第7話 残り香

 フランス摂政ジョンがロンドンへ緊急帰国した。


 護国卿ハンフリーと、柿の種の顔した大法官ボーフォートの積年の対立が、武力衝突をも辞さない構えになってしまったのだ。これではフランスのアルマニャック派とブールゴーニュ派政争の二の舞である。

 すぐさまジョンの仲裁で会議が設けられた。


「武器は持ち込み禁止だと言ったのに、互いにこっそりバットや鉄パイプを持ってきやがってさ」

「ふふふふっ。笑いごとではありませんけど」

 ジョンを私室に招き入れ、ケイトはソファの隣に腰かける。


「二人とも完全にる気のくせに、『これは武器ではありません、コーディネートです』とか『オレがそんなセコいことするわけないじゃん。やるなら議場ごと吹っ飛ばすね』とか言うんだよ」

 だがそれよりも、没収した鉄パイプを握り潰したジョンの笑顔が怖すぎるという噂だ。


「それでも双方に怒りの矛先を収めさせたのでしょう? 何から何まで対立する二人なのに、さすがです」

「フランスに向けることで何とか回避したがな」

「それはつまりご自身へと向けられたわけでしょう? ますます抱えるものが大きくなってしまいますね」


 限られた滞在期間で過密なスケジュールをこなさなければならないはずだが、今日は会食前のわずかな時間を割いて来てくれたのだ。


 ヘンリーが亡くなり、ケイトは異国の宮廷内に一人残された。はじめ、ジョンからはフランスに戻ってもいいと言われたが、留まってハリーを育てたいと強く望んだ。すると、当時九か月のハリーを膝に乗せ議会に出席するようアドバイスされたのだ。


『フランスと違い、イングランドは法律上女性君主を認める国だし、王母というタグを最大限生かすべきだ』

『はい』

『議会があなたとハリーを認めれば、宮廷内に居場所もできる。しばらくの辛抱だよ』


 ジョンの言う通り議会が二人の存在に慣れると、「王太后ケイト」のポジションができた。


『亡くなった姉君のミシェル妃が、フィリップからフランドル統治を任されていたのは聞いているよ。へぇ、それでケイトも勉強をしていたのか。意見があるなら議会で発言してみるといい。大丈夫だ、誰だって最初から上手くいくものじゃない。おれだってケチョンケチョンにされたさ』

『はい。やってみます』


 案の定、何度か泣かされた。けれどもケイトは屈さなかった。


『男はプライドの生き物だから。いきなり政治の経験もない若い女性に入ってこられたら、いじめたくもなる。その程度のちっぽけなものなんだよ。自分を強く持つことだ』

『はい』


『今日は言い負かしたのかい? すごいじゃないか。準備してきた成果が出たな』

『はい。あなたのアドバイスのおかげです』

『少し自信がついたみたいだな。その調子だ』


『あの……、ボーフォートにものを言えるのはハンフリーだけなのですか? 皆、制裁を恐れているようで』

『ボーフォートが専横的なのは今に始まった事じゃない。あれは自分を守るために常に誰かを敵にして、攻撃しないとやっていけない男なんだよ。今はハンフリーだが、ヘンリーの時代もアランデルという大法官を目の敵にしていた。性格には難ありだが有能なのは間違いない。いいね、君まで踊らされてはいけない。人は使いようだよ』

『はい』


 最初は、身近にいるハンフリーが親身に支えてくれた。相談相手にもなってくれた。

 しかしボーフォートとの対立を目の当たりにするにつれ、アドバイスを求める先はジョンに変わり、やがて毎日通信するようになっていた。ジョンの方も多忙の合間を縫って、時間は短くとも応対してくれている。


 そしていつの間にか、通信を楽しみにしている自分にケイトは気付いていた。


『おれもフランスで一人戦ってるし、おれたちは似たもの同士だな』

 そう言われた時、偶然映り込んでいた妻アンヌの長い黒髪に、痛いような苦しい気持ちを覚えた。


「きっとお疲れと思い、ハーブティーを用意しました」

「分かってしまうかな? ケイトの方こそ、ハリーを健康に育ててくれて感謝している」

 ミントとカモミールのハーブティーに伸ばされた、長くてきれいな指に目を奪われる。


「ハンフリーのことでは、君にも面倒をかけたね」

 自分のことを気にかけてくれた。それだけでケイトの心は波立ってしまう。

「いいえ。彼にはいつも良くしてもらっているので、役に立ててよかったわ」


 ハンフリーの妃のジャクリーヌは、領土継承問題でフィリップと敵対したため捕われている。それがなんと男装して脱走し、はるばるロンドンのハンフリーの元へ現れたのだ。夜中に寝室へ忍び込んだはいいが、寝台には裸の女がいた。


