第7話 代償
最初は風邪だと思っていた。しかし高熱と下痢嘔吐に四日間苦しんだ後、十日経ってもまだ本調子ではない。
まるで氷にでも憑りつかれたように、常に寒くて寒くてたまらないのだ。冬の戦場でこんなことは今まで無かった。
「体温が低すぎる?」
「はい。毎日何度も触診しておりますが、通常人間が生きていられる体温の範囲を越えています」
医師の言葉にヘンリーは首をひねる。
「うん? 生きてるぜ?」
「ですので、私の知識ではこれ以上は何とも…」
では体を動かせば体温も上がるだろうと走ってみると、重力が三倍になったような疲労感に襲われるのだ。
「人生四十年ですから、もうお若くはないのですよ」
まだ日は落ちていないのにぐったりして幕舎の寝台に横たわると、モーが温めたレモネードを運んでくる。今日はモーに剣の相手をさせたが、エンパワメント状態でも思うように体を動かすのは困難だった。
その時、通信機器が着信音を鳴らす。モーがスイッチを押すと、画面に現れたのはジョンだ。
「おう、どうした?」
寝台から体を起こす。その緩慢な動きを、画面の中からジョンが注視している。
「体調のことを医者から聞いた。それで思ったんだけど…たぶん、おれのせいだ」
「ん?」
「エンパワメントの副反応が強く出てる。手が冷たいのと同じ現象が全身に起こっていて体温が上がらず、体のあらゆる機能が低下してるんだと思う」
「だとして、どうしてお前ぇのせいになるんだ? 開発したからか?」
暗い顔で頷くジョン。
「エンパワメントは、機械と人間が互いに信頼関係を構築する過程で得た特有の
確かにヘンリーの趣味はエンパワメント状態のスピーダーで爆走だし、剣の鍛錬も日常的に行っているから、体には無理をさせ続けている。それは以前からジョンに指摘されていた。
「それでは、治すにはエンパワメントを使わないことだというのですか?」
思わずモーが横入りしてくる。
「そりゃ無理だな」
「ハル様! 今優先なのは体調で、スピーダーに乗れないことではありませんよ!」
「ええええぇぇ!」
子供のように口を尖らせるヘンリー。
「今からエンパワメントを使わずに生活したからといって、体内に溜まった
「ほぅら、やめたら治る保証なんて無ぇじゃねぇか。オレは乗り続けるぜ」
「ハル様!」
「お前ぇのせいじゃねぇよジョン。オレはこの力のおかげでここまでやって来れたんだから、感謝しかねぇ。だからそんな顔するな」
「でも体温が下がって体の抵抗力が落ちてるのは確かなんだよ。だから今まで風邪一つひかなかったのが、急に熱出したりしたんだ。戦いはおれたちに任せて、冬の間だけでも療養に専念した方がいいって」
ジョンは整った眉をハの字にして懇願した。
ヘンリーの性格上、そうできないのは重々分かっている。それでも言うしかない。モーも数えきれないほど言い続けているはずだ。
けれどやはり、ヘンリーは首を縦には振らなかった。常に有言実行、己が口にしたことは必ずやり遂げ、相手にも100%条件を呑ませてきた男だ。身内の言うことなど、まず聞かない。
さすがに前線で自ら剣を振るうことはしないが、以降も戦場に身を置き指揮を続けた。
そんな折、寒さも本格的な十二月六日にロンドンから吉報が届く。ウィンザー城でケイトが王子を出産したのだ。この喜びに兄弟たちは久しぶりに集合した。
「ケイト、よく頑張ってくれたな」
笑顔で画面に手を振るヘンリー。筋肉質だった体が一回り小さくなっているのに、少なからずジョンとハンフリーは衝撃を受けた。
「ほんとにトマスの生まれ変わりだね。目がそっくりじゃん」
画面の向こう、白いおくるみに包まれた赤子のアップに全員で顔を寄せる。
「でも将来、トマスみたいに飲んべえの女好きになったら困るよねぇ」
ハンフリーの発言に、すかさず反撃のジョンとモー。
「お前が言うな。おっぱい星人のくせに」
「ええ、トマス様の女性の趣味は良かったですからね」
「なんだよ!? オレの趣味が悪いって言いたいのか⁉ ジャクリーヌを!」
ハンフリーの彼女である。
低地地方(現ネーデルラント)のエノー、ホラント、ゼーラント三伯領を継承した女領主で、お家騒動が勃発しイングランド王家を頼って亡命してきたのだ。
「初対面でお互いに一目惚れって、これ運命の出会いでしょう。オレは彼女の助けになってやりたいんだ。ねえヘンリー、結婚してもいいよね?」
ジャクリーヌの母親はブールゴーニュ無怖公の妹だ。フィリップとは
「う、うん…? そうだな、二年ぐらい付き合ってからな。それでも好きなら、まぁ…いいんじゃねぇか?」
兄弟が素直に祝福できないのは、第一に彼女は既婚で、極めて不仲な夫との婚姻無効をローマ教皇に申し立てている最中だからだ。
第二に、その見た目である。十九歳の亡命女領主に期待してしまうような美女ではない。眉間に皺を寄せたいつも不機嫌な顔には、ギョロッとした目と男のようないかつい鷲鼻。そして笑い顔が叔父ブールゴーニュ無怖公の「がっはっはっは!」と全く同じという、なかなかパンチの利いた女性なのだ。加えてがっちりした肩幅に人並外れた大きな胸で、二人並んだ体格はハンフリーと遜色ない。
(絶対おっぱいに目が眩んでるよね?)
