ハンフリーの章 夢の終わり

第1話 霧雨の心

 ロンドンは霧雨だった。

 会合を終え、ウェストミンスター地区のオフィス兼自宅アパートメントに帰宅したブラッドサッカーは、柄物の上着についた細かい雨粒を手で払い玄関のカギを開ける。長い髪はすっかり湿っていた。


 政治の中心のこの地区には電気が通っている。発電の燃料は、戦場に染み込んだ血肉が数百年かけて変化した埋蔵血だ。採掘から精製まで行う巨大ブラッドプラントを所有し、国内シェアナンバーワンを誇るのがブラッドサッカーの会社だった。


 燭台ではなく明かりをつけて家に入ると、すぐにバスルームで服を脱ぐ。この高級アパートメントは、ボイラーで沸かした湯をいつでも使うことができるのだ。


 湯をかぶって髪を拭きながらリビングに戻り、一息ついたところでいきなり玄関がバタン! と音をたてる。

 え、これ明らかに誰か入ってきた音だよね。トットットッと足音が近づいてきて…


「かくまってくれ! 追手は三人」

「う?ぇふ?」


 ブラッドサッカーは全裸だった。隠す間もなくズカズカ入ってきたのはシザーリオだ。すると玄関ドアが荒っぽくダンダンッ! とノックされる。

 グリーンのワンピース姿はもう奥のバスルームへと消えていた。


 ドアを叩く音は止まず、開けろコラァとか、ここにいるのは分かってんだぞとかガラの悪い怒声で、とても諦めて帰ってくれそうにはない。


「俺は一般市民なんだよ? 追手とか日常生活に登場する言葉じゃないし」

 ブラッドサッカーの心の声に、バスルームからの返答はない。


 仕方なくバスローブを体に巻いてドアを開けると、鼻息荒く突っ込もうとしてきた先頭の男は急停止した。しかし赤く血糊が光る刃物を突きだし威嚇してくる。


「そこをどけ」

「ここは俺の家なんだけど。あんた何? 人が風呂上りに気持ちよく一杯やろうと思ってるとこに、そんな物騒なモノ持ってさ」


「女を探してんだよ。かくまうとロクな目にあわねえぜ」

「女って、どの女のことかな? ちゃんと特定してから来てほしいな」

 わざとらしく湿った長い髪をかき上げてみせる。


「それとも仕事の依頼? なら王室を通してくれると話が早いんだけど。俺はブラッドエナジーって会社のCEOやっててね、名前くらい聞いたことあるよな?」

「チッ……」

 その名を聞くなり、男たちは踵を返していった。


 ビッグネームに恐れをなすあたり、刺客や傭兵といったプロの類ではないだろう。いなくなったのを見届けると、今度はしっかりとカギをかける。


「はーーーっ、あのザントライユみたいのじゃなくて良かったぁ。おぉい、もう帰ったからしばらくすればだいじょ…っ!」

 安堵しながらバスルームに戻るが、今度はグリーンのワンピースが伏して倒れこんでいて、再び全身が総毛立つ。


「どうした!?」

 さっきは気づかなかったが、抱き起こすとワンピースの側腹から血が染みている。しかしブラッドサッカーの体を震わせたのは、それだけではなかった。


 まさか、彼女が姿を見せるはずがない。しかしこの体は、思い込んでいた双子の弟の方ではない。


「………ヴァイオラ」


「ちょっと…ミスってな」

「今医者を呼ぶから!」

 転げるように施錠したばかりの玄関を飛び出し、隣室のドアを叩く。


「ベン! 医者だ! すぐに医者を呼んでくれ!」

 ブラッドサッカーはこのフロア全体を所有している。秘書のベンがまだオフィスに残っているはずだった。


 以前、フランスのブラッドプラントを傭兵ザントライユに襲撃された。あの時は双子の姉弟のおかげで、ブラッドサッカーもベンも九死に一生を得たのだ。事情を理解するとベンはすぐに霧雨の中を走って出て行った。


 医者が来るまでの間できることをしようとバスルームに戻り、タオルを患部に押し当て止血する。圧迫すると、ヴァイオラは苦しそうに呻いた。

「しっかりしろよ。もうすぐ医者が来るし大丈夫だからな」


 だがタオルはすぐ真っ赤に染まるし、一分間が千倍にも感じる。

 なんで早く来ないんだよ。今すぐ飛んで来いよ。こんなに苦しんでるんだぞ。

 

 やっと医者が来て処置を終えた時には、ブラッドサッカーは立ち上がるのすら難儀した。しかもこれは止血の為の応急処置で、何日かしたらうみを出すために再び切開する必要があるのだと言う。


 ブラッドサッカーは自分の寝台でヴァイオラを休ませると、隣に腰かけた。すぐ出て行こうとしたのを必死に止め、動いては命にかかわると医者もベンも巻き込んで説得し、なんとか言うことを聞かせたのだ。


