第4話 黒衣は好きと叫びたい 2

 前触れなくいきなり現れたイングランド軍総帥に、聖ヴァースト修道院はてんやわんやになった。本人は空いている小部屋で構わないと言うが、周りがそれを許すわけにはいかない。一番良い部屋はフィリップが使っているので、次に良い部屋を速攻で空けさせた。


 フィリップへの挨拶を終えるなりジョンは部屋にこもってしまい、ボーフォートらと長く話し合っていたようだ。夕食に招待したが辞退され、代わりに現れたのは柿の種みたいな顔したオッサンという不毛な時間になった。


 ジョンの部屋の前で、護衛はフィリップの姿を認めると槍を下ろす。訪いを告げるとすんなり入れてくれた。

「よう。夕食は悪かったな」

「何も食べてないんじゃないの?」

「明日は食べるようにする」


 夏の夜、開け放たれたバルコニーから雨上がりの涼しい風が入ってきてカーテンを大きく膨らます。寝椅子に脚を伸ばしていたジョンが、髪をかき上げながら気だるげに体を起こす。

 その表情と仕草やばっ、鼻血出そう。色っぽすぎでしょ。


 部屋に従者の姿はなく二人きりだ。薄紫色のガウン姿がきれいだなと挙動を目で追っていると、酒瓶を開けようとしている。しかし片腕ではなかなか開かない。

 そんな姿見せられたら放っとけないじゃん。

「僕がやるよ」

 酒瓶に手をかけると、素直にジョンは放した。

「片腕ないと不自由じゃないの? 身の回りのことなんか従者にやらせればいいのに」

「人がずっと傍にいるのも疲れてな」


「新しい奥方は? 今日は来てないみたいだけど。そもそも再婚の話なんか聞いてないし」

 予想外に会えた喜びで忘れかけていたが、この件を放置するわけにはいかない。

「なんでいちいちお前に言わなきゃならない。ちゃんと招待状送ったのに来なかったのはお前の方だろう」

「行くわけないじゃんか。見ず知らずの女と勝手に縁談なんかすすめてさ。聞いてたら絶対反対したのに。そういや君の弟も前妻の侍女と結婚したってね? 君が許すと思えないし勝手に挙式したんじゃないの? 兄弟揃ってお目出たいことだねまったく」

「………」


 やった、ジョンを黙らせた。けれど残ったのは爽快感どころか、真逆の苦さだけだった。


「妻は来ない」

「え?」

「世話を焼いてくれるようなタイプじゃないんだ。こちらから話しかけなければ会話もないし」

「ふぅん、玉の輿こしのくせに夫の助けになろうともしないのか。まるで———」

「「アンヌとは正反対だな」」

 二人の声が重なる。


 アンヌならどこにでもついて来て、文字通り片腕になって寄り添うだろう。苦労もあったろうが、アンヌの結婚生活は幸せなものだった。しょっちゅう寄越よこしてきた手紙はいつも幸せオーラが満開だった。そのことはジョンに礼を述べなければならないが、葬儀で会話をする時間はほとんどなかったから未だに言えていない。


 ワインを注ぎ、乾杯した。今日のジョンは珍しくペースが早く、飲みながらフィリップのじっと顔を見つめてくる。


 なに、なに、なんで見てるの? 

 変な汗が出て体がざわざわするのを抑えようと、杯の中身を一気に口に入れた。


「おまえ、やっぱり似てるな、アンヌに」

 目尻を下げ、アンヌにしか向けないような顔をした。こんな笑顔見たことない。鼓動が跳ね上がって、口に含んだワインを吹き出しそうになるのと鼻から出そうになるのを堪えて飲み込むと胸が痛い。

「ゲエホッ! ゲフッ! ぼっ! 僕が似てるんじゃなくてアンヌが僕に似てるんだよ」

「そうだったな」


 言いながらまだ見つめてくる。なんだよもう、酔うにはまだ早すぎだよね? 一生このままでいたいんだけど。

 顔色が良くない分、ワインに濡れた唇がやたら艶めかしく光って見える。男のくせに形がきれいすぎるんだよ。


「どうしてアンヌがおれより先に死ななきゃならなかったのかな。一体どこに行ってしまったんだろうな。毎朝目覚めて、なんで隣に居ないんだろうって未だに思うんだ」

 その唇が少し震えて、アイスグレーの瞳が潤んだ。

 もしかして、これを言いたかったからわざわざ来たのだろうか。アンヌのことを気兼ねなく話せる相手は、僕しかいないのかもしれない。

 そう思ったらもう、恨み言をぶつけてやろうとしていたことなど全て吹き飛んだ。


 全力で抱きしめたい。この胸で思う存分泣かせてあげたい。今は二人きりだ。誰も見ていやしない。でもそんなことしたら外交問題に発展して会議自体が頓挫とんざするかもしれない。けれどそれでもいい。いや僕はローマ教皇庁から委任されているだから会議を遂行する義務がある。義務だって? 義務が何だ。ジョンの悲しみを癒す方が大切じゃないか。僕だけに話してくれてるんだぞ。いいやジョンならこれも全部演出で、僕を丸め込んで会議をひっくり返そうとしてもおかしくない。望む結果を得るためなら人の感情を利用するくらい朝飯前の男だ。


