第8話 白百合

「ラ・イールの野郎ぉっ…!」

 ニレの木にイングランド兵の死体が吊るされている。自らの手で葬った相手に死後も屈辱を与える。それがトマスの仇、赤マントの傭兵ラ・イールだった。


 遺体はジョンが先遣隊として出した兵たちである。

 フィリップの救援でヘンリーの代わりにコヌへ向かったが、シャシャが包囲を解き撤退したため、ブールゴーニュ軍と共同で王太子派の拠点を攻めている。


「すぐに下ろしましょう」

 フィリップの側近で指揮官のリュクスがテキパキと部下に指示を出す。


 ラ・イールが捕まらない。いつもイングランド軍の先回りをしては街を焼き、食糧を奪う。そして追いついたと思ったらもう次のところで略奪を始めている。焼け出されて途方に暮れる村人に、ジョンたちが食糧を分けてやることすらある。イングランド・ブールゴーニュ軍はゲリラ戦でいいように翻弄されていた。


「だが飢えに苦しんでいるのは王太子軍も同じことだ」

 シャシャが援軍を送ろうとすればジョンとハンフリーが阻止し、フィリップが軍を差し向ければラ・イールやザントライユが動く。泥沼を打開するために決戦を誘ってもシャシャはなびかず、交渉にも頑なに応じない。


「シャシャがこんなに粘ってくるとは正直思いませんでした」

「同感だ」

 野営地でリュクスを夕食に招いたが、ジョンの皿はなかなか減らず、さっきからつついているだけだ。


 ケイトが滞在するヴァンセンヌ城に戻ったヘンリーはもう、起き上がれないという。


 考えようとすまいが、どうしても心は重く捕らわれて、黒い手で臓腑を握られたようになる。そして体がねじれるような思いは戦いぶりにも表れて、ラ・イールを追い詰めきれない一因は司令塔ジョンの精神状態にもあった。


「だが続けるしかない」

 フランスに平和が到来するまで戦いを遂行する。それがヘンリーの意思だ。


「その後、ヘンリー陛下のお加減はいかがですか?」

「意識は清明で、冗談を言ったりもするんだ。けど全身の筋肉や関節が拘縮して、徐々に臓器の動きも止まりつつあると」

「そんなにお悪いのですか…」


 側で看護しているモーは、通信を繋げるたびに泣いている。悔しいのだろう。無念なのだろう。

 その思いは皆同じだ。


「どうしてヘンリーなんだよ…、選ぶならおれにしろよ。開発したのはおれなのに」

 心の声が口を突く。

 かける言葉が見つからないリュクスは、口に運ぼうとした杯をテーブルに置く。


 その時、通信機器の着信音が沈黙を切り裂いた。画面に現れたのはモーだ。


「大至急ヴァンセンヌ城までお戻りください。ハンフリー様、ビーチャム将軍も呼ばれています」

 ジョンの瞳がはっと見開かれた。




◇◇◇◇


「あなた、さっぱりしましたか?」

「ん」


 体を起こせぬヘンリーは、自力でトイレに行くこともできない。その世話は全てケイトとモーが行っている。そんなの従者にやらせろとヘンリーは言うが、二人とも頑として譲らなかった。

