ。


 しかしリチャードは分かってくれても、妻はそうはいかない。


「信じられませんわっ! 護国卿をお辞めになるなんてっ!? 親政はまだ早すぎるでしょう! それを止めるのがあなたのお役目なのではありませんこと!?」

「国王が宣言してるんだからオレに止」


「ハリー陛下にできると本気でお思いですかっ? もし陛下が結婚したらその方が先に王妃になってしまうではありませんか! わたくしそんなの耐えられませんわ!」

「それはハリーが決めることじゃな」


「王妃になりたいというわたくしのお願いは聞いてくださらないの?」

「だからオレはそういうつもりはな」

「しっかりなさってくださいな! ハリー陛下は未熟ですから、きっと失策を犯します。その時こそチャンスですわ。わたくし何でも致しますから」


「何でもって…?」

 やっとハンフリーが口を挟む間を開けて、華奢な腰から上は全部乳房というスタイルのエレノアが上目遣いに微笑む。


「あなた。手を伸ばして、あの光輝く黄金を掴むのです。届かないのなら私が継ぎ足して差し上げますから」

「またそういうことを…、よすんだ。君がサフォークに勝てるわけがな」


「あらっ、サフォークとて男性ですわ。それに側近ともお友だちになりましたし」

「お友だちってどうい」


「みなさん親切に色々と教えてくれますわ。結婚して何年も経つのにサフォークと奥方は未だにベッドを共にしていないですとか、けれど奥方はもう三度目の結婚ですから床上手で、しかも彼女が書いたエロ小説が密かに人気なのですわよ。さすが詩人チョーサーの孫だけありますわ」

「全部下ネタじゃんか」 


「わたくしもほんの少し読ませてもらいましたけど…、キャッ、これ以上は言えませんわぁっ」

 嬉しそうなエレノア。この顔はしっかり読んでるな。


「それに、まだ議会に提出されていないことも教えてくれましたわ。ロンドン塔に幽閉しているシャルル・ドルレアンをフランスに返還することになるとか」

「何だと?」

 ハンフリーの声が大きくなる。


 シャルル・ドルレアンは、かつてアジャンクールの戦いでトマスが捕らえたアルマニャック派の総大将だ。当時フランスは王党派のアルマニャック派と、それに対抗するブールゴーニュ派が激しい政権争いを繰り広げていた。アルマニャック派がイングランドに敗北したことで、ブールゴーニュ無怖公が一気に政権を掌握したのだ。


 囚われて以来、シャルル・ドルレアンはロンドンで暮らしている。軟禁状態ではあるものの一貴族として尊厳と生活水準は保たれ、英語をマスターし趣味の詩作に没頭し続けているという。政治や駆け引きや蹴落とし合いと無縁な毎日は、それはそれで幸せな生活だと思う。


「それもサフォークの側近からの情報か?」

「そうですわ。つい昨夜聞いたばかりですもの」


 昨晩遅く、妻は酔って帰ってきた。どこへ行っていたのか聞いても答えなかったのは、そういうことか。

 お友だちとの関係を問い正したいのはやまやまだが、状況が変わった。


「あなた、どこへ?」

「サフォークのところ」

 まだ何か言っている妻をよそに、ハンフリーは部屋を後にする。


 ———シャルル・ドルレアンをフランスに戻してはならない。

 これはヘンリーの遺言なのだ。

「お前がそれを知らぬわけがないよな。一体どういうつもりか、場合によっては実力を行使させてもらわなきゃならんぞ」


 敢えて一人でサフォークの邸宅へ乗り込んだ。噂の奥方が出迎えたが、顔も体つきもどこか寂しげな人だった。


「もちろん存じております。しかしヘンリー陛下が亡くなられた時と今では情況が違うのですよ」

 政敵にアポなしで突撃されたにもかかわらず、応接間でソファに足を組んだサフォークは、余裕気で大御所の風格だった。


「どんなに不利な状況でも、ヘンリーは一度言ったことは決して覆さなかった」

「ではヘンリー陛下がこの状況を予見できたと? ブールゴーニュが我らを裏切りフランスと和睦するのを予測していたと仰るのですか。ジョン様がこんなに早くお亡くなりになると…」


 そこまで言ってサフォークは唇を噛む。ジョンの存在の大きさは誰もが認めるところで、自分もサフォークも含めたイングランド中どこを探しても代わりはいない。


「この要求はフランス王ではなく、ブールゴーニュ公からなのです。今の我々に、ブールゴーニュに太刀打ちできる力がありますか?」


 同盟を解消したとはいえ、フィリップは戦に積極的に介入しようとせず、もっぱらその関心はネーデルラントに向いている。しかしこの要求を退ければイングランド軍を攻撃する理由を与えてしまうことになり、そうなればフランス戦線は一巻の終わりだ。


「オレがフィリップと直接話す。オレの話ならあいつも聞こうとしてくれるだろう」

「ハンフリー様。いくら足掻いたところで議会の決定は覆せませんよ。明日提出しますから、すぐ決議されます」

「それでもやれることはやるよ」


「無理ですよ。もう護国卿の権限もないのですから」

「ああそうだな、きっと無駄なことをしてるんだろうな。そもそもヘンリーがフランスを手に入れようと海を渡ったのも全部無意味だったのかもな。一体何だったんだろうな。お前はどう思う?」

 サフォークは黙った。


 ヘンリーの決断で数えきれないくらいの人が人生を変えられた。戦争をしなければ死なずに済んだ人も大勢いたはずだ。結局フランスを手に入れられなかった今、全て無駄だったのではないかと、とてつもない虚無感に襲われる時がある。


「…人生を懸ける瞬間が何度もあった。男なら誰でも身震いするほど憧れる生き方だ。それが今もまだ続いています」

 サフォークの青い目が潤んでいる。雨上がりの澄んだ空のようだと思った。


「そしてヘンリー陛下もトマス様もジョン様も、常に自分の人生と命以上のものを懸けていた! だからハンフリー様といえどそんな言葉は決して許さない!」

 大御所ぶっても、権謀術数の渦の中にあっても、雲の間から差す陽光のようなものがこの男にはまだ残っているのだ。


「そっか。オレはさ、ハルとトマスとジョンの弟っていうのがずっと嫌だったんだ。小さい時からオレだけ何をするにも時間かかってな、良いところはみんな兄貴たちが持っていっちゃってオレは残りカスだろ。余計なことばっかりして、いつもジョンからバカだのチョンだの言われてさ」

 

 何をしても兄たちには敵わなかったし、最後までジョンには怒られっぱなしだった。


「ジョンやお前には無駄な努力に見えるかもしれないけどさ、オレは弟だし、先に死んだ兄貴たちにはできない足掻きをやってみなきゃな」


 サフォークは懐かしいものを見たように、ふっと口元を緩ませた。

「私にも二つ上の兄がいましたから分かります。よく泣かされましたし」


「そか、アジャンクールで戦死したんだったな」

「戦争が無ければ死なずに済んだ一人でしょうね。しかし兄の死は無意味ではない。残された私がそう思うのですから、間違いありません」


「お前の口からそれが聞けて良かったよ」

 席を立つハンフリーに、サフォークも立ち上がり姿勢を正す。


「あなたが兄君を裏切らないことも、王座を狙う野心はないことも分かっています。けれど本人にその気はなくても周りはそうはいかない事が往々にしてありますから。お気をつけください、ハンフリー様」

 そして頭を下げ見送った。


 過去や人の死に意味を考えること自体が無意味なのかもしれない。ヘンリーのような大きな男ならきっと考えたりしないだろうと思う。


 それでも考えながら自宅へ戻り、一人になると通信機器のボタンを押す。

 黒い画面がゆらゆらして、やがて黒衣の男が現れた。

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