第10話 ラストキス

 高いアーチ型の天井に、雲一つない夜空のような凛とした空気が立ち昇る。ステンドグラスが祝福の光をたたえると、トロワ大聖堂に妖精が舞い降りた。


「可愛かったなぁ、カトリーヌ」

 挙式が終わってもまだ、ハンフリーは夢見心地のようだ。壮麗な結婚式はまるで絵画を眺めているようで、現実感がないのはトマスも同感だった。


「求めていたものを手に入れたな、ヘンリーは」

 次はアルマニャック派の残党を蹴散らし、いよいよパリへ。そしてフランス王になった暁には、全土を手に入れる。まだ課題は山積しているが、ヘンリーならやり遂げるだろう。今日の姿はそう確信させるようだった。


 新郎新婦が寝所に下がっても、祝福の宴は勝手に続けられていて、トマスは同盟相手の接待を引き継がねばならなかった。

「ハンフリーを潰してくれたみたいだな?」

 それまで相手をしていたハンフリーは、青白い顔で足取りもおぼつかなく出て行った。もう戻ってこられないだろう。


「僕のとっておき、飲んでみる? ヘンリーにもあげたんだけど」

 そう言って、ブールゴーニュ産最高級ワインをなみなみと注ぐ、フィリップの酒の強さは驚異的だった。とっくに酔っているのに全く終わりが見えない。しかも一人でよく喋る。


「兄弟仲が良いんだね。僕は男兄弟がいないから羨ましいな。顔はヘンリーと君、ジョンとハンフリーが似てる。でも性格はヘンリーとジョンが几帳面、君とハンフリーは大雑把。どう? 合ってるでしょ」

「四人ともスピード狂なんでしょ。みんなよくついて行くよね。イングランド軍頭おかしいって言うけど、ホントそう思うよ。でも僕は一緒に走らないからね」


「カトリーヌと僕の妻は姉妹だから、僕とヘンリーも兄弟ってことだよね? んふふふふふふふふふふふ。いい響き」

「こいつは僕の家臣のリュクス。ちょっとヘンリーっぽくていい男だろ? でも酒には弱いから飲ませないでよ」


 絶え間なく飲み続けながら、こんな調子が真夜中を過ぎてもまだ続く。既に宴会場には人もまばらである。酒の強さには自信があるトマスもさすがに疲れて、フィリップを置いて一人外に出た。


 朝から続いた雨は小雨になっている。外廊をしばらく歩き、裏庭で足を止める。

「ヘンリーは雨男だな。戴冠式は嵐だったし、アジャンクールの前も篠突く雨だった」

 一人ではない。暗がりから音もなく現れた女が、隣に佇んでいる。


「まさか王太子の側近が無怖公をやるとはな。誰も仕組んだとは思わないだろう。以前、無怖公の軍勢にポントワーズで喧嘩ケンカを仕掛けたのもお前たちだろう? アルマニャック派へ魔術でもかけたのか?」


 ルーアンを攻略していた時だ。政権に復帰した無怖公は、フランスを防衛するという建前上出陣せざるを得なくなった。だがポントワーズで合流したアルマニャック派の軍勢と、提供された肉の大きさで始まったケンカが暴力沙汰となり、軍を散開してパリに帰ってしまったのだ。援軍を得られなかったルーアンはその後すぐに陥落した。


「異端者なので魔術は得意技と言いたいところですが、生憎あいにく。何年もかけて準備してきましたので」

 口先では支援を約束しておきながら、曖昧な態度を取り続けるブールゴーニュ派を直接焚き付けるのではなく、ヘンリーは敵方のアルマニャック派を利用し、巧みに両者を争わせた。ブールゴーニュを引き入れられるかどうかで、フランスでの戦局は大きく変わるのだ。


「ああ、見事だった」

 ヴァイオラはいつものグリーンのワンピースではなく、結婚式に参列した貴婦人らしい姿だった。

「ヘンリーの晴れ姿を見たかったのだろう? 良い結婚式だったな」

「はい。この上なく素晴らしかったです」


「で、ヘンリーを盗られたような気になってる。違うか?」

「まさか、アタシなどがそんな気を抱くことすら畏れ多く」

「俺もだ。俺もヘンリーを盗られたような気になってる」

 トマスは唇を歪める。


「頼ってくれたし、俺にだけ本音を打ち明けてくれたこともあった。けどこれからはカトリーヌがいるもんな」

 いいえ、とヴァイオラは首を横に振る。

「兄弟でしか、男同士でしか分かり合えないことがあるでしょう」

「そうかな」

 これからも頼ってくれるかな。しばらく無言のまま、並んで雨の音を聞く。


「昔、どうせヘンリーから相手にされなかったから俺なんだろうと、お前に言ったな。ずっとそれを謝りたかった。お前の心を踏みにじってしまったのを許してほしい」

「異端者相手に懺悔するのですか」

「やっぱり、覚えてたか」

 ヴァイオラは答える代わりに、薄い三日月のような笑みを浮かべる。


「お前にとってヘンリーは神に匹敵する至高の存在だろう? 幼い頃から俺は何をやってもヘンリーに敵わなくて、だから当て付けであんな事を言ってしまった。ヘンリーに憧れるお前を傷つけることで、矮小な自尊心を守りたかったのだな」

「分かります。アタシもいつも忌み子扱いで、尊重されるのは双子の弟ばかりでしたから。でも弟は優しくしてくれて、余計につらかった。ヘンリー様もお優しいでしょう? だからアタシは、そんなトマス様をずっとお慕いしてたんです」


 初めてヴァイオラはそれを口にした。何度も抱き合ったのに、一度も言わなかったのに。

 しかし過去形で、彼女にとってはもう終わった恋なのだ。


「お前に愛されていた。あの時は気づかなかったがそれは幸せなことだった」

「……幸せだったなんて言わないでください。その瞬間のトマス様を一人占めできるだけで、アタシはよかったんです」

「今なら、お前が別れを告げた時の気持ちもわかる」

「もう終わったことです」

 松明に浮かぶ横顔は、研磨した水晶のように透明で鋭い。しかしひび割れそうな儚さが透けていて、トマスは手を伸ばす。


「ヴァイオラ」

「今のトマス様は優しすぎます! 前はそんなじゃなかったのに……」

 一歩退いて、ヴァイオラはその手を拒否した。

「お前は変わらないな。あの頃のままだ」

 時が流れたのだ。その間にトマスは結婚し、死別し、矮小で凡庸な自分を収める器を手に入れた。それは、ヴァイオラにとって面白くないだろう。彼女は何も変わっていない。あの頃に一人置き去りのまま、不安定な形で漂っている。


「だから寂しくて、一瞬の優しさを求めるのだろう? 昔の俺が、お前にそうしたように」

 水晶のように尖った彼女の美貌には心が躍ったが、それは兄に対する濁った羨望と嫉妬を流し込むだけのもので、ヴァイオラという存在を欲したわけではなかった。


 普段、感情の起伏を見せないヴァイオラが声を震わせる。

「迫害で仲間や家族を殺されて、この世界に居場所を失って、どん底で何も感じなくなっていたのに、トマス様の心無い言動には傷つきました。愛していたから……、その痛みが、アタシの生きている証でした。でも、もう忘れたんです。だから今更優しい言葉なんてかけないでください」


 その場を離れようとする腕を、トマスは掴んだ。

 相手は女性とはいえ暗殺までこなす密偵である。振り払おうとする力も、トマスが掴む力も相応に強い。

 だが視線がまっすぐにぶつかり合うと、その力は急速に失われた。もう逸らすことはできなくて、魔法にかかったように手繰り寄せられる。


 互いに息も忘れるほどキスした。何もかもが消し飛ぶような愛しさの渦の中、体がきしむまで抱き合う。


 王弟が異端者と情を通じているなど、もし明るみになれば、政権の足元を揺るがすスキャンダルだ。そのダメージは自分たちにではなく、すべてヘンリーに降りかかる。誰より、ヴァイオラがそんなことは望まないし、許さない。


 ———だから一度だけ。これが最後だ。

 荒ぶる熱に全てをゆだね、もう一度瞳を閉じた。

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