 静かに霧雨が降る部屋に二人きりになった。


 かつてこの寝室で、バスルームで、キッチンで、激しく求め合った。思い出せば今でも胸と体が熱くなるほどだ。しかしある時から彼女はぷつりと現れなくなった。

 ロンドン郊外にあるツタに覆われた粗末な家にも何度も訪れたが、一度も会えずじまいのまま、それから何年経ったか分からないほどに時が流れていた。


「君は変わらないな。ずっときれいなままだ」

 出会った頃とほとんど変わらない容姿は、妖精としか思えない。尖った美しさも童女のような表情もそのままだ。


「アンタもな」

「そう? 一応ケアしてるつもりだけど、最近腹まわりの肉付きがねぇ」

「アタシも体は思うように動いてくれなくなってな、この通りやられてしまった」


「あの物騒な男は何なんだ?」

「過激な異端狩りだ。しつこく追われて手間取り傷を負って…、近くにここしか逃げ場所が思い浮かばなかったんだ。すまない」


 ヴァイオラと双子の弟シザーリオは、ランカスター王家に仕える密偵だ。ロラード派というカトリックの異端派で、ヘンリー四世時代に大規模な迫害を受けていた。逃げ暮らしていたところを皇太子ハルに助けられたのだという。


 父王と違いハルは即位後もロラード派を弾圧することはなかったが、一度刻まれた異端の烙印が消えるわけではない。


 そして迫害の手は権力者のものとは限らないのだ。細々と暮らしてるいたある日、農作業を終え帰宅すると家に残っていた家族もろとも跡形もなく燃やされていた。集団リンチを加えられた後、重石をつけて凍る川に突き落とされた。彼女と仲間たちが受けてきた暴力はどれも昨日まで隣人だった住民によるもので、異端者は人間扱いなどされないのだ。


 だからヴァイオラは自ら離れていった。異端者と結ばれる、そこには幸せなど存在せず、あるのはブラッドサッカーの破滅のみだからだ。


「それでも俺のこと、忘れないでいてくれたんだな」

「…忘れたくなかった」

 目に見えないくらい細かい霧雨のような声で言うと、ヴァイオラそれきり目を閉じた。


 ブラッドサッカーは寝ずにずっとそばについて、彼女が痛がれば傷口を冷やし、翌日は熱が上がれば氷を取り寄せ惜しみなく使った。


「よせ、アタシなんかにもったいない」

「どうしてそんなこと言うんだよ。異端者だからか? 世界中が何と言おうと、俺には一番大切な人なんだぞ」


 ヴァイオラは泣きそうな顔になり、背中を向けて枕に顔をうずめた。


 三日すると快方へ向かっているのがブラッドサッカーにも分かり、ようやく生きた心地がした。ベンの妻が栄養のある食事を作ってくれたのも大きいだろう。


「そうなるとすぐに居なくなろうとするんだから、もう油断ならないなぁ」

 今日はバルコニーから抜け出そうとしているところをブラッドサッカーに現行犯で捕まえられ、寝台で半身を起こしたヴァイオラはぶすくれていた。


「しっかり治せって昨日シザーリオも言ってたじゃない」

 どこから情報を得たのか、駆け付けたうり二つの弟の方は相変わらず女装姿に何の違和感もなく、こっちの美しさはもう妖精でも異端でもなく魔物だ。


「これ以上アンタたちに迷惑はかけられない」

「あのさぁ」

 ブラッドサッカーは寝台に腰かけて、目線の高さを合わせ、彼女の手を取った。柔らかくて、温かな気持ちになる。


「俺はもうこの手をもう離したくないんだよ。君の奥底にある癒えぬ孤独と悲しみを取り除いてやりたい。たとえ世界が過酷な運命を押しつけてきても、死ぬまで一緒にいる。嫌なんだよ、君がつらい時にそばに居られないなんてさ」


 ヴァイオラは表情を変えない。けれどブラッドサッカーの手をほんの少しだけ握り返してきた。


 それから数日して治療を終え玄関で見送られると、背中を向けたままぽつりと言う。

「また来てもいいのか」


 顔かたちは昔と変わらない。けれどその後姿は今にも崩れそうな砂の塔のようだと感じた。ブラッドサッカーの心を捕らえた圧倒的で鋭利な孤独はなりを潜め、乾いた寂しさが広がっている。


「やっぱり、君は変わったな」

「どういう意味だ?」

「俺も君も一人の時が長すぎたってこと」


 小さな体を後ろから包み込んだ。傷が痛まないようにそっと、やさしい雨が覆うように。

「だからこれ以上は待てない」


 そしてブラッドサッカーが向かったのは隣のオフィスだった。

「ベン、話がある。もう決めたことだ」

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