第2話 「結婚しました」

 ただならぬ気配を感じて、ブールゴーニュ公フィリップは飛び起きた。時刻は真夜中だ。黒いパジャマの上から黒いガウンを羽織り、ミュールをつっかけて広間へ急ぐ。


「お目覚めでしたかフィリップ様! 申し訳ありません、こんな時間だからとお断りしているのですが……」

「いいよ、会おう。ていうか僕が行かなきゃテコでも動かないでしょ」


 この感じ、間違いなくあいつだ。

 頭を下げた執事に見送られて広間に入る。


「よう」

 非常識極まりない時間の訪いに悪びれた様子もなく、カウチで足を組み肘をついたまま一言だけ。ジョンの方が目線の位置が低いのに、どうして上から見下ろされているように感じるのだろう。


「さっきまでルーアンにいたよね? 通信で話した時はルーアンに居たんでしょ? ここ300マイル(約490㎞。東京から鳥取県くらい)離れたディジョンだからね? こんな時間に一体何の用? しかも一人で来たの?」


 スピーダーバイクをぶっ飛ばして来たのだろう。しかしその割には透ける金髪も、薄い水色の豪華な衣も、一切乱れていない。立ち上がったジョンはつかつかとフィリップに近寄ってくる。


 暗闇の中、いくつもの蝋燭ろうそくの光に揺らめく美貌と真剣な眼差しにフィリップの胸が高鳴って、思わずパジャマの裾を握りしめた。


「結婚したい」

「ぉふっ⁉︎」




 時間を同日午後に巻き戻そう。


 イングランド護国卿のハンフリーが結婚した。お相手は二年前から交際中で、笑い顔が亡きブールゴーニュ無怖公の「がっはっはっは!」そっくりで、おまけに爆乳のジャクリーヌだ。かねがね申し立てていた前夫との婚姻無効が晴れて認められたのである。まだヘンリーの喪中ということもあり、挙式は簡素に執り行われた。


 しかしその直後、ハンフリーがジャクリーヌの夫名義でエノー、ホラント、ゼーラント(現ベルギー〜オランダ)の三領伯を名乗った。

 元々ジャクリーヌが継承した領地ではあるが、介入してきた親戚により待ったをかけられ、追い出される結果となっていた。亡命先で出会ったのがハンフリーというわけだ。


 称号を名乗ることは、奪われた領土を取り戻すという明確な意思表示だ。しかし相手が悪すぎる。


「お前何考えてんだ⁉︎ あそこはブールゴーニュ家が相続することになってんだろうが!」

 通信画面に向けてジョンが雷を落とす。

 悪すぎる相手はジャクリーヌの従兄いとこであり、そしてイングランドの同盟手フィリップなのだ。


「でも本当は彼女の土地だ。フィリップなんか直接関係ないじゃん!」

「バカ言ってんじゃねぇ! 介入してきた親戚ってのはフィリップの叔父なんだよ! むしろあいつが三伯領を手に入れるために叔父を動かしたと考えるべきだろうが!」


「フィリップのことなんか知るかよ! オレは妻を助けたい。じゃあね」

「あっ、待てよっ!」

 それきり、ロンドンのハンフリーとは繋がらなくなった。


「くそぅ……! 何してくれんだよ」

 すかざず着信音が鳴る。表示されたコードは、予想通り。


「……早ぇんだよ」

 出ずに一度やり過ごす。しかし間髪入れずもう一度鳴る。無視する。鳴り続ける。ジョンは長い息を吐くと応答ボタンを押した。


「どゆこと?」

 画面の向こう、黒衣のフィリップの目が据わっている。


「おれもたった今初めて聞いた。今から真偽を確認す———」

「僕たちは同盟関係のはずだよね? なのに勝手に僕の称号横取りするってどういうつもり?」

「だからおれも今知ったところで———」

「もしかして僕のことナメてる? フランス摂政を断ったの根に持ってるの? ヘンリーと違って小さいんだな君たち弟って」

「だから違うっつってんだろうが! 人の話聞けよ! いいか、おれが直接ハンフリーと話す。そしておれはお前を裏切らないし、この件についてはハンフリーではなく全面的にお前を支援する」


