第9話 日出づる

 モーとハンフリー、ビーチャムは既に面会を済ませ、ジョンが最後だという。


「遅くなったね」

「遠いとこ呼んで悪かったな」

 意識ははっきりしていて、まるで「よく来たな、いいワイン手に入れたから一緒に飲もうぜ」というノリだ。が、その顔にははっきりと死相が見て取れる。


 あぁ、この人はもうすぐ死ぬんだな。


 そう思った瞬間、堪える間もなく涙がせり上がって流れ出る。

「っ、ごめん…」


 寝台の中からヘンリーが左手を上げた。ジョンが隣に膝をつくと、冷たい手で背中を抱いてくれる。

 これがあの兄かと思うほど弱々しい手だが、心の奥をやさしく撫でられた気がした。ずっと張り詰めていたものがほどけて、ひとしきり心の中を涙で洗い流す。


「ジョン、お前には一番つらい目にあってもらわなきゃならねぇ」

「…わかってる」


 戦乱のフランスに留まる。戦争を継続する。


「フランスは必ずハリーに継承させるから。フランスが無理でも、せめてノルマンディだけは死守する」

 同じ軍を自分が指揮しても、ヘンリーのようには勝てないだろう。そしてヘンリーという大黒柱を失えば、奪われた諸都市を取り戻そうとシャシャが大きく動き出すのは目に見えている。これからフランスでの戦はますます厳しくなるのだ。


「ハリーが成人するまでのフランス摂政だが、フィリップが望むなら譲ってやってくれ。あいつが辞退するならお前ぇに任せる」

「わかった」


「フィリップと喧嘩するなよ? あいつ思い込み強いところあるからさ」

「大丈夫だって! 言い方には気を付けるさ」


「それと、ハンフリーのことだが…」

 そこで言いよどむ。


「心配?」

 戦乱が続くフランスにはジョンを、安定しているイングランドはハンフリーにというのがヘンリーの構想だ。

「それでも、あいつにはちと荷が重いかもしれねぇな」


 ハンフリーは、兄たちと比べて何をするにも時間がかかる。大きな劣等感を抱いているのだが、その鬱屈がたまに他人へ牙を剥いてしまうことがあるのだ。

「ボーフォートとはずっと犬猿の仲だもんね」


 柿の種のような顔のボーフォートは、皇太子時代からヘンリーの政策をずっと支えてきた重鎮中の重鎮だ。皇太子ハルに重用されるボーフォートへ、ハンフリーがやきもち半分になじる言葉を投げつけたのがきっかけらしいが、もはや問題は単純ではないし、これだけ年季が入れば修復は不可能である。


 そんな二人が、これから共に内政を担っていかねばならないのだ。

「わかったよ、どうしてもって時はおれが仲裁する。二人ともイングランドには必要だもんな」


「お前ぇが過労死する姿が目に浮かぶようだぜ」

「ほんとだよ。身も心も搾り取られてカラッカラになってさ、干しブドウみたいに眠る」

 ヘンリーは顔だけで笑った。体で笑う体力はもう無いようだ。


「あの世でトマスに会ったら、何か伝えとくことあるか?」

「二人とも死ぬのが早すぎるんだよ、バカヤロウって」


「…望むものは手に入れたんだ。けどハリーとリチャードのことがな。成長をこの目で見たかった」

 ジョンは頷く。


「おれはヘンリーの目になりたくてエンパワメントシステムを作ったんだ。だからおれが代わりに二人の成長を見ていく」


「ああ。ケイトにもこれから苦労かけるだろう。支えてやってくれ」

「おれの体は一つしかないんだからね?」


「あ、そうだ。葬儀はさ、一回じゃ済まないだろうからあんま派手すぎないようにしてくれよな。棺の周りの蝋燭ろうそくはデカイのを三十本くらいで、あとは小さいのでいいからな。装束はやっぱ赤がいい。んで、体は防腐処理してサン・ドニやルーアンなんかを回ってから帰国にしてくれよ」


