第2話 王冠
兄の顔色がすこぶる悪い。通信画面越しでもはっきり分かるほどで、髪を短くしてからより小顔に見える輪郭が、更に一回り細くなっている。
「眠れてないんでしょ。無理しないで療養した方がいいって」
「働いてた方が気が紛れるんだよ」
「そうかもしれないけどさ…」
兄ジョンの奥方、ブールゴーニュ公女アンヌが亡くなっていた。
パリではペストが流行している。アンヌは療養院で患者を看護していて、自らも感染し亡くなったのだという。
「結婚式でしか会ったことがなかったけど、優しくて気遣いが上手で、他人のために何かせずにはいられない人なんだろうなって思った。本当に残念だよ」
そういう女性だから、機械に理想を求めるようなジョンとも夫婦としてうまくやってこられたのだ。
「議会の方はどうだ。補正予算は通りそうか?」
ジョンは話題を変えてきたが、今度は顔色が曇るのはハンフリーの方だった。
オルレアンの敗戦以降、大規模な野戦は無いにしろフランスとの戦いは負けが続いている。ブールゴーニュと共同でパリを防衛し、続くコンピエーニュではラ・イールを捕らえジャンヌを破壊したとはいえ、勝利と言えるものではなかった。自然、母国の議会も弱気に傾く。
「これ以上の増税は困難だし、それに、言いにくいけど今はボーフォートの反戦派が支持されてるから…」
「だからもう撤退しろと、お前が言うのかおれに? 主戦派を結束させるのがお前の役目だろうが」
「わかってるしやってるよ! けど勝ってくれなきゃやっぱり厳しいよ…」
「勝つためには資金も人も必要だ。今のままじゃノルマンディの防衛すらままならない」
自分は人の上に立つのも動かすのも操作するのも向いていない。その場になると言葉が出てこないのだ。だから使える言葉を欲してロンドンに図書館を作ってみたりしたが、結局自分の言葉にはならなかった。
いやほど分かる、政治力がない。駆け引きなんて考えただけでうっとうしい。けれどオレがやらなきゃならない。ただでさえジョンはフランスで孤立無援状態のうえ、頼みの綱ブールゴーニュとの架け橋だった妻を失ったのだ。
オレが負けたら本当に一人きりになってしまう。
「国内の方は何とかするから。あと、あの、報告があってさ」
「何だ」
「オレ、結婚したんだ」
一瞬ジョンの顔がポカンとするが、すぐに眉が吊り上がり額に青筋が立つ。
「結婚だと…? 何言ってんだテメエぇ!」
「今ここに妻がいるんだよ、怒らないで」
「ざっっけんなよ! 何の相談も無しに勝手なことしやがって!」
「だって相談したら反対するだろ!」
「当前だ! ったく使えねぇ奴だなどこまでも」
「……悪かったな使えなくて」
言葉が過ぎたと思ったのか、苦い顔をしてジョンも黙る。
しばらく沈黙が続くが「それで、今そこに居るんだろ」と兄の方から言ってくれた。
「紹介するよ。妻のエレノアだ。ジャクリーヌの侍女だったんだ」
「…あの時のか」
前妻のジャクリーヌと共に、かつてハンフリーは同盟相手ブールゴーニュ公フィリップの所領フランドル地方へ侵攻した。同盟そのものを揺るがしかねない行為だが、ジャクリーヌとの婚姻無効申立てを条件にフィリップは和解を提示してくれたのだ。その後囚われのジャクリーヌが脱出し密かにハンフリーの元へ訪れた際、裸でベッドの中にいたのがエレノアだった。
ジャクリーヌに鉄拳制裁された後、ローマ教皇より婚姻無効が認められたので晴れて結婚に至ったのだ。
「悪いが祝福はできない。弟も君も立場を分かってほしい。軍議の時間だ、切るぞ」
一方的に通信が切られて画面が黒くなると二人で顔を見合わせて、はーっと長い息を吐く。
「わざわざ面と向かって言わなくてもいいのにな。だから嫌われるんだよ」