「称号をハンフリーに取り下げさせてくれるの?」

「そうだ。だからお前もおれを信じろ。いいな」

「……わかったよ。僕も感情的になってちょっと言い過ぎた。忘れてくれ。けどね、僕が見る限り兄弟二人の間で解決は難しいと思うよ」

「何だと?」


「やっぱり君は分かってないんだね。ま、そのうち教えてあげるよ」

 ジョンの反応を味わうように、フィリップは少し首を傾げて見つめている。

「今言え」

「やだ。君がどう僕に味方してくれるのか示すのが先だよ」

 ジョンは舌打ちする。

 その様を、フィリップは旨そうにじっと眺めていた。

「んふふふふふふふふふふふふふふふふふ」




 それからわずか八時間後、ブールゴーニュ公国の首都ディジョン。


「ぼっ僕は今なら独身だし……僕なら構わないけど、でもそんなの公的に認めてもらえるわけないし、秘密結婚なんて罪が重すぎるし……」

「なに寝ぼけてんだ。妹のアンヌ公女だよ」


「ふ? アンヌ? あ、ああ、そうか、そうだったね。うん、そうだそうだ、ヘンリーとそんな話しした」

「今すぐ結婚する」

「ちょ、いきなり来てそれ?」


「妹の部屋へ案内しろ」

「だからぁ、何時だと思ってん———」


「ジョン様! お会いしたかった!」

 振り返ると、夜着の上にピンク色のガウンを羽織り、黒髪を垂らした妹がジョンへ駆け寄るところだった。


「ああ、アンヌ。こんな時間に起こしてすまなかった。けれどどうしても会いたくて。不躾なおれを許してくれるかい?」

 それさ、まず僕に言うべきじゃない?


「もちろんよ。突然来てくださってもうわたし、ドキドキが止まらなくて。でもスッピンでちょっと恥ずかしいわ」

「そこが可愛いんだよ。再会のキスをしても?」


「ちょっと待ったっ! なんだよ再会って⁉︎ いつから? 兄さん聞いてないぞ⁉︎」

 もうアンヌの顎に手を添えているジョンの腕を必死につかむ。


「あら、ヘンリー陛下とケイト王妃のロンドンでの結婚式に連れて行ってくれたじゃない。その時にお会いしたのよ。それからは通信とお手紙で」

「そんな前からぁ⁉︎ アンヌも通信機器持ってるの? 聞いてないよ⁉︎」


「なんでいちいちお前に言わなきゃならない」

「そうよ。ジョン様はとても優しくて紳士ですもの、お兄様が心配なさるようなことは何もないわ」

 十分あるよ! こいつはヘンリーの戴冠式で仕事を放っぽり出して、廊下で女とイチャついてた奴だぞ!

 とは妹の前では言えない。


「アンヌ、おれと結婚してほしい。今すぐに」

 そんなフィリップをよそに、ジョンはアンヌの手を両手で包む。

「政略結婚だなんて言わせない。おれが結婚したいのはただ一人、君だけだ。どんな邪魔が入ろうとも絶対に君を離さない。死ぬまでおれのそばにいてくれ」

「ジョン様……うれしいわ」


「ぅおおおーーい! 許可出すの僕だからな!」

 しかし兄の声は二人に届いていないらしく、熱烈なキスを披露される。


「ジョン様、お疲れでしょう? お部屋にご案内しますわ。何か召し上がる?」

「君と居られるなら、それだけで胸がいっぱいだよ」

「ダメー! 結婚前なのに真夜中の部屋に二人きりなんて兄さん許しません!」


「客間にお連れするだけよ。お話しするのはまた明日にするわ。さ、行きましょジョン様」

 すれ違いざまジョンと目が合うと、唇を釣り上げてくる。アンヌには絶対に見せないであろう、腹の底まで漆黒の笑みだった。こいつ、狼になる気だ。


「くーーーーーっっっ!!」 


 翌日からアンヌはジョンにべったりでディジョンを観光案内し、ワイナリーを巡り、ピクニックに誘い、夜になるとそれはそれは嬉しそうに一日の出来事を兄に語るのだった。

「ジョン様、わたしのことがお好きですって。わたしと居ると、静かな海を眺めているように穏やかで満たされた気持ちになる、そんな人は初めてだ、って」

 うっとり顔の妹に「よかったね」と相づちを打ちながら、心の中で真逆のことを思う。


 ———あいつはそういう男じゃないんだよ。

 自分のものを傷つけられれば怒る。兄弟のことは愛している。

 しかし深い部分では他人と繋がれず、機械と向き合っていたい。そのために機械に個性を与える術まで見出してしまったオタクだし、いつも結果しか求めていない。


 アンヌとの結婚だってフィリップを敵にしないためで、こんなに急いだのもそれだけの理由だ。隠すのが下手すぎる。

 しかしおだてられてすっかり舞い上がって幸せ絶頂の妹は気付かないし、到底言えやしない。


 一週間の滞在後、結婚式の日取りや詳細を詰めてジョンは帰ることになった。

「妹をすっかり骨抜きにしたみたいだね」

「愛し合っているのに悪いか?」

「君にそんな感情があるの? 婚姻っていう結果が欲しかっただけでしょ?」

 するとジョンが目を丸くする。

「あるに決まってるだろう。おれを機械だと思ってるのか」


「……だって、僕にはあんな笑顔向けてくれたことないじゃんか」

「何言いだすんだお前」


 それから二人は、ヘンリーと同じトロワ大聖堂で結婚式を挙げた。パリのトゥールネル館を居住に、おしどり夫婦として市民からも人気だという。

 アンヌが幸せなら兄として求めるものはこれ以上ない。


 イングランドとブールゴーニュの関係は安寧に思えた。

 ところが翌年、称号を取り下げるはずのハンフリーがフランドル(現ベルギー北部)へ侵攻する。


 フランドルを領有するのは、今も昔も変わらずフィリップである。

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