第7話 薔薇の眠り
アラスの会談より一か月後、今度はブールゴーニュ公フィリップの急な訪いに、ノルマンディのルーアン城がにわかに騒がしくなった。ごくごく私的な訪問で人数も最小限とはいえ、急ピッチの歓待準備に使用人らが慌ただしく動き回っている。
やって来た理由はただ一つ、ジョンの体調が悪化したと聞いて、居ても立ってもいられなくなったからだ。
「なのに意外と元気そうじゃん」
「官僚たちが大げさに騒ぎやがってな」
嘘を言った。
生気がある顔じゃない。僕の前だから気を張ってるんでしょ、本当は起きているのもつらいんじゃないの。
それを裏付けるように、ゆったりした寝間着姿のままで私室に迎え入れられた。いいや違う、健常時の体のサイズに合わせて仕立てた衣がゆるくなったのだ。青白いほど削げた胸に、見てはいけないものを見た気がした。
「わざわざディジョンから来たのか?」
「近いからね。あ、乳首」
「嘘つけ、近くないし。言っておくがおれから引き出せるものはもう無いぞ」
「そんなんじゃなくて友情だよ。利害損得無しに見舞いに来てくれる人が誰もいないなんて悲しすぎるでしょ? 君友達いなさそうだもん」
黙ってしまったジョン。図星だったようだ。
見ていると、起きている間は寝台でずっと官僚からの報告を受け、提出させた財務書類を確認し、住民反乱への対処を指示している。短時間の眠りの間ですら頭の中では考え続けているようだ。
「で、おまえいつまでいるんだ?」
かれこれもう三日目の夜になっていた。
「うん……、離れがたいけど明日帰ろうかな」
これきりになる。そう分かっているから踏ん切りがつかなかったのだが、決めねばならない。
「今夜は付き合ってよ」
ジョンが小さく頷く。窓の外、低い空に剃刀のような薄い三日月が昇る。
自分の従者に命じて準備を整えさせると持参したブールゴーニュワインを開けて、部屋は二人きりにした。
「水で割ろうか?」
「頼む」
「これは去年のなんだけどなかなか良い出来でね、僕は好きだな」
「それなら間違いないだろうな」
ボトルからゆっくりと注ぐ。トクトクという音、ボトルに空気が入るわずかな振動が、ジョンの弱った心臓のようだ。
準備させた水差しから水を足して、杯を手渡す。
「早く元気になるように」
乾杯し見つめていると、ジョンは一気に半分ほどを飲んだようだ。
「コクがあって滑らかだな。美味いよ」
そう言って笑ってくれた。透明で少年のような笑顔。
もう二人の間に政治はないし、何のしこりもないのだ。最初からこうでいられればよかった。
残りの半分を飲み干すのをまるで瞳に焼き付けるかのように、フィリップは片時も目を離さない。
「そういえば、君にまだお礼を言えてなかったな。妹のアンヌを幸せにしてくれて感謝してるよ」
「礼を言うべきはおれの方だ。アンヌにも、おまえにも。ありがとう」
「僕だって……」
唇がわなないて、それ以上言えない。
「フィリップ、おまえはなに———」
ジョンの言葉が止まる。それから急に体を折り、喉元を掻きむしる。その様子をフィリップは異世界のことのように見つめていた。
なに? ねえ今なんて言おうとしたの?
「がぁっはっ……! ぐぅっ!」
水差しを取りそのまま口に流し込む。だが余計に苦しくなるだけだ。もがいて空を掴もうとした拍子に、水差しやワイン瓶が倒れて流れ出す。
「おまぇ……っ!」
その一瞬、冷たい炎に燃えたジョンのアイスグレーの瞳がフィリップに突き刺さる。
この目にずっとずっと恋焦がれていた。
立ち上がると、扉の外へ向かおうとするジョンを背後から抱きしめる。そしてポケットから取り出した薄い紙に、倒れた水差しから流れ滴る水をたっぷりと吸わせ、ジョンの口と鼻に押し当てると手の平でしっかりと覆った。
「シー、静かに」
ジョンが抵抗してくる。肘から下を失った右腕でフィリップの束縛を割ろうとする。
さすが、上手いね。でもさせない。これだけ体が痩せて弱ってくれてなきゃ、とてもじゃないけど君をこうするなんてできないよ。
両腕に力をこめて抱きすくめた。外側から足も絡め、動きを封じる。
一番近くで感じる息遣いと体の温もり。それだけではなく、筋肉と関節の動き一つ一つがフィリップへ伝わってくる。全身でジョンを感じた。
互いに全力で、密着した体に汗が流れて混ざり合う。思わず熱い吐息が漏れた。
「ああ、誰にも渡したくない。奪わせるもんか」
高まるとますます力が入り全身で求め、次第に呼吸が荒くなる。
ジョンが抵抗しようとすればするほどフィリップの体はきつく絡みつき、体の奥まで入り込むようだった。
なんて愛おしいんだろう。僕が欲しいのは君だけだ。目の前の首筋にかぶりつかずにはいられない。
そして腕の中の抵抗がだんだん弱くなり、やがて動かなくなる。
「はぁ……はぁ……はあっ……、ジョン? 何を言おうとしたの?」
君のことだから、死んだふりをして不意打ちするとか十分あり得るよね?