 フィリップの同盟破棄にジョンが気付いていないはずがない。

 ジギスムントに近づいたからといって、神聖ローマ帝国が本気でフランスに乗り込んでくるとは考えにくい。つまり同盟が無くなればイングランドの進む道は限りなく細く険しいものになるのだ。


 再びバルコニーの窓から入ってきた風が二人の間を流れる。


「ねえ、もういいんじゃないの。ヘンリーの死後、君はずっと一人でやってきたじゃないか。腕まで失って、体だってもうボロボロだ。もうやめた方がいいって。じゃなきゃ本当に死ん」

「フン、余計なお世話だ。オルレアンで最初に裏切ったのはお前の方だろ」

 ジョンは最後まで言わせない。

「そこ突かれると反論できないけどさぁ。そろそろ潮時だって君に気づいてほしかったからなんだよ」


 あの後、ジャンヌダルクはジョンにより破壊された。しかし『フランスを救え』という救世主の声は人々の心から消えずに今なお広がり続け、頻発する反乱にイングランド軍は手を焼いている。

 もうプログラムに人が動かされているのではない。国王のためでも領主のためでもなく”フランス”のために戦う。ジャンヌが人の心に入り込み成した結果だ。

 もっとも、君は「それは支援ではなく支配だ」って言うだろうけどね。


 ジョンは深いため息をついて、それから話題を変えてきた。

「そういやお前はもうすぐ子供が生まれるんだよな。おめでとう」

「ありがと。僕の妻はね、本気でヘンリーが好きだったんだよ」

「へえ」

 妻イザベルはポルトガル王女で、母親はヘンリー四世の妹だから、ジョンたち四兄弟とは従兄妹いとこにあたる。


「ずっとヘンリーと結婚したかったんだって。でもランカスター家の選択はフランスだったから悔しくて、もう誰とも結婚しないって三十路過ぎまで意地になってさ。さすが従妹で、どこかヘンリーを彷彿とさせるような威厳があるんだよねぇ」

「尻に敷かれてるのか」

「まあそんなとこ」

「その方が夫婦円満だな」


 でも君の方が好きだけどね。

 って言ってしまいたい。


「フィリップ」

 アイスグレーの瞳が冷たい光を帯びる。その目で見つめられると、腰がゾクっとして目が離せなくなって、何でも頷いてしまいそうになる。

 これは……、期待しちゃうよ?


「おれはこの戦いから降りるわけにいかない。ヘンリーとの約束なんだ」

 がっくり。なんだそっちか。いや僕らの間にはそっちの話しか無いっけ。


「イングランドの要求は受け入れられないよ」

「それでもだ」

「なんで分かってくれないの⁉ 君の身が持たないよ。体壊してるんでしょ? これ以上無理しないでよ、もうやめてよ。いつまで続けるつもりなんだよ……」


 初めて出会ったのはヘンリーの戴冠式だった。

 外見の体は衰えても芯にあるものは、あの頃と何一つ変わっていない。アイスグレーの瞳の奥にある熱も、現実を直視する冷静な眼差しも、燃やし続ける魂も。


「死ぬまでだ」

 ジョンの言葉は揺るがない。


 ヘンリーとの約束———。僕も同じだ。

 これで最後なのだ。同盟相手として、友として家族として語り合えるのは最後だと、ジョンは告げに来たのだ。


 僕のために意思を曲げてくれはしない。ほんのわずか期待せずにはいられなかったけど。君を変えてみたかった。僕の色と混ざり合い染めてみたかったんだ。

 でも君が愛しているのは、ヘンリーだけなんだね。


 なんだよこの体の中に空いた大きな黒い穴に落ちて行く感じ。この世界から消えてしまいたい。いやこんな世界が無くなってしまえばいい。イングランドもフランスも全部無くなればいいんだ。もう明日なんか永遠にいらない。このままずっと離れたくない。

 こんな気持ち初めてだ。なんで涙が出そうになるんだよ。


「……飲もうよ」

 それしか言えなかった。

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