第4話 あなたがいる景色
ウィンザー城の一室から、ケイトは窓の外を見下ろした。夕刻、夏の終わりを告げる虫の声が森から微かに聞こえる。
ロンドンは空気が悪い。妊娠生活には良くないだろうと、ヘンリーがこの重厚で巨大な古城を勧めたのだ。ロンドンから21マイル(34km)と近く、街には城下の賑わいもある。
「イングランドは妖精の国なんだ」とその筋肉に似合わないことを言いながら、ヘンリーはたくさんの景色を見せてくれた。幼少期を修道院で過ごし、宮廷に戻されてからも出かける余裕などない生活をしてきたケイトにとって、旅行は産まれて初めての経験だった。
「ケイト様、また陛下のことを考えているのですね?」
「え?」
「手が止まっていますわ」
侍女のルイーズとクロエがにこにこ見ている。
「離れていても、想わずにはいられないのでしょう?」
「もう……違うわ、旅のことを思い出していたの。本当に楽しかったから」
「そうですわねぇ、ケイト様ったら『スピーダーの後ろに乗せてくださいまし』なんて急に仰るんですもの」
「その時の陛下のお顔といったら!」
「『ダメにきまってんだろ! パンツ丸見えだ!』って」
「でもケイト様も諦めないんですものね」
スカートの下に履くペチパンツを一日で縫い上げたのだ。しかしヘンリーも譲らない。
『ダメだ危険すぎる。スピーダーってのは事故ったら生身で放り出されて、全身複雑骨折で千切れてグッチャグチャになるんだからな!』
『その危険は陛下とて同じでしょう? お止めになってくださいと何度もお願いしているのに……私のお願いは聞いてくださらないのに……』
『う、それは……おおオレは体が丈夫だからな』
『そうでしょうか。この間椅子の脚に小指をぶつけて涙目になっていたのを見ましたけれど』
『………』
『一度体験したら、私にも楽しさが理解できるかもしれませんけど』
『……ワカリマシタ』
そんなわけで、ヘンリーは大剣をスピーダーに据えた。
『いいかジェーン、超——安全運転だからな。わかってんな!』
『もっちろんいつも通り安全第一! ケイトと一緒~ワックワク!』
最初こそ、ケイトはキャッとなった。しかし。
『もう少しスピードは出ないのですか?』
『悪ぃ風の音でなんも聞こえねぇわ』
スピードメーターは19マイル(30㎞)/h。
「ケイト様がスピード狂だとは知りませんでしたわ」
「遅すぎるんだもの! ご自身は時速190マイル(300㎞)で飛ばすくせに!」
「でもケイト様がスピーダーで後ろから抱きついた時、陛下が嬉しそうな顔してらしたのを、私見逃しませんでしたわ」
「本当?」
「あ、顔が赤くなってらっしゃる~!」
ウフフ顔の侍女二人も、とっくにヘンリーファンである。どこへ行ってもヘンリーは大人気で、その熱狂と祝福はケイトにも注がれた。仇敵フランス王家出身にも関わらずだ。
「わっ、
「はいはい、分かっていますわ」
三人は英語の勉強中だった。
「ではケイト様、もう一度いきますわよ、腕は?」
「アーム」
「肘は?」
「エルボウ」
「手は?」
「ア……ハンド」
「指は?」
「ええと、フィングル……ではなくてフィンガーズ」
「そうです! では爪は?」
「爪? 何だったかしら。あ、ネイルズ!」
「その通りです。いい調子ですわ。hの発音も完璧」
hand。
寝台の中で、ヘンリーは冷たい手でいきなりケイトの体に触れるのは気が引けるらしく、最初は指の腹で触るか触らないかの距離でそっと撫でてくる。それは逆にケイトの肌を敏感にし、ヘンリーの厚い手の皮を感じて気持ちを昂らせた。
そのうち互いの全身が熱くなると、ケイトをかき抱くヘンリーの手の冷たさは狂おしいほどの愛しさを体内に巻き起こし、いつもケイトは声を上げた。ある時、声が出てしまうのは恥ずかしいと打ち明けると、それからはキスで塞いでくれるようになった。