「夫は助けようとするどころか婚姻無効を申し立ててきて、焦って家に帰ってみたらあろうことか自分の侍女と仲良くやってたわけだ。絵に描いたような修羅場だな」

 ジャクリーヌの怒号は館中に響き渡ったという。この事態にケイトが駆けつけた時、部屋のガラス戸は割れ、まるで象が暴れまわったような有様だった。


「泣き叫ぶジャクリーヌをなだめて、好きなだけ殴りなさいと言ったら、いきなり拳と蹴りでした。普通女性は平手で打つものでしょう? でもハンフリーは一歩も動かずに黙って受け続けて。最後は土下座して謝っていましたわ」

 その後、顔中が変色したらしい。


「ジャクリーヌは落ち着いているのか?」

「ええ。もう諦めはついたようで、次の恋を探すと」

「そうか。助かったよ、ありがとう」

 その微笑みはどんな称賛よりも温かくケイトの心を包んだ。だから本音がこぼれてしまう。


「ハンフリーよりもあなたの方が護国卿に相応しいと、そしてハリーが成人するまであなたに王になって欲しいとボーフォートは言います。議会も概ね傾いていますし、私も……」

 一瞬、ジョンの瞳が鋭さを帯びる。


「ケイト、どこで誰が聞いているか分からないのだから、滅多なことを言うものじゃないよ。おれは護国卿にも王にもなる気はない。ヘンリーの遺言に従い、ハリーが親政を始めるまでフランス摂政として領土を維持する」

「ごめんなさい……」


 ハーブティーを飲み干すと、ジョンはふぅと息をついた。


「不安な気持ちはわかる。弟シャシャのことも心配だろうし」

「フランスはどうなのですか?」

「良くはないが悪くもない」

 それだけ。いつも悩みを打ち明けるのは自分の方だけで、ジョンは胸の内を何一つ語ってくれない。


 奥方には話すのだろうか。けれど今はアンヌは居ないのだから、私を見て欲しい———

 思った次にはもう、キスしていた。唇から、ミントの味がする。


 一瞬の後、ジョンは顔を離したが、ケイトはその体に抱きついて胸を押し当てた。

 胸が大きいだけでエロいと決めつけてくる男たちをあれ程嫌っていたというのに、今は自らそれを突き出すなんて。やっぱり私は悪女イザボーの娘だ。


「ケイト、ごめん……おれ、全然気づかなくて……」

「いや。帰らないで」


 柔らかな体を押し付けられるほどにジョンは全身でうろたえ、ケイトの肩に手をかけた。そして有無を言わさぬ力で自分の体を離した。少し目を泳がせ、赤らんだ顔ではっきりと言う。


「あなたは異国の地に一人残って、ハリーを育ててくれている。おれにできることは何でも協力してあげたいと思ってる。けど……、あなたは兄が愛した人だ。おれにはできない」


 体の奥がズキンと痛み、ツンとした苦しさと涙が湧いてくるのを必死で堪える。鼻と口に残るミントの香りが、かろうじて平静を保たせてくれる。

「いえ、夫が亡くなってまだ三年しか経っていないのに、私の方こそ……。すみません、少し寂しかっただけです。もう忘れてください」


 抱かれたいと望んだきれいな手。肩に置かれたその手でもう一度ごめんと言って、ジョンは部屋から出ていった。


 なぜ急にあんなバカなことをしてしまったのだろう。後悔だけが全身を渦巻き、千切れそうだった。零れた涙をハンカチで拭い、忘れよう、何事も無かったのだと自分に言い聞かせる。


「王太后さま」

 その時、誰もいないはずの部屋に響く男の声。体がビクッとなる。


「テューダー、居たのですか」

「お茶を入れ替えに参りましたが、摂政閣下はもうお帰りになられたのですね。今日は暑いですし、いかがですか?」


「今は結構よ。しばらく一人にしてちょうだい」

「かしこまりました。御用の際はいつでもお呼びください」

 にこりともせず、秘書官のテューダーは退室していく。


 カップの底に残った苦さと気まずさ。ケイトは一人、それを飲み下そうとハンカチで顔を覆った。

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