第7話 カトリーヌ
庭園の池のほとりで、彼は二羽のアヒルに餌をやっていた。
「ご機嫌麗しゅう、カトリーヌ王女」
英語ではなくフランス語だ。今朝は水色のラフなシャツに、こげ茶色のくせ毛をゆるくまとめている。
「会談の間にすっかり仲良くなってしまって。あげてみますか?」
パンくずを手渡され、一瞬触れた指先が冷たい。
放ってみると、思っていたのと全然違う方へ行ってしまった。するとクワックワッとお尻をふりふり追いかけていく。
「まあ、かわいい」
「でしょう? あっちがクワ太郎で、こっちがヴィヴィ子」
予想外のネーミングに思わず吹き出してしまう。
「お上手ですこと」
「とんでもない。笑ってくれなかったらどうしようかと」
すると戻ってきたヴィヴィ子が、もっとくれとカトリーヌのレモン色のスカートを食べる。
「きゃっ」
「こらこら、食い意地のはったお嬢様だ」
ヘンリーがヴィヴィ子を抱えて池の方に放つと、なによー! とぶりぶりお尻を振って池に入り、スーッと泳いで行ってしまった。
半歩の距離の彼は、目を背けたくなる恐ろしい傷跡と、思わず見入ってしまう琥珀色の綺麗な目をしている。
「会談はなかなかうまく行きませんわね」
「ええ。完全な合意は難しいでしょう」
二人はゆっくり歩き出す。
「以前、ブールゴーニュのフィリップ殿から聞きましたが、姉君と仲が良いのですね」
「はい。姉とは同じ修道院で育ちましたので」
「預けられたのですか?」
「父は病気、母はああですから、育児放棄されました。お恥ずかしいことに、私たちはとても貧しかったのですよ」
「私も父からは遠ざけられていたし、お気持ちは少し分かります。戦場育ちなので
ヘンリーは自分の右顔面に触れる。
「十三歳からずっと戦場にいて、この醜い傷は十六の時に。右目はほとんど見えません」
だからだろうか。片目だけの視線は、カトリーヌが今まで男性から向けられてきた、大嫌いなそれとは違う。顔や体ではなく、彼は人の目を、その奥を直視する。しかし不思議と不快ではないのだ。
会談の場に現れたヘンリーは鮮烈だった。太陽のように近づき難く、カトリーヌは畏怖の念すら覚えた。
しかし彼は己の野心のために戦争を起こし、無抵抗の市民を虐殺した冷酷王である。フランス王家にとっては
迷うことなくカトリーヌは尋ねる。
「なぜ、無抵抗の人々を殺害したのですか」
するとヘンリーも、微塵も揺らぐことなく答える。
「手段だからです。いくつかの手数のうち、自軍にとって最も合理的なのがそれでした」
「理に
「
「私にはとても…。理解しかねます」
「私があなたでもそう言いますよ。けれど、何もかもを手段と割り切れるほど私はできた人間ではなくて。顔の傷と同じように、今回の遠征の痛みは生涯消えないと思います」
冷酷王の名も、醜い傷跡も
「十三歳から、あなたはずっと———」
琥珀色の目に浮かんだ孤独な光に同調しそうになり、カトリーヌはあえて冷たく放つ。
「私との結婚も、あなたにとっては手段の一つなのですね」
ヘンリーは口を開きかけたが、侍女を引き連れ近づいて来た女性の姿に会話を止める。
「ご機嫌ようヘンリー陛下」
「これはイザボー王妃、ご機嫌麗しゅう」
差し出された手の甲にヘンリーは口づけた。そのままイザボーはヘンリーの手を両手で包みこんで離さない。まるでカトリーヌなどこの場に存在しないかのように話しては、ヘンリーの視線を奪っていく。
途端にカトリーヌの中で何もかもがどうでもよくなり、二人に背を向けた。
「待ってください、カトリーヌ」
しかし、追おうとするヘンリーの横ですかさず母が足を滑らせたフリをするのがわかる。きっと彼の腕につかまって、胸を押し付けるのも忘れないだろう。
だが、どうやったのかそれを一瞬で振りほどいたヘンリーに、後ろから手をつかまれた。触れ合った手のひらの冷たさにはっとして振り返ると、彼は少しホッとしたように口元を緩ませる。
「部屋までお送りしましょう」
カトリーヌが手を引っ込めるとヘンリーはすぐに放したが、その後ろから母の目線に焼き切られる思いだった。