そして目覚めるといつもヘンリーはもういなくて、白い紙で作った百合の花が枕に置いてある。最初はぐちゃぐちゃで、ぱっと見何なのか分からなかった。何度も折り直して苦戦した跡が見えたし、折り目が合っていないので、四枚の花びらはいびつでそれぞれ大きさが違う。
けれど、筋肉質で大きな体の人がチマチマ作ったと思うと無性におかしくて、嬉しい。夜明けには必ず置かれていて、今回の遠征前には完璧なものを作り上げていたものだ。二人だけの秘密にしたくて、全部とってある。
「ケ・イ・ト・さ・ま」
「またぽ~っとなさって、さてはエッチなことを思い出していらっしゃいます?」
「そ……そうじゃないわ!」
思わず赤面すると、部屋は華やかな笑いに包まれる。
「でもこうして笑えるようになってくださったのは何よりですわ」
「ええ、陛下も相当にご心配なさっていましたからね」
フィリップの妻で実姉のミシェルが亡くなっていた。苦しい修道院時代を共にしてきた姉との突然の別れにケイトの喪失感は大きく、しばらく塞ぎ込んでいたのだ。
そして死因は毒で、犯人は母のイザボーという噂が、ケイトをより一層苦しめている。アングロ・ブールギィニョン同盟を解消させるべく、母とシャシャが策を
「お姉さまはブールゴーニュの妻として生きたのだわ」
愛する夫の為に母の干渉を防いでいたであろうことは想像に容易だ。
皮肉なことにヘンリーが女傑と賞した母なら、シャシャを守るためにやりかねないと思ってしまう。
「だからお姉さまの分まで私がしっかりしなくてはね」
ヘンリーの戦は、もはやプランタジネットの大義とは別のところにある。
しかしたとえどんな大義があろうと、ケイトには戦を肯定できない。たくさん話をして、愛が深まっても、それだけはフォンテーヌブロー城の庭園で最初に散歩した時から変わらない。
けれども、共に過ごして分かったこともある。彼は小さな景色には収まっていられない人だ。己の力を証明すべく枠を突き破ったのは、必然なのだろう。
これまでのイングランド王は皆、宮廷内ではフランス語を公用語にしてきた。プランタジネットの祖はフランス貴族だからだ。フランス王はイングランドを臣下と思ってきたし、イングランド王はフランス領土の継承権があると主張してきた。
しかしヘンリーは英語で公文書をしたためる。重要な会談では必ず通訳を置く。フランス語に不自由はしないのにだ。
それは、まぎれもないイングランド人の王の姿勢だった。ヘンリーは自ら新たな伝統を作り上げようとしていると、ケイトの目にはそう映る。
「陛下のように大きな景色を希求する気持ちは、今も理解できないわ。それでもお姉さまの想いを継承したいの」
たとえ母と敵対することになっても、イングランド王妃としてヘンリーとフィリップの思いを形にする支援をしたいと思う。
「ケイト様、覚えていらっしゃいます? 結婚など誰ともしたくないと仰っていたことを」
「もちろん。だって私はヘンリー五世に無理やり嫁がされた、戦の犠牲者よ?」
そう言って、また三人でクスクスと笑いあう。
新婚の頃、ヘンリーはパリ攻略のため単身赴任だったが、前線を抜け出してちょくちょくトロワまで会いに戻ってくれていた。
それをハンフリーに話すと「あのヘンリーが戦列を離れるなんて、変わったよね。オレの彼女はさ〜、早く帰ってきてねって涙なが(割愛)」と恋バナが始まり、遠征前に二人で大いに盛り上がったものだ。
「王妃様、少し休憩なさってはいかがですか。大事な時期なのですからご無理はなさらぬように」
レモンを絞った炭酸水を運んできたのは、秘書官のテューダーだ。ケイトと同い年の青年で、三人の英語の教師役でもある。
「あらテューダー。この二人のせいでさっきから休憩ばかりよ」
「え~! 脱線してばかりなのはケイト様の方ですわ!」
ウィンザー城の一室が更に明るい笑いに包まれる。ほんの少し膨らみ始めたお腹をケイトは撫でた。
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