(き、きっとハンフリー様とは波長が合って、お優しいところがあるのでは…)
(1/世界人口 に出会ったってことだろ)
それから、パリが一年で最も美しい時季となる五月。パリ郊外のヴァンセンヌ城に急行したヘンリーを、生後五か月のハリーとケイトが出迎えた。
「どうしてもハリーに会ってほしくて。連れて来てしまいました」
その小さな小さな存在をケイトから受け取ると、軽いのに腕にずしりとくるものがある。
「抱き方はこれで合ってるか? 壊れないか?」
父、祖父と同じくヘンリーと名付けられた赤子は、皆からハリー王子の愛称で呼ばれている。
「不思議だ…」
一体どうやって人間の形になって出てきたのか。こんなに小さいのにちゃんと自分の意思があり、いっちょ前にあくびをしてゲップして、笑って、何か伝えたくて泣いて。一日中見ていても飽きない。
「不思議なんだよな。まだ言葉も喋れねぇのに、ちゃんと母親のことが分かるんだ」
「最初の一週間は、ハルが抱っこするとギャン泣きだったもんねぇ」
ハリーとケイトは午睡中なので、ジェーンを話し相手に待っている。
「ハルの中に今までにない想いが産まれたの、あたし分かるよ」
「この気持ちを、死ぬまで忘れずにいたいもんだ」
「ねぇハルぅ…、もうあんまりエンパワメントしてあたしと喋らない方がいいよ。ジョンが言ってたでしょ? あたしのせいでハルが元気無くすのやだもん」
戦線は小康状態のため、ヘンリーが家族とヴァンセンヌ城に滞在して一か月半が経っていた。心安らぐ時間を過ごしているが、体調は戻るどころか悪化し、食事が喉を通らなくなってきている。おかげでみるみる痩せてしまい、何もしていなくても常に強い疲労感がある。
「ジェーンが心の中にいて、オレのことを知ってくれてると思うからオレは安心して戦えるんだ。本当のオレは怖がりで意気地がなくて、戦の前夜はいつも眠れない。それを知ってるのは、お前ぇだけだ。ジョンもケイトも知らない」
「うん。ハルが本音を言える相手はトマスとあたしだけだもんね。なんか嬉しいな」
「皇太子になってから常に戦が隣にあった。戦うことでしかオレは王になれなかったが、ハリーには別の道を用意してやりてぇんだ」
「平和な王国だね。ねぇ、もしハルが戦のない時代の王様になってたらどうだろうね?」
「ハハッ、十三歳で皇太子になるなんて、当時思ってもみなかったぜ? オレは生来の王じゃねぇからな。もし違う人生なら、そうだなぁ、ブラッドサッカーみてぇな商売人もいいな」
その時、通信機器がけたたましい音を立てた。表示されたコードはフィリップだ。
「助けてヘンリー!!」
画面に現れるなり、黒衣のフィリップは矢継ぎ早にまくしたてる。
「シャシャがブールゴーニュ本領を狙って攻め込んできてる。頑張ったんだけど、ついにコヌまで包囲されちゃって…。このままだとディジョンがやばい。どうしたらいい⁉」
コヌはパリからの街道沿いの城砦である。コヌが破られれば、後はもうブールゴーニュ公国の首都ディジョンまでは筒抜け状態だ。
「分かった。オレが救援に行く」
「ほんと…? 体調悪いんじゃないの? 来てくれるのは嬉しいけど、大丈夫なの?」
「平気だ。そろそろ体動かさないとな」
だが、その道中でついにヘンリーは倒れてしまった。
指揮を引き継いだジョンは、この事実をフィリップだけに告げる。
一方でヘンリー自らが援軍を率いて来ると知ったシャシャは、コヌを包囲していた軍をすぐに撤退させた。
「ヘンリーのおかげで助かったよ、ありがとう。それで…かなり悪いの?」
「わからない。もう…」
ジョンはそれ以上続けることができなかった。
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