 全身を拭き上げて、洗濯したての衣を着せていく。


「体の大きさは全然違うけれど、ハリーのお世話とまるでおんなじだわ」

「まったくだな。情けねぇ」

「あら、私は嬉しいのですよ。いつも私の手の届かない戦場にいたあなたが、赤子のように何もかもを私に頼ってくれるのだから」


 ずっと一緒にいて、たわいもない会話をして、話し疲れるとケイトに見守られながら子供のように眠る。どれもこれまでには到底ありえなかったことだ。


「ケイト、オレが死んだ後は好きな男と結婚してくれ」

 なのに唐突に言われ、返す言葉を失う。


「…え?」

「フランスに帰ってもいい。ケイトには誰より幸せになってほしいんだ」

「なにを突然…。私はあなたの妃です。イングランド人なのですよ」


「無理しなくていい。オレが居なくなった後まで我慢しなくていいんだ。だって、一人でずっと寂しかっただろう? ハリーを産んでくれて感謝してる」

「私のために前線を抜け出して会いに来てくれたではありませんか。それにハリーを置いて、私がこの国を離れられるとお思いですか」


 ヘンリーは少し眉を下げた。ごめん、と言うような顔だ。

「もう…、陛下はなぁんにも分かっていないのですね」


 恋を知った。甘さも苦さも味わったけれど、異国の地で頑張ってこられたのは、恋をしたからなのだ。


「王女になんて産まれたくなかったと思っていたけれど、王女でなければあなたとは出会えなかった。この想いだけで、私は強くなれます」


 この人のすべてが愛おしい。下の世話をしながら感じるのはそれだけだった。やっと彼が体も心も全てを開けて委ねてくれたのだ。それは幸福以外の何物でもない。


「私にこんな力があるなんて思いもしませんでした。全部陛下のせいですよ」

 するとヘンリーが、サイドテーブルの上を指さす。


「オレがあげられるのは、相変わらずこんな物しかないが、最後にまた受け取ってほしい」

 それは紙で折った、小さな白百合の花だ。

「作るのに何時間もかかっちまった。しかもちょっと下手だな」

 と、はにかんだように笑う。


「でも、あなたが不格好な花を渡す相手は、世界で私一人だけでしょう? 嬉しいわ」 

 ケイトが口づけると、少しだけヘンリーは返してきた。鼻先を合わせてクスッと笑い合う。


「手を洗ってきますね」

 居室の扉を閉めた途端、涙が溢れる。ぽろぽろこぼしながら自室に駆け込んだ。


「ああ…あなた…っ! いや…死んでしまうなんて! いやぁ…!」

 後から後から嗚咽が止まらない。化粧が崩れるのも構わずケイトは声を上げて泣いた。


 初めて会った時から、ヘンリーは太陽だった。たとえそばにいられなくても、どんな時も照らしてくれるような人だった。


 叶うのならこのまま永遠に時を留めたい。家族三人で過ごした愛おしい時間を焼き付けたい。亡くなった後を憂えるよりも今、ヘンリーという存在を失いたくない。冷たい手を、はにかんだような笑い顔をずっと。


 サイドテーブルの引き出しごと取り出して中身をシーツの上に広げる。それは今もらったのと同じ、たくさんの紙の白百合だ。


 結婚初夜から目覚めるといつもヘンリーはいなくて、代わりに隣に置かれていた。帰りを待ちきれずにケイトが先に寝落ちた日も、温もりで包み合った日も、些細な事で言い合いになり寝台の端と端で背を向けた日も、いつも。


 何度も折り直した跡があったり、花弁の形がいびつなのも多く、苦労しながら一生懸命に作ってくれたのが分かる。


 その数全部で二百九個。


 共にした時間はあまりに短すぎた。小さな景色を少しずつ重ね始めたばかりなのに。二人が三人になり、描く色彩が、輝きが、どんどん増えてきたところなのに。


 ヘンリーにとって、結婚は覇道の手段の一つだ。自分と彼とでは求める景色が最初から違う。けれど誰よりも彼の心の中に居たい。誰よりも彼のことを思い描いていたい。強くそう願う。


 紙の花を胸にかき集める。

 百合はフランス王の象徴。そして意味するのは『威厳』。

「あなたの王国、あなたの心…」


 腕の間から次々と紙の花がこぼれ落ちて、ケイトは枕に顔を沈めた。



◇◇◇◇


 ジョンがヴァンセンヌ城に到着したのは、真夜中より少し前だった。

 ヘンリーの居室には父親の時と同じ、かび臭いような香が焚かれている。これが焚かれる時はもう、あとは待つのみということだ。

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