「はいはい、死ぬ直前まで細かすぎ。埋葬はどうする? 父上はカンタベリー大聖堂だけど」


「オレはウェストミンスター寺院がいい。ロンドンが好きだし。それにアイルランドもウェールズも、オレとモーにとっては故郷みたいなもんだ。イングランド、フランスとも一つの空で繋がってる。最近、そんな風に思うんだ。魂がこの体を抜け出したら、好きに飛んで行ける気がしてな」


「あぁ、いいなそれ。ずるいよ、おれに全部押し付けて先に行っちゃうなんてさ」

 どこまでも高く、太陽まで届くように、鳥になって。

 

 ヘンリーの道は、暗闇の中をスピーダーの細いライトを頼りに進むようなものだった。一瞬でも見誤れば転落するし、突如何が現れるか分からない。

 だから王の肉体から解放された心は自由であってほしいと願う。


「ねぇヘンリーはさ、もう無理、もう降りたい、って思ったことはないの?」


 父親が国外追放されて全てを失った時。フランス出航前夜に友から裏切られた時。10万の敵軍を目の前にした時。無抵抗の市民を虐殺した時。

 その度にヘンリーは心を削ぎ落とし、更なる困難が待っていると知りながら、自らの手で扉を開けてここまで来たのだろう。


「んー、考えないようにしてきたかな。いつも明日だけを見てた気がする」

 それでも思うのは過去でも今日でもなく、明日。


「そうなんだね。おれなんて、今日をどう乗りきるか考えるので毎日精一杯だよ」

「オレだって同じさ。でも今だけを考えると怖くて嫌になるから、いつも朝日を待っている」


「そっか…、決めた。おれも降りないから」

「オレに言われなくてもそのつもりだったろ。お前ぇにはやり遂げるだけの胆力がある。昔は泣き虫ジョンだったのにな」

 と、ヘンリーは目を細めた。


「木の上から降りられなくなっても、もう助けてやれねぇからな」

「いつの話だよ? しかもそれおれじゃなくてハンフリーじゃない?」


「いいや。お前ぇがどんどん先に登っちまうから、ハンフリーはいじけて途中でどっか行ったんだよ。でもその後『ハルどうしよう! ジョンを置いてきちゃったよ。もう暗くなるのに』ってあいつは涙目で言いに来てな。それで行ってみたら、降りられなくなったお前ぇが木の上でめそめそ泣いてた。八歳か、九歳の時かな」

「……全然覚えてない」


 面白いようにスルスルッと登っていくヘンリーみたいにやってみたくて、よくハンフリーと真似していたのは覚えているが、無意識のうちに嫌な記憶は抹消していたようだ。


「だから、次はあいつを待ってやってくれ。な?」

 兄弟で最も喧嘩が多かったのは下二人だ。

 ジョンが頷くと、ヘンリーは安心したように微笑む。


 それから息を引き取ったのは、夜明け前だった。家族と皆に見守られ、眠るように旅立った。


 一人、ヴァンセンヌ城のドンジョン(天守閣)屋上に上る。

 170フィート(52m)の高さからは、ジョンの視界を遮るものは何もない。世界は灰青色ですぐ眼下には森が広がり、その先には平原。それからパリの街並みが霞の中に黒っぽく浮き出ている。


 少し湿った夜明け前の空気は故郷ロンドンを思わせた。


 普段、この高さで感じる風は何もかもを押し流すような強風だが、今はジョンの肌の上で遊ぶように、透ける金髪をふわりふわり舞い上げる。風の妖精がヘンリーを待っていたみたいだ。


「まだこれからなのに。連れて行くのは早すぎるよ…!」

 体の奥から絞り出したような叫びはすぐにふわりと風に溶けて消える。


 やがて、地平線の向こうから朝日が昇る。


 低い空が燃えて輝き、灰色の世界に色彩が満ちていく。平原が、木々が、すべてが金色に染まる。ヘンリーの瞳と同じ色の光が、涙に濡れたジョンの頬を照らす。


 顔を上げ、拳に力を入れ真っ直ぐに太陽を向いた。

 ランカスターの朝日は今、ジョンの胸の中にある。

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