「とても怒っておられましたね。わたしくのせいですわ」
「いいんだよ別に。オレはああいう風になりたくないんだから」
潤んだ瞳の若い妻を抱き寄せる。
「ああいう風にとおっしゃいますと?」
「政治のために好きでもない相手と結婚して、それが幸せだと思い込む人生なんてオレはいやだ。王族だからそれが当たり前なんて考えは古いんだよ」
当然、ジョンの頭には晴れて独身の身となった弟の婚姻外交があったはずだ。どころか、もう自身の次の相手を選定しているだろう。
「けれど、ジョン様のあの
それはハンフリーも思うところではあるが、口にはしない。
「同盟のために見せかけただけだよ。フィリップの機嫌取りさ、見え見えの」
「そうでしょうか?」
いつもエレノアはこんな風に鋭いところを突いてくるのだ。だから好きになった。
彼女がブールゴーニュとの
「それが無くなった今、フィリップがイングランドに協力して戦を続けるメリットが何かあるだろうか」
「ブールゴーニュ公はフランスでの覇道に興味はありませんものね」
「覇道か」
フランスにおける領土回復という大義とともに、覇道を成すがため侵攻した長兄ヘンリーには、男に人生を賭けたいと思わせる理想と野望があった。なおかつそれを貫き通す胆力は誰にも真似できないものがあった。フィリップですらそれに憧れた一人に過ぎない。
しかし今のイングランドには、長兄ヘンリーの求心力も次兄トマスの席巻力も無い。あるのは兄たちが得た領土をその息子ハリーに継承させるという、ジョンの一心だけ。それではフィリップが自身と公国の命運を賭けられないし、これ以上の課税に祖国の民は納得できない。
「…退き時なのかもしれないな」
ジョンには決して言えない。
しかし広げた風呂敷を畳むことこそが、末弟の自分に課せられた使命なのかもしれないとハンフリーは思う。
「そこまでお分かりなら実践すべきですわ。より強権を持って」
「なにを」
「だってあなたは亡きヘンリー陛下の弟君で、この国一番の貴族でしょう? ハリー陛下はまだ子供。イングランドのためには、成人するまで護国卿のあなたが王の代行を務めるべきだと思いますの」
「なっ…、何を言い出すんだよいきなり」
くるんとしたまつ毛をしばたかせ、エレノアはちょっと首を傾げた。
「いきなりと仰いますけど、逆にそうお考えにならない方が不思議ですわ。あなたにその意思さえあれば王になれるのに」
「オレはヘンリーの遺言に従い、ハリーが成人するまで護国卿として———」
「わたくし、王妃になりたいですわ。この国には今、王妃が不在でしょう? やっぱり国にとって必要な存在だと思いますの」
あっけらかんと言う妻に、言葉が出なかった。
「ジョン様を助けるにも、あなたが王となり強権を発動させれば良いことではありませんか。お邪魔虫のボーフォートを黙らせられますわ。ジョン様だってシャルルが戴冠するまでは事実上のフランス王のような存在でしたもの。あなたもそうなるべきですわ。ねえ、お願いっ」
宝石をねだるのと同じ顔でエレノアは王冠を所望してきた。
「あなたは王になるお方。ランカスターの末弟としてヘンリー陛下の遺志を継ぐべきお方ですわ」
ふわふわの両手で頬をはさまれる。ぱっちりした目もふっくらした口元も、ハンフリーを捕えて離さない。
「ちょ、今はさ…」
「いいでしょ?」
密着した体に、スイカのような乳房が圧をもって押してきて、その重さにハンフリーは屈した。
なんでだよ、なんでオレはまたこうなっちゃうかな。
なし崩しに誘われるまま、腰紐をほどいて妻のスカートをまくり上げる。口づけられた味は自己嫌悪にも似た
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