母は他者への希求が強く、一人きりに耐えられない。常に誰かと居たくて、繋がる手段として性行為で心身の安定を得るのだ。愛人の不在時、息子への執着は尋常でなかったと、今は亡き兄のルイが言っていた。
『母上は、父上を深く愛しているんだ。それが病気になって突然見向きもされなくなって、寂しくてどうしようもないんだよ』
と言う兄も常に女性に依存していたが、それにしてもだ。
年齢を重ねるごとにより貪欲に、恥も恐れも無いこの目は。母親とは娘をそんな目で見るものなのか。だったら娘など産まなければよかったのに。
ヘンリーの背中に、再びイザボーがにじり寄る。
「若い娘の方がお好きでしょうね。けれど熟れた果実の味も悪くないものですわよ」
「王妃はとてもお若いですよ。若さを保つ秘訣を教えていただきたいものです。名のある男たちの精を体内に吸い上げることですか?」
発言にカトリーヌは驚いて、思わずヘンリーの顔を見上げる。しかしイザボーは魅惑的な笑みを崩さぬまま答える。
「うっふふ、何のことでしょう…? とは言いませんわ。酸いも甘いも、あらゆる欲も舐め尽くした女に全て委ねてみてはどうかしら。若い娘にはない安らぎがありますわよ」
「それは惹かれます。ああ、ですが、私は安らぎを求めてはいないのですよ。ただ征服したいだけですから、己の欲に忠実で居させてもらいます」
「あらっ、ますます魅力的ですこと。端正なお顔の裏側、秘めた欲望の姿を暴きたくなりますわね」
「秘めているつもりはないのですがね」
「ベッドの中で、陛下はどんなお顔をされるのかしら」
いつまで続くのだろう、カトリーヌがそう思った時だ。
「体一つで話がつくなら、王妃の代わりに私がブールゴーニュ公と一夜を共にしても構いませんよ」
イザボーが絶句した。フランス王妃という最高位の女性本人の前で、言わなくていい不倫関係をわざわざ露呈したのだ。なおかつ、同性間の行為は異端で、即処刑である。本来口に出すことすら
———神の怒りなど意に介さない。ましてや、フランス王家など眼中にない。
ヘンリーはそう言ったのだ。
イザボーが屈辱と怒りに震える間に「では失礼」とカトリーヌを連れて、すかさずその場を後にする。
「すみません、母君を怒らせてしまいました。お怒りがあなたやシャシャ殿下に向かわなければよいのですが」
「私たちなら慣れていますので。でも母の機嫌を損ねては会談の結果が…」
「ええ、絶望的でしょうね」
分かって一蹴したのだ。なんという傲慢で、尊大な人だろう。しかし、胸がすく。
「……我が母ながらお恥ずかしいです」
「母君の交渉手腕を見せつけられました。御病床の国王に代わり国の舵を取り、あなた方を守ってこられた。母君は真の女傑であられる。怒らせて逃げ出した私の完敗ですよ」
カトリーヌにはとうていそうは思えないが、少なくとも母をそんな風にいう人は初めてだった。
「これからどうされるのですか?」
「次の手を打たねばならないでしょうね」
「それは何ですか」
「知りたいですか? 内緒です」
ちょっと笑う。それから、カトリーヌの目をじっと見つめて言った。
「カトリーヌ、先程、結婚は手段の一つなのかと言いましたね」
「はい」
「その通りです。しかし、私はあなたの心が欲しい」
鼓動が、一度強く打つ。それから体中が熱くなるのを感じて、焦るような気持ちになる。
「心など、お渡ししたくありません」
だからとっさに言ってしまった。しかしヘンリーは頷く。
「そうでしょうね。あなたの心を手に入れるより、王国を征服する方がよほど
と、琥珀色の目を細めた。
□■
五週間に渡った和平交渉の結果、イザボー王妃はイングランドの要求を正式に断り、情況は変わらぬままであった。
これに、即座にヘンリーは次の手を打つ。パリからわずか20マイル(32㎞)のポントワーズを徹底的に破壊し略奪しろと、ビーチャムに命じたのだ。
突如の攻撃にフランス王家と政権を担うブールゴーニュ派は大混乱し、王家はパリからトロワへ逃亡した。
目と鼻の先を脅かされ怒り心頭なのは、無怖公である。
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