警戒しながら鼻と口を覆っていた紙を外し、脈が無いことを手の平で触れて直に確かめる。
「んふっ。んふふふふふふふふふふふふふふふふっ……」
頬に頬をすり寄せ、目を閉じてしばし汗ばんだ肌の熱と感触を味わう。
ずっと見ているだけだった。叶わなかったけれど、もう幻なんかじゃない。今腕の中に、僕だけのものに。
ゆっくりと床に横たえ、金糸の髪を撫でる。味わうように顔の輪郭を指でなぞって口元の赤い泡を拭った。それから水差しの中に残った水と濡れた紙をちぎってバルコニーから下の庭へ捨てた。
乱れた着衣と髪を直してから、声を張り上げる。
「誰か! 誰か来てくれ! ベッドフォード公が急に苦しみだして……! 医者を呼んでくれ!」
死後の処置が施される間、昂った体と気持ちを冷やそうと一人庭を歩いた。三日月は既に闇に沈んでいる。
「君はずっと独りだった。アンヌは一時の安らぎを与えたかもしれないけど、仮初めだ。君は僕のことも、誰のことも受け入れようとしなかったよね」
たった一人でノルマンディを統治し、ヘンリーが獲得した領土を広げ、フランスと戦い続けてきた。祖国で弟とボーフォートが対立していることも、後継ぎができないことも、何もかもを一人で抱えて暗い海を進んできたじゃないか。僕は知ってる。
「そういう君が好きだった。けどもういいんじゃない。ヘンリーのために生きなくても」
ふと見ると、季節外れの薔薇が咲いている。窓枠に沿ってツルが伸びて生い茂り、小ぶりな赤い花が幾重にも重なりここだけ満開だ。
赤薔薇はランカスター家の紋章。そしてヘンリーもトマスもジョンも、薔薇が似合う男だった。
「君もそう思うよね?」
頬に触れそうな距離で短剣が突きつけられている。その刃先は震えていた。
「よくも、よくもジョン様をッ!!」
中性的な声の主は抑えきれぬ激情が噴出し、鬼の表情をしている。
「君は前に来たランカスターの密偵の女じゃないね? よく似ているけど別人だ。密偵が感情剥き出しになっちゃ良くないんじゃない? それともこのまま僕を殺す? そしたらシャルルの一人勝ちになって、それこそジョンの本意じゃないと思うけどな」
「うるさい! それ以上語るな」
すると双眸からぶわっと涙が溢れた。その目に、僕と同じなのだと分かった。
「ジョンは、自分があと数日もつかどうかだと悟っていた。僕の前で天使みたいに笑ったんだよ。夢を見てるんじゃないかと思った」
「それでも! それでも生きていてほしかった……っ、一日でも、一秒でも長く」
国のためではなく、オレのために———。そんな言葉は許されないよね。僕も一緒だ。
「だから君はこれからもランカスター家と共にいて。僕にはできないから」
ジョンを失ったイングランドは、暗い海に取り残された船だ。行き先を照らす光はもう無く、いつ終わるともしれぬ荒波に船体は打ち続けられて。
———せめて彼らが無事に帰れるように。
ややあって短剣を下ろし、首と腕をだらりとしたまま去ろうとする密偵を呼び止める。
「ねぇ、この枝ごと切ってくれないかな。ジョンの為に咲いたって思わない?」
指差したのは、赤い五つの花が集まって咲いた枝の一振りだ。密偵は黙って切ると、フィリップにトゲが触れないよう、自分はトゲが多い下の方を持って渡した。
「君、名前は? 密偵だから名乗っちゃいけない?」
「……シザーリオだ」
「シザーリオ。覚えておくよ、ありがとう」
花を手に、遺体が安置された寝室へと戻る。
寒色系の服を好んでいたジョンだが、寝台で手を組んで眠る装束はランカスター家の赤だった。本人が遺言と共にあつらえていたそうだ。
「赤はヘンリーの色だから、きっと意図して避けてたんだよね? けど似合うね。やっぱ血は争えないな」
耳下まで伸びたストレートの金糸との鮮やかなコントラスト。滑らかな額や真っすぐに伸びた鼻梁も、痩せてしまったけれど顎の形も全てがきれいで、見つめているとため息が出てしまう。
しかしこの体はもうジョンではない。肉体などに、もはや何の意味もない。
「君は僕のことを受け入れてくれなかったけど、もういいんだ。君の最期を手に入れたから。永遠に僕だけのものだ」
病に、ましてやシャルルなどに君の最期は渡さない。イングランドのものにもしたくない。重たい鎖に繋がれていた君を解き放ったのはこの僕だ。
「フランスに夜明けをもたらす。ヘンリーとの約束だよ。君が描く形とは違うけど、約束は僕が果たすから」
いつか新たな時代に、今度は何のしがらみもない世界で、再び巡り会えるだろうか。
「おやすみ」
眠る胸に赤薔薇を手向け、冷たい唇にゆっくりと口づけた。
ブールゴーニュとフランスの間で『アラスの和約』が結ばれ正式に和睦したのは、ジョンの死からわずか一週間